或いは最悪の日



 セピア・バルディオルは不運の人だ。

 軍人としては名の知れたバルディオル家に生まれ、2つ飛び級して入学した士官学校を首席で卒業し、異例の速さで昇級を繰り返したセピアは、ずば抜けた身体能力とセンスを買われてすぐに本部に配属された。
 あれよあれよと言う間に本部少佐の補佐まで上り詰めたセピアは、まだ20歳になるかならないかというある年の夏、補佐をしていた少佐と数名の幹部が起こした反乱に巻き込まれ、反逆者の汚名を着せられることになる。

 何がなんだか解らない間に参級指定の犯罪者になり、セピアは逃亡生活の中で地下の“街”に堕ちた。更に不幸なことに、迷子になってたどり着いたのは“街”でも最底辺のZ地区だった。
 余所者なら半年生きていられれば上等というZ地区で2年生き延びたセピアは、住んでいた廃墟を爆破した賞金稼ぎを返り討ちにして街を歩いている途中で、「ILL」の幹部だとい仁王という男に出会う。

 最初は誘いを断っていたが、仁王から自分が参級から弐級指定賞金首に昇格させられたことを聞き、何だか人生がどうでもよくなったセピアはその勧誘を受けた。


 ―――以来、弐級指定同士の喧嘩に巻き込まれて部屋を爆破されたり、付き合った肆級指定の彼女に痴話喧嘩で殺されかけたり、「世界の敵」とも呼ばれる零級指定に顔を覚えられたりと、その人生はあいかわらず不運である。










「金銭感覚っつぅの?そういうのは確かに変かもな」

 ガタガタと不規則に跳ねるバンの中。助手席で雑誌を読みながら、今日の仕事の相棒である悦はぽつりと呟いた。

「あぁ…そりゃ、あれだけ稼げばな。1つ仕事しただけで億単位だろ?金銭感覚もおかしくなるだろうよ」
「違う違う。そういうんじゃない」

 転がった電柱をハンドルを切って避けながら溜め息交じりに言ったセピアに、悦は読み終わった雑誌を後部座席に投げて首を振る。

「違う、ってのは?」
「セピアが言ってンのは、どうでもイイもんにまで凄ぇ金かけるとか、何買うにも高級品選ぶとか、そういう話だろ?」
「そうじゃねぇのか、金銭感覚がおかしいってのは」

 それとも貧乏の方かと片眉を上げたセピアに、悦はお前と一緒にすんなとにべもなく言い捨てた。
セピアからしてみれば、弐級指定の中でもそれなりの仕事数があり、一般で言えば十分な高級取りのセピアを貧乏人、と言い捨てる悦の金銭感覚もなかなかのものだ。

 ただでさえ別格の壱級指定の単価に、指名料やらオプションやらが上乗せされ、抱えている顧客の質も桁違いの悦を基準に考えては、この世の人間の90%は貧民か大貧民になってしまう。



「解らねぇな。つまりどういうことだ?」
「例えば、服…ジーンズとか買うとするだろ?」
「おう」
「いくら出す?」
「そうさな…いっても10万ってとこか。ジーンズなんてそんなに高価なもんじゃねぇだろう」
「傑は200万かけるんだよ」
「にっ…200!?ジーンズ一本にか!」

 さらっと答えた悦に思わず前につんのめりそうになりながら、セピアは助手席の悦を振り返った。それに鷹揚に頷き、悦は「70年もののビンテージらしい」と付け足す。

「凄ぇな…そんだけ高ぇなら手入れとかも大変なんだろ?」
「そんなのしてねぇよ」
「あぁ、プロ任せか?代わりに手入れしといてくれるっつぅ」
「必要ねぇんだって。買った次の日には血まみれのズタボロにして捨てたから」
「は!?」

 ―――捨てた?200万のジーンズを2日で?
 それだけ出すなら、さぞかしジーンズに思い入れがあるのだろうと思い込んでいたセピアは絶句した。それを横目にしつつ、悦は手を伸ばしてセピアの代わりにハンドルを切り、道に仕掛けられていた地雷を避ける。

「ンだそりゃ…ビンテージってのはもっと、こう…大事にしなきゃいけないもんじゃねぇのか」
「だから言ったろ、金銭感覚おかしいって」
「いや。金銭感覚ってより…物の価値が解って無いだけなんじゃねぇのか?」
「あぁ、それはある。200万のビンテージと600円のユーズド同じ扱いするからな、アイツ」
「…解らなすぎだろ」
「やっぱり?」

 セピアが紹介したミリタリーブーツの紐を締めあげ、無駄のない動きでショットガンに弾を装填しながら、悦はセピアを上目づかいに見て苦笑した。

「でもよ、お前が言えば直るんじゃねぇのか、その辺は」
「言うには言ったんだけど…」
「けど?」
「“燃やせば同じ灰になるだろ”だって」
「…返す言葉もねぇな」

 少し低めの声で言われたその言葉に傑の姿が重なり、少し背筋がゾクリとしたのを隠すように咳払いして、セピアは悦から顔を反らした。
 セピア自身はノンケで男などには一片の興味も無いのだが、傑というのが同性でも惚れるような、それは男前な外見をしているのだ。少し低めのあの甘い声に囁かれて落ちない女などこの世にはいないだろうし、男だって、

