【…そう。3人、だね】
【あァ。…あのさ、やっぱり俺も―――】
【ダメだよ、大人しくしてなさい】
【……でも】
【聞こえなかったの?】
【……】
【そんな顔してもダメだよ。お前にはあげない】
【…久しぶりの、僕のエモノなんだから】
世界唯一の犯罪斡旋機関、”ILL”。
”街”の中央に聳える本部ビル内に居住を許された数百の犯罪者達の中で、事実上の頂点としてそれを統べる男は、精錬された優雅な仕草で書類を捲った。
「…成る程。確かに、なかなかの実績をお持ちですね」
細いフレームの眼鏡の奥で鮮やかな橙色の瞳を細め、史上最年少の最高幹部として”ILL”を統べる佐緒鬼利は、耳障りのいい静かな声を紡ぐ。
「なかなか、だと?俺達はともかく、頭は参級だぜ」
「ご丁寧にどうも。ですが、外ではともかくここでは参級程度では…っと、失礼」
「てめェ、程度だと…!」
「止めろ」
ガタン、と腰掛けていた革張りのソファを鳴らして立ち上がった長身の男を、頭と呼ばれた男が片手で制した。
それを涼しげな流し目で見やりつつ、鬼利は伏目がちの視線を再び手元の書類―――上部分に目の前にいる5人の顔写真が張られ、それ以降はびっしりと数字や記号が書き込まれているコピー用紙へと向ける。
「八雲さん。此方としては、貴方は是非正規登録者としてお迎えしたいです」
「他の4人はどうなる」
「伍級のお1人はいいとして、陸級の3人の方には正規登録の椅子はありませんが…」
書類を立派な木造りの執務卓の上に伏せ、鬼利はすっと中指で眼鏡を押し上げた。薄く笑みを湛えた瞳が、頬に深い傷が走り、いかにも荒事慣れした態度と体つきをしている八雲を正面から見据える。
「報酬は多少落ちますが、非常時の助っ人という形であれば無いこともありません」
「多少、というとどの程度だ。そもそも我々は正規の額を知らん」
ちらり、と横に座る1人と背後で立っている3人に視線を向け、八雲は筋肉で覆われた野太い腕を組んだ。薬物でのドーピングがされているらしく、その肌は浅黒い。
「参級の相場は、危険度にもよりますが大体100から200。伍級ですと、30から50の間です」
「他の階級なら?弐級以上は相当な額だと聞いたが」
「そうですね。弐級の相場は150から400。壱級だと1000から5000ほど」
「零級は?…いるんだろ、ここには」
「…ええ、いますよ」
八雲の背後に立つ男の言葉に顔を上げた鬼利は、男の表情が単なる好奇心にしてはやけに真剣な色を帯びているのを見て取り、その瞳を鋭く細めた。
現存すら疑われる零級賞金首の詳細を知りたがる登録者は多いが、この5人の視線は事故現場に群がる野次馬というよりは、その場を検分する軍警のそれによく似ている。
鬼利の知る限り、ちゃんとした犯罪者にこういう眼の人間はあまり居ない。
「零級の報酬は規格外です。依頼の規模によっては億まで跳ね上がる」
「億?まさか、人1人殺すのにそんな大金を出す馬鹿がいるのか」
「依頼が1人だけとは限りませんからね。依頼主も当然、多岐に及びます。資産家、国家から…時にはあの軍警まで」
「……」
依頼主としてあげられた、本来犯罪者を捕縛する立場にある”軍警”という組織名にも、男達は誰1人として表情を変えなかった。
それがどうしたと言わんばかりの、いっそ不思議なほどの無関心さで鬼利の話を聞き流していく。
「成る程、解った。確か…佐緒鬼利、と言ったか。正規登録を頼む」
「ありがとう御座います」
にこりと微笑み、鬼利は腰掛けていたチェアから立ち上がった。その前まで歩み寄った八雲が、重そうなシルバーのリングで飾られた手を何気なく差し出す。
その手を、八雲に比べればまるで女のように華奢な手で握り返しながら、鬼利は微笑みを崩さないまま、
「そういえば、八雲さん」
「…なんだ?」
「僕は自分の家名が嫌いで、ほとんどの場合は”鬼利”と名乗るんですよ。だから、登録者のほとんどが僕の家名を知らない」
「……」
「…どうしてご存知なんですか?僕が”佐緒鬼利”だと」
穏やかな口調は崩さないままそう尋ねた鬼利に、八雲は握った手をするりと解きながら軽くため息を吐き、
―――次の瞬間には、蛇のように伸びた腕が鬼利の腕をスーツの上から掴み、軽々と宙に浮かせた細い体を執務卓の上に叩き付けていた。
「…かは…っ!」
「さすがだな、佐緒鬼利。史上最年少で皇帝より博士号を賜った頭脳は健在か」