「…いや、待て待て。俺はノンケだ」
「別に聞いてねぇから。寝ぼけてねーでさっさと準備しろよ」

 自分に言い聞かせるようにハンドルに頭をぶつけたセピアの苦悩など無視で、悦は弾を込めたショットガンを放った。

「さっさと済ませろよ。4時にド・アエールジュのチーズケーキ焼き上がりだから」
「…おう」



 アクセルを踏みこまれて唸りを上げたエンジン音に、後部座席に積まれた時限爆破装置の警告音が重なった。










「相変わらずしょうもない仕事でしょうもない怪我してしょうもない人生だなお前!もう丸っと全部ひっくるめてしょうもねぇなどうしようもねぇなよく生きてるよな何が楽しくて生きてるのか疑問だよ。すごく疑問だよ俺」
「…繰り返すな。うぜぇから」

 ガムテープで額に張られたガーゼをべりべりと剥がしながら、セピアは正面に座る奇妙な姿の男をうんざりと見上げた。
 蛍光緑の髪を高い位置でポニーテールにし、目元には橙色の色眼鏡。首から左頬にかけては蛇と蝶のボディシールが貼られ、緊迫感をあおるBGMと爆音を響かせる携帯ゲーム機を叩く指の爪は、真っ赤に染まっている。

 ゴシック・ヤン。キュールと共に参級を担当する幹部の1人だが、セピアはゴシックに会う度に、この男を幹部に選んだ『ボス』の神経を疑う。


「大体な…何でてめぇがここにいるんだ。幹部様はご立派な執務室でご立派に会議でもしてろってんだ」
「はっはっはぁ残念そんなご立派な会議に俺は呼ばれねぇんだよ残念ながら!非常に残念だよなぁオラ20連勝目ぇ!!」
「……」
「どーよ今の芸術的背面回避及び斬裂剣から魏突10連かーらーの脳髄頂点直滑降斬り!」
「相変わらず意味わかんねぇモンやってんな。前のパズルゲーはどうした」

 少年のように得意げな表情で不可思議な言葉を喋るゴシックに、傷口を指先で触って出血を確かめながら、セピアはゴシックの手の中にあるゲーム機の液晶を盗み見た。
 主人公らしい鎧姿の男が竜の脳天に剣を突き立て、男臭くガッツポーズを取っているところを見ると、どうやら今度のゲームはアクションものらしい。


「あんなもんとっくの昔に全クリして衛星リンクのトップもボロッボロに負かして全パタ1375も3周したっつーのもう飽きた」
「相変わらず気違いじみたゲーマーだなお前は…」
「ノンノン俺はゲーマーでバレたら檻の中直行レベルのハッカーでアニオタで革命的DJで機械オタだから」
「つまり末期的なダメ人間ってことか」

 無愛想なウエイトレスが運んできたラーメンを受け取りながら、セピアはどうでもよさそうに相槌を打った。
このラーメンは食堂のメニューの中でも一番マズイと評判らしいが、セピアはこの食堂でラーメン以上に美味いものなど食べたことが無い。

「弐級指定に言われたくねぇしつーか犯罪者とかダッセ。綺麗な蝶になるかと思って汚ねぇ蛾のサナギ毎日観察してた小2の俺よりダッセ」
「他と一緒にするんじゃねぇ俺は冤罪だ!」
「なおさらダセぇよバーカお前の人生全部ひっくるめてバーカ」
「てめぇいい加減に―――」

「ゴシック!」



 半ばうんざりしながら軽くテーブルを叩いたセピアの声を、それを遥かに上回る轟音のような声がかき消した。
 耳鳴りがするほどの声量を持つ人間など“ILL”には1人しかいない。おそるおそる振り返ったセピアとゴシックの視線の先。


 ―――お盆を抱えて呆然としているウエイトレスの隣に、鬼が立っていた。


「に、仁王…」
「こ、こんちわ、小父貴…」
「何が“こんにちは”だ、この大馬鹿者めがぁあ!」

 冷や汗を滲ませながらも軽く手を振って見せたゴシックにそう叫び、素手で熊を殴り殺すという禿頭の巨漢―――泪と共に弐級を担当する仁王は、地響きに近い足音を響かせてセピアの向かいに座るゴシックに歩み寄る。

「今日は重要な議題がある故必ず出席しろと昨日言ったであろうが!なのに貴様はこんな所で何をしておるか!」
「ち、違うんだよ小父貴」

 ただでさえ大柄な上、スキンヘッドで目つきも悪い仁王に怒鳴られるのは相当怖い。ラーメンが伸びるのも忘れて、まるで人形のように胸倉を掴まれたゴシックが宙に浮くのをセピアは呆然と眺めた。

 ゴシックの性格を知っている者ならここでまず巻き込まれない内にその場を去ろうとするのだが、生憎セピアにはそういった危機感知能力が欠片も無い。


「しょうがなかったんだよだってセピアがさぁ連係の仕方どーしても教えて欲しいって言うから。コイツ弐級だしそんな極悪人に言われたら非力な俺には従うより他に道がねぇっていうか逆らったらぶっ殺?」
「はあ!?てめぇゴシックいい加減なこと―――」

「れんけいとは何のことだ?」
「ゲームだよゲーム」
「待て待て待て!おい仁王、俺はこいつにそんなこと―――」
「セピアぁああ!貴様いい歳をしてゲームだアニメだと下らんことばかりしおって!!」


 頼んじゃいない、と続くはずだったセピアの弁解は、鼓膜が破れそうな怒声にまたもやかき消された。今度は至近距離だから更に酷い。

「いやいや違ぇから!そもそもアニメ関係ねぇし!落ち着け仁王!」
「やぁかましいい!!今日も今日とて下らん任務で怪我など負いおって弐級の恥さらしめがぁあ!!」

 鬼の怒りの矛先は完全にセピアに向いてしまったらしく、仁王はゴシックの胸倉から放した手で、そのままセピアの腰に機関銃を吊っている革帯をひっつかんだ。
 咄嗟にセピアは腰を沈めて耐えようとするが、度を越した怪力の仁王によってその姿勢はあっさりと崩され引き寄せられてしまう。


「恥さらしも何も、弐級の時点で人間としては立派に恥だろうがよ!」
「問答無用!貴様の軍警育ちの軟弱な性根、我が叩き直してくれるわ!!」

 世界で最も厳しい規律と訓練で知られる皇国軍部警察を軟弱、と言い捨てるなど普通では有り得ないが、東国の“武士”という戦闘民族出身の仁王にとって、そんな肩書は端から眼中に無いらしい。


「ちょっと待ッ…ゴシックてめぇ!」
「いやー助かったさすが小父貴これで俺も心置きなく会議に参加できるってもんだよマジでいや実際マジで」

 仁王に引きずられながら叫んだセピアになど見向きもせず、ゴシックは例の通り適当なことを言いながら再びゲーム機を弄り始めた。


「ふざけんじゃねぇなんで俺が!」
「強制的にご協力痛み入りますってもんだ“学習能力”ってアビリティが余ってたら今度分けてやるよバルディオル」

 往生際悪くもがくセピアに向かって中指を立て、3つのピアスが通った舌を出して見せるゲーマーに、会議に参加しようとする気配は勿論、無い。










「しかシ貴方もつクづく不運極まリないヨうだ。貴方のヨうナ人はセコい悪党の見え透いタ嘘に騙され散々利用さレた揚句に犬死にしソうでスね」
「止めてくれ…冗談に聞こえねぇ」

 ぐったりと疲れ果てた声で言いながら、セピアは腰に吊った機関銃のベルトの位置をずらした。仕事で軽く血を流した上、2時間も仁王の説教に付き合った後では、心なしか重みが増したようにも感じられる。
 そんなセピアの様子に、仁王の自室から出た所で偶然鉢合わせた「美術商」のイザヤは、自分の倍ほども身長のあるセピアを見上げた。


「体力及ビ筋肉馬鹿の貴方らシくもなイ姿だ、“脆き戦車”。世界随一ノ軍警員も除隊5年も経テば鈍りますカ」
「5年?…もうそんなに経つか」

 まるで老人のように遠い目をして呟いたセピアに、イザヤは顔の右半分だけで笑うと、頭から爪先までをすっぽり覆う暗幕のようなローブの合間から、小さな球体を握った白塗りの細い腕を差し出した。

「ナんと情けナイ。今の貴方は戦車ト言うより寧ろスクラップですな」
「悪かったな、お前の『表題』に添えなくてよ。…何だこりゃあ?」
「小生が先日開発しタ新しい『インク』です。全てヲ失った敗北者にハ色濃い退廃がよく似合ウ。題して“廃車”でハいかがでシょう」
「いかがもいがぐりもあるか、どうせ毒でも入ってんだろ」
「まサか。そノように陳腐な演出でハ戦車たる貴方ニ申し訳が立たナい」


 受け取った球体を軽く放り投げてキャッチする、という動作を繰り返しながらのんきに笑うセピアに、顔の左半分を黒いな面で覆ったイザヤは、白く塗られた半分の顔の中、毒々しいほどに赤い唇でにんまりと笑う。


「そちラ、小生が先日完成さセましタ小型核爆弾になっテおりまス」
「か、核爆弾!?」
「左様デす。効果は皇都を吹き飛バす程度しかアりまセんが、放射能量はナかなかノものに…」
「おま、そんな凄ぇ技術持ってんならもっと世の為に…じゃねぇッ俺に持たすなそんなもん!」

 慌てて球体を押し返したセピアに、聞くだけでテンションが下がりそうな陰気な声音で、“美術商”イザヤは楽しそうにくつくつと笑う。

 自らの作った爆弾類を『画材』や『インク』と呼んだり、他人に奇妙なあだ名を付けるイザヤには、 “美術商”という異名がある。
 イザヤの「作品」は一般に言う血みどろの惨状を示していて、彼によれば「作品」は画材が作り出すものであり、彼はそれを作る切っ掛けを与えるだけなので、“芸術家”ではないらしい。

 では“美術商”では合っているのかと言えばそれも少し違うように思うが、“ILL”の同僚がつけた異名なので細かい差異は仕方がない。どうせここの連中など天才になり損ねた末期的な馬鹿ばかりだ。


「お前な…冗談でもやめろ、そういうことは。最近はそうでなくても気疲れするようなことばっかなんだからよ」
「ほウ。何かアりましタか」
「朝は隣の奴の誤射で叩き起こされて、仕事じゃ悦の射撃に巻き込まれて一発食らうし、飯食おうと思ったらゴシックの野郎にハメられて説教食らうし、そういやラーメン食い損ねた」
「…ッそれハそれは…」

 するするとローブを引きずって歩きながら相槌を打つイザヤは、疲れた表情のセピアが淡々と吐きだす言葉に吹き出しそうになるのを堪えた。
 元々セピアは不運な男だが、それにしたって今日は酷い。厄日という“表題”がこれほどぴったりくる人生もそうはないだろう。

「あぁ、それともう一つ…酷ぇのがあったな」
「こレ以上酷いコとがありマしたか」

 仮面に覆われていない方の目でセピアを見上げたイザヤは、興味深く相槌を打ちながらおやと内心で首を傾げた。セピアの表情が、いかにも疲れたというような生気の無い顔から、血の気の無い青ざめた顔に変っている。


「珍しイ顔色だ。如何しマした」
「いや…すっげぇ怖い人にな、顔覚えられたんだよ…」
「怖い人…先日貴方ガこっピどくフラれたエリューン嬢の恋人でスかな?」
「そんなレベルじゃねぇ。いや、それも怖いけどよ。そういうんじゃなくて…」
「フむ…」

 視線を足元に落としたままぶつぶつと呟くセピアを横目に、イザヤは仮面で覆われた左目を眇めた。

「そノようナ次元は超越シた恐怖でアると」
「あぁ…」
「例えルならば猛り狂ウ龍と尾びレを失くしタ小魚」
「あぁ…そんな感じだ」
「つマり彼の方のヨうな」
「あぁ、そんな感じ…」

 黒いローブの合間からするりと出てきて、前方を示したイザヤの白い腕に導かれるように顔を上げたセピアの体が、びしりと凍りつく。
 一瞬の停滞の後、くるりと踵を返そうとするセピアを刃がねじれた短剣で制しながら、イザヤは怯えきった横顔を呆れたように見上げた。



「彼ノ方に顔を覚えられタのが不幸だト?…全く肩すカしにも程があル」
「イザヤ、落ち着け。相手は『世界の敵』だ」
「存じテおりマすとも。魂で続ク輪廻の自我、最も禍々シく回避すべキ奇跡の化身、進歩を望メぬ唯一ノ完璧…」

 どこか陶酔したような口調で言いながら、イザヤは短剣の歪曲した切っ先を押し込んだ。咄嗟に一歩下がってそれを避けたセピアにゆるりと笑い、かくんと壊れた人形のように首をかしげる。

「そレは、彼の方のふぁんくらぶに先日加入しタ小生への皮肉でスかな?」
「んなワケあるか!…いやそれよりファンクラブってなんだよ!?」
「前方20メートルほド先に居らレる世環傑氏のふぁんくラぶですが」
「まともな性癖の奴はいねぇのかこの組織には!」


 何でも無いことのように答えたイザヤに、セピアは思わず叫ぶ。先日セピアがこっぴどくフラれた女の恋人も、それはそれは美しい女だったのだ。

「小生以外の大半の加入者ハ、氏の存在ニ憧れ隙あらばその血を奪オうという命知らズばかり。性的興味ナど皆無だト思われマす」
「俺にはどうしても死にたい人たちの集いにしか思えねぇな。もう解ったから通せ!逃げさせろ俺を!」


 ナイフを強化義手で受け止めて押し返しながら必死に叫ぶセピアに、イザヤはやれやれといった表情でナイフをくるりと手の中で回すと、湾曲した刃を自らの方へと向けた。

「どコへ行かれルのですか」
「どこだもあるか、逃げるんだよ!」
「左様デすか」

 小声で叫んだセピアに鷹揚に頷き、イザヤはその唇をニヤリと歪な形の笑みに歪めた。不吉感しか感じられないその笑みに、脱兎のごとく駆け出そうとしていたセピアの足が一瞬止まる。

 その一瞬を、セピアがどれほど悔いたことか。


「悪ぃ、通りたいんだけど……あれ?お前」
「ッ……!」
「こレはこれハ…」

 目深に被った黒いフードの下、面に覆い隠されていない方のイザヤの目が、赤い唇の右半分が、セピアの背後に立つ“もの”を見てにたりと笑った。
 錆付いたからくり人形のようにぎこちない動きで振り返ったセピアを見据える、呑まれそうに深い藍色。

「セピア、だっけ?」
「あ…あぁ…いや、その…っ」
「ありがとな、この前。お陰で助かった」
「ッ……」

 同じ赤でもイザヤのように塗られた色では無い、艶っぽい紅唇には屈託の無い笑みが浮かべられるが、まるで素手で心臓を掴み取られているような威圧感にセピアはごくりと生唾を飲み込む。
 200年前の大戦以前から受け継がれる遺術の最高峰。“世界の敵”。あらゆるスペックが規格外の正真正銘の化け物。存在しない筈の零級指定賞金首。


「ん?……あぁ、解ンない?俺のこと」
「い、いやッ解る。ま、前のことは、俺も…その、暇だったから、よ…」

 訝しげな顔で自分の不気味な程に整った美貌を示した化け物―――零級指定賞金首の世環傑に、セピアはぶんぶんと首を振って叫ぶように言った。
 この化け物は、まさか自分がセピアに忘れられているとでも勘違いしたのだろうか。だとしたら自分の事を解っていないにも程がある。笑ってしまうほど大袈裟で尊大な肩書きに加えてこんな、非の打ち所の無い完璧な美貌を忘れる馬鹿などいる筈が無い。


「そっか。それなら…」
「な、何か…っ」
「…怪我してンな。仕事?」
「…っ…!」

 す、と何気なくセピアの額の傷に伸ばされた傑の指先に、セピアはまるで鋭利なナイフを突きつけられたように飛び退き、

「……」
「…ぁ…ッ」

 その反応に軽く目を見開いた傑の表情を見て、自分の反射神経を心底恨んだ。
 目の前の災厄から逃げられる可能性が皆無である以上、セピアのするべき事はなるべく傑を刺激しないように穏便に事を運び、見逃して貰うことだ。いくら相手がノーモーションでセピアの額を指で貫ける化け物であっても。

 怖いんだから仕方ねぇだろうがこっちはなぁ、もう心臓爆発しそうなんだよ!破裂寸前なんだよ!…と、心の中で叫んでみた所で完全に後の祭りである。


「おヤおやオや…」

 ビシリと凍りついた(勝手にセピアが凍っているだけだが)空気の中、それまで黙っていた小柄な死神が暗い声で笑った。

「“脆き戦車”、いクら相手が貴方を始めトする全人類ガ畏怖すべキ零級指定でアったとしテも、その対応ハ些か失礼でハありまセんかな?」
「ッ…ぁ、いや…その…」
「彼の方は脆弱ナ人の子たル貴方が傷を負ワれていルのを見て、慈悲深クも気遣っテ下さっタだけでアると言うノに…」

 にたりと嫌な笑みを浮かべたままでやれやれと首を振り、イザヤはどこか気まずそうにセピアへと伸ばした手を下ろした傑を振り仰ぐ。


「そレとも…“麗しき毒薔薇”」
「…………あぁ、俺ね。なに?」
「純粋なル化け物たる貴殿が、手負イの人間の額ヲその御手で貫キ汚らシい朱の花ヲ咲かせよウとでも?…そレならば全ク以って正シい反応でスが」

 にたにたと笑うイザヤの言葉に、セピアはぞっと背筋に鳥肌が立つのを感じながら思わず傑を振り返った。事実ではあるが、純血種に対して「化け物」という言葉が蔑称であるのには違いない。

「イザヤ、お前っ…口の利き方ってもんを…!」
「あー、いいよ。そんな気ィ遣って貰えるような身分じゃねぇから」
「そ、そうか?いや…しかし…」



 ひらりと手を振って、本当になんとも思っていないような表情で傑は笑った。この寛大さは強者故の余裕というやつなのか、それとも何か別に思惑があるのかと戸惑うセピアに、傑は自分の額をとん、と指先で叩く。

「それ、平気みたいだな」
「…あ、あぁ…掠り傷だ」
「悪かったな、怖がらせて」

 自分の傷のことを言われているのだと気づき、ぎこちなく頷いて見せたセピアに、傑は両手をポケットに突っ込みながらさらりとそう言う。
 声音はそれまでの通り飄々としたものだったが、少し申し訳なさそうに笑うその瞳が気の所為か僅かに揺らいだ気がして、セピアは軽く目を見開いた。

 その瞬間の彼の表情が、あまりにも似つかわしくないものに見えたのだ。
 絶対的な暴力を持つ化け物ではなく、まるで―――


「そウ言えば、そノ傷は“緋の淫魔”…悦氏の流レ弾によルものだとカ」
「…へ?」

 傑の美貌を見つめたまま物思いに耽っていたセピアを、不吉しか感じさせない陰気な道化が嗤った。

「“あの阿婆擦れ俺様に傷をつけやがって、二度とこんな真似が出来ない様にしてやる”…ト仰っていタではありマせんか。幸いニも彼の方は氏ト浅からヌ仲。言いタいことがアるならバ伝言をオ願いしテは如何ですカな?」
「ッて、てめぇイザヤ出鱈目を!」


 くつくつと楽しげに嗤う小柄な黒い道化の、あまりと言えばあまりに酷い悪ふざけに、セピアは思わずその胸倉を掴み上げた。イザヤとは長い付き合いだが、よりにもよって傑の前でそんな出鱈目を言うなどポストに爆発物を投げ込むより酷い。

 特に抵抗もせずにぶらりと宙に浮いたイザヤを怒鳴りつけようとしたセピアを、白く塗られた手が止めた。
 薬品かレンズかによってくすんだ緑色に変色した瞳が、ちらりとセピアの傍らを見る。


「…“阿婆擦れ”、ねぇ…」
「ッ…!」

 イザヤの視線の先に、薄く笑って軽く首を傾げる傑がいた。
 …頭のどこかで、誰かが「こりゃ死んだな」と呟いた気がした。

「ち、違うんだコイツの言ってる事は全部出鱈目で…ッ…いや、この傷が悦の流れ弾だってのは本当だが仕事だし別に恨んだりなんてしてねぇ!」
「ふーん?」

「!…ほ、ほ、本当なんだよ!これでも俺は悦とはそれなりに長い付き合いだ、信頼もしてるし…っえ、悦に聞いてみてくれ!俺は絶対にあいつのこと影でそんな風に言うようなことは…!」
「聞くって言ってもなぁ」



 イザヤの胸倉を筋力補助機能を最大にまでカスタマイズした機械体部品の右手で掴んだまま、ぶんぶんと手を振って必死に弁解するセピアは、軽く細められた藍色が明らかに自分の狼狽する様を面白がっていることに気づかない。

「悦が今、どこ行ってるか知らねぇし」
「ッ…じゃ、じゃあ俺が呼んで来る!ま、待っててくれ!」
「あ、」

 散々振り回したイザヤを床に放り出して踵を返したセピアに傑が何かを言いかけたが、今直ぐに悦を見つけ出して誤解を解いてもらうことで頭が一杯になっているセピアは、傑の制止の手にも全く気づかず全速力で廊下を引き返した。










 右腕と同じく、両足も戦闘用にカスタマイズされた機械体部品であるセピアが、文字通り人間離れしたスピードで走り去ってしまうのを眺めながら、傑はくつくつと喉の奥で笑う。

「おもしれーな、アイツ。怒ったりしねぇのに」
「…貴殿への恐怖デ見境が無くナっていルのでしょウな。しかシ小生を何ト思っているノか…」


 床に投げ捨てられたイザヤがぶつぶつと呟きながら、真っ黒なローブをぱんぱんと手で払った。

「…シかし貴方モお人が悪い」

 顔の右半分を覆う面を着け直しながら、イザヤは言葉に反してとても楽しげに笑う。

「小生ノ戯言を嘘と見抜ケぬ貴方でハ無い筈。お陰デ小生は幼子ニ弄ばれル縫いぐルみの気持ちヲ味わう羽目にナりました」
「お前も抵抗くらいしろよ」

 慌てるセピアに掴まれたまま無抵抗に振り回されるイザヤの姿を思い出してか、笑いを噛み殺しながらそう言った傑に、イザヤはずれたフードを整えながらゆるゆると首を振った。


「足ガ宙に浮いタ状態では抵抗なド。純血種たル貴方にハ解らぬでシょうが」
「…あぁ、それでか」
「何がデす?」
「憧れてる、とか言ってただろ、前に。…確かに俺の“血”があれば、あんな真似もされなくなるけどな」
「ソ…、…」


 咄嗟にそれは違う、と否定しかけたイザヤは、ぞくりと背筋を走った怖気に思わず口を噤む。

 純粋な快楽犯罪者であるイザヤにとって、恐怖とは歓迎すべきものだ。身を削り魂を擦り減らすような死地への恐怖が、どんな脳内麻薬より強く、常軌を逸した思考回路を持つイザヤの脳を高揚させる。

 だが、この“感じ”は違っていた。


 もっと別の、恐怖に脈打つ筈の心臓をわし掴みにされ抑え付けられているような。先にあるものを一瞬にして全て奪われ、明確な終わりを容赦なく叩きつけられれるような。


 …嗚呼。何が薔薇だ。何が毒だ。
 そんな『表題』は間違っていた。この男は、これは。


「やめとけ、“純血種”なんて」

 その美貌を見上げたまま、指先1本すら動かせずに硬直するイザヤに、『世界の敵』と恐れられる化け物は静かな声音で言いながら、薄く笑った。



「地獄だぜ」



 …これは、ただの“絶望”だ。










「悦ッ!」
「…あら」

 破壊する勢いで開いた医局【過激派】の扉の中、血走った目で乗り込んで来たセピアに、看護師や彼等によって包帯を巻かれている患者達は揃ってびくりと体を竦ませたが、この部屋の主である女だけは揺るぎもしない漆黒の瞳でセピアを静かに見返した。

「カルヴァ!悦知らねぇか、悦!」
「……」

 白い布を張ったパーティションで区切られた広い“診察室”の中をずんずんと進み、食いつかんばかりの勢いで叫ぶセピアを、医局【過激派】医局長のカルヴァは煩わしそうに横目で見上げる。


「そんなに怒鳴らなくても聞こえてるわ」
「っ…す、すまねぇ…」

 ペンを置き、くるりと椅子を回してセピアに向き直ったカルヴァにぴしゃりと言われて、まるで冷水を頭から浴びせられたようにセピアは筋肉質な体を縮こまらせた。
 華奢な女相手にゴツい男が竦み上がるなど情けないことこの上無い。普通ならパーティションから何事かと顔を覗かせた周囲の患者達―――セピアと同業の犯罪者達が野次を飛ばしてきそうなものだが、相手があのカルヴァであっては茶化す者も無く、向けられる視線は寧ろ哀れみに近かった。



「悦ならここには居ないわ。見れば解るでしょう?」
「あ…あぁ、すまねぇ…邪魔したな」
「あぁ、ちょっとお待ちなさいな」

 素直に頭を下げて立ち去ろうとしたセピアを呼び止め、カルヴァは優雅に網タイツと赤いピンヒールに彩られた足を組む。
 振り返ったセピアを見上げる漆黒は、ガーゼを剥がした上に全力疾走で本部内を駆けずり回ったお陰で傷が開き、血を滲ませた額の傷に真っ直ぐに注がれていた。


「ガーゼ、剥がしたのね」
「あっ…あれは、その…!」
「傷が乾くまでは貼っておくようにと言った筈よ?その様子なら肩の傷も、開いているんじゃなくって?」

 すぅと目を細めて微笑むカルヴァの表情は妖艶だが、この女医があらゆる意味合いで女医とはとても思えない女であることを知っているセピアは、体に張り付くような白衣の襟元から覗く胸の谷間や、タイトな黒皮のスカートの中で組まれた太股には目もくれずに一歩後ずさる。


「困ったものだわ。安静にすると言うから開放してあげたのに」
「……!」

 そもそも、患者に対して“開放”という表現を使うこと自体が医療従事者として明らかに間違っている気がしたが、カルヴァが引き出しから取り出したものを見たセピアは正直それどころではなかった。

「ッ…ぐあ!」
「お待ちなさいと言っているでしょう?」

 今日何度目かの逃走を計ろうとしたセピアの左足に、しゅるりと蛇のように伸びた薔薇鞭が絡みつく。
 服の上から機械体部品である足首にがっしりと食いついた鞭に出足を挫かれ、セピアは無様に床に膝を着いた。

「くっそ…うぁッ!?」

 鞭の扱いは上手いが所詮女の腕だ。振り切れると判断し無理矢理に踏み出そうとしたセピアの右足を、横から白いナース服を着た看護師がすぱんと払う。


「ロイ、お願い」
「よし」

 今度こそ床に這い蹲ったセピアの背中に乗り上げ、手際よく左腕の関節を極めた女の呼びかけにロイと呼ばれた男の看護師が軽く頷き、じたばたともがくセピアの両足を手際よく包帯でぐるぐる巻きにした。
 拘束が一部ならば、両足とも付け根から機械体部品であるセピアにとって薄い包帯を破ることは造作も無いが、太股から脛にかけて丁寧に巻かれてしまっては成す術も無い。


「な、何しやがる!」
「「診察の途中です」」

 往生際悪く足掻きながら吼えるセピアに、男女の看護師は口を揃えて言い切り、彼等の上司を振り返った。



「局長、捕獲完了しました」
「患者はとても興奮しています。安静にさせるべきでは無いかと」
「そうね。…レン」
「あ、はい」

 優秀な部下の働きに微笑みながら、カルヴァは騒ぎを横目に注射器や包帯やメリケンサックの乗ったバットを持って歩いていた看護師を呼び止めた。
 口元をマスクで覆った、まだ年若い看護師はカルヴァに声を掛けられたのが嬉しいのか、少しにやけながら銀色のバットを近くの丸椅子に置くと、包帯の山の下から黒い塊を取り出してセピアに歩み寄る。


「な、なんで医者がそんなもん持ってんだよ!」
「医者じゃありませんよ、看護師です」

 首を捻って叫んだセピアに、黒い塊―――バチバチと青い火花を散らせるスタンガンを手にした看護師は、マスクを顎まで下げると不満そうに唇を尖らせた。

「待て、待ってくれ!もう走らねぇから!悦を見つけねぇと死ぬかもしんねぇんだ!止めさせてくれカルヴァ!」
「随分と物騒ね。誰に殺されるのかしら?」

 関節を極められた肩がみしみし言うのも無視して必死で叫ぶセピアに、カルヴァはカルテに走らせようとしていたペンを止めて、少しだけ不思議そうに両足と片腕を封じられたセピアを見る。


「零級だ!イザヤの野郎が出鱈目言った所為で―――」
「それは大変ね。…ユーノ、鎮静剤を用意して頂戴。それから、手が空いたら部品を根元から外しておいて。3つともね」
「聞けよ!おいカルヴァ!!…ぅぐッ」

 本来なら危機感を強める筈の零級という単語を聞いた途端、セピアから興味を失ったようにカルテにペンを走らせ始めたカルヴァに向かって吠えるセピアの喉笛を、後ろから回されたレンの腕が正確に抑えつけた。


「他の患者さんのご迷惑になりますので」
「あ゛ッ…!」

 バチッ、と耳元で響いた凶悪なスタンガンの音を最後に、セピアの意識はそこでぶつりと途絶えた。










 スタンガンを首筋に押し当てられ、ぐったりと動かなくなったセピアが3人がかりで引き摺られて行くのを憐れみを込めて見送る患者達の前で、軽いノックと共に半開きだった扉が開く。

「あら、悦。どうしたの?」
「瓦礫で切ったんだけど、血止まらねーからちょっと縫って…セピア?」

 看護師がカルヴァの傍らに用意した丸椅子に向かいながら、押し当てられた布を真っ赤に染める腕の傷を診せようとした悦は、白いパーティションの隙間からずるずると引き摺られて行くセピアの姿を見てふと足を止めた。

「なんか縛られてるけど…何したんだよアイツ」

 白眼を剥いて気絶している上、両足を包帯で拘束された状態で奥の部屋へと運ばれて行くセピアを指差して眉を顰める悦に、パーティションの隙間から顔を覗かせた患者達が一斉に物憂げな溜息を吐いた。
 セピアが常に不幸を被る体質であるのは登録者の中でも有名だが、カルヴァに喧嘩を売る勢いで探していた悦と気絶してから遭遇など、間が悪いにも程がある。



「よく解らねぇが、お前を探してたらしいぞ」
「零級に殺されるとか何とか喚いてたな」
「傑に?人生に絶望し過ぎてどっか狂ったんじゃねぇの?」
「それも無理はねぇよ」
「あぁ。こんだけ間が悪いと笑えねぇよな」

 外道を地で行く犯罪者にしては珍しく、本当に居た堪れない様子で患者達はセピアが運ばれて行った部屋の扉を見た。今後のセピアの運命を思ってか、いっそここで殺してやった方がいいのでは無いか、と言い出す者すらいる。


「…でも、ある意味あれだけトラブってまだ生きてるのも凄ぇよな」
「強運と言えなくもない」
「どこがだよ」
「…悦」

 口々に言いあう患者達の問答を、透き通ったカルヴァの声が遮った。
 促されるままに丸椅子に腰かけた悦の傷を診ながら、自分の治療をそっちのけにしてセピアを憐れむ患者達を、凄艶な流し目が呆れたように見やる。


「お喋りをしている暇があったら椅子を空けて頂戴。貴方達も“安静”にしさせて欲しいのかしら?」
「…なぁ。どうしたんだよ、アレ」

 鎮静剤はいくらでもあってよ、と付け足された言葉に慌てて患者達が椅子に座り直すのを横目に、悦は袖を肩まで捲り上げながら声を潜めて尋ねた。

「どうしたも何も、治療の為に安静にして貰っているだけよ?」
「…白眼剥いてたけど」
「暴れるんですもの。貴方によっぽど大切な用事があったんでしょうね」
「あいつが抵抗?何の話だよ…カルヴァ、ちょっと、」


 医局過激派で治療を拒否したり、この医局長に逆らうのがご法度であることをセピアが知らぬ筈が無い。想像していたより大変な状況なのかと、さすがに少し心配になって椅子から腰を浮かせかけた悦の腕に、縫合用の針がぷすりと突き刺さった。

「痛ッ」
「大人しくなさい。手元が狂うでしょう?」

 針が突き刺さったのは二の腕の傷とは遠くかけ離れた手首だったが、カルヴァは悪びれもなく言い放つと、悦を上目遣いに見上げる。
 過激派でカルヴァに逆らうのはご法度だ。仕方なく座りなおした悦の腕の傷を手際よく縫合しながら、カルヴァはちらりとセピアが連れて行かれた一般病室の扉を一瞥する。


「貴方が心配しなくても大丈夫よ」
「いや、でも…お前に逆らってまで探されてたんだろ?俺。結構ヤバい状況なんじゃねぇの?」
「ええ、そうね」

 傷口から溢れた血をガーゼで拭いながら、カルヴァは鷹揚に頷いた。

「あの子にとってはいつもの事じゃないの」
「…あ、そっか」

 奇跡に近い凡ミスによって悦の流れ弾に当たったり、傑に命を狙われたり(これは勘違いだが)、医局で白眼を剥いて拘束されたり、普通ならとんでもない災難続きだが、セピアならば確かにいつものことだ。
 素直に納得して頷いた悦の、縫合の終わった傷口に包帯を巻きながら、カルヴァはにっこりと微笑む。


「これで治療は終わったけれど…セピアと面会をご希望かしら?」


 思わせぶりなカルヴァの問いに、悦が即座に首を横に振ったのは言うまでも無い。



 Fin.



不憫の不憫な1日。
日常とも言う。

short