肺から空気を強制的に押し出され、激しく咳き込む鬼利を冷めた瞳で見下ろしながら、八雲は背後に控えた4人を振り返った。
その視線に頷いた4人は素早く執務卓を囲み、卓から引きずり下ろした鬼利に四方からその頭に銃口を突きつける。
「最近は…随分、勧誘の仕方が乱暴になったんですね。…何をされたとしても、貴方達に手を貸すつもりはありませんよ」
「…手を貸す?」
呼吸を整えながら強く八雲を睨みつけた橙色の瞳を見下ろして、八雲は訝しげに眉を顰めた。
その反応に鬼利は一瞬怪訝そうな表情をし、―――その顔色が、直に自分の失態に気づいて苦々しいものへと変わった。
「我々は軍警だ。”ILL”の実質上の司令官としてのお前を捕らえに来ただけだったが……どうやら、犯罪の仲介以外にも罪状が増えそうだな」
獲物を見つけた狼のように獰猛な笑みを浮かべて、八雲は俯いている鬼利に歩み寄った。
銃を持つ4人部下の内の1人が鬼利の髪を掴んで強制的に顔を上げさせ、乱暴なその手つきに鬼利が僅かに顔を顰める。
「手を貸す、とは何の事だ。何を抱え込んでる」
「……」
「黙秘か。…いいだろう」
すっと顔から表情を消し、八雲は言葉が終わるのとほぼ同時に鬼利の体を床へと押さえつけた。背中に膝を乗せて抵抗を封じ、その左腕を逆関節へと捻り上げていく。
「ぁ、ぐ…ッ」
「言え」
「…っ…」
「腕をへし折られたいのか。吐け!」
更に腕が捻られ、みしみしと肩の骨が軋む音を上げながらも喋ろうとしない鬼利に、八雲は痺れを切らしたように舌打ちすると、
ごきんッ。
「ッぁあああああ!」
鈍い音を立てて完全にへし折られた腕からだらりと力が抜け、苦鳴を上げた鬼利の体が八雲の足の下で跳ねた。だが、倍近い体重差ではその抵抗も簡単に抑えられてしまい、絨毯を握り締めた右手が痙攣するように震える。
荒い呼吸のまま、あまりの激痛に眼を見開いている鬼利を冷めた双眸で見下ろしながら、八雲は低い声で囁いた。
「右手と両足もへし折るぞ。…言え」
左手の五指が肩と同じように全てへし折られた頃、軍部警察の特殊潜入捜査官である八雲とその4人の部下は、鬼利の口から3つの事を聞き出した。
1つ、鬼利が幼少の頃に賜ったとされる博士号は、本来ならルエール公式に基づくシュビッツ型方程式を完成させた、数学者である彼の父のものだったということ。
1つ、鬼利が容疑者とされている”佐緒”一族の惨殺事件は、彼が脅迫を受けているある研究所の陰謀で、八雲達のことをその研究所の手先と勘違いしたと言うこと。
1つ、鬼利は極秘の研究施設を”ILL”本部内に持っており、そこでの研究結果を研究所の者に狙われているということ。
「研究だと?どのような研究だ」
「…新薬、ですよ。…僕が言うより、きっと見たほうが早い」
痛みにより呼吸を荒くした鬼利は、どこか気力が抜けたような表情でそう言うと、案内しろという八雲の指示にゆっくり立ち上がった。
折られた腕を庇うように力なく歩く鬼利の案内で、八雲は書棚に偽造された扉から細い階段を下って「研究施設」へと辿り付き、1階分のフロアを使った広大なその全容に眼を見張った。
「八雲さん、これは…」
「ああ…思ったよりデカいな」
同じく唖然とする部下4人に頷き、八雲は深く俯いている鬼利の背中を軽く小突いて先を促すと、同時に4人に残って周囲を調べるよう指示を出した。
「1人で大丈夫ですか?」
「俺を誰だと思ってる」
心配する4人を残して、八雲は鬼利の後に続いて施設の中心部へと歩みを進めていく。
中心に近づくにつれて周囲には低く唸る巨大な機械が増え始め、まるで壁のように聳えるそれ等が八雲の視界を遮った。太い配線が走る床は非常に歩き難いが、慣れているのか鬼利はすたすたと機械の間を進んでいく。
「おい…どこまで行く」
「この先の無菌室ですよ。見せろ、と仰ったのは貴方でしょう?」
1度立ち止まった鬼利は振り返らないままにそう呟き、八雲の返事を聞かずに再び足を動かし始めた。
その呼吸がすっかり落ち着いている事に八雲は少しの違和感を覚え―――飛び出した機器に鬼利が左腕をぶつけた瞬間、その違和感は背筋に寒気が走るほど大きく膨れ上がった。
歩くだけでも痛そうにしていた、いや実際に痛いに違いない腕を揺れるほど強く打ち付けて、鬼利は苦鳴どころか歩みすら止めない。
「待て!お前は――――」
「そういえば、八雲さん。先ほどの告白に少し訂正があるんですけど」
八雲の言葉を静かに遮り、鬼利は少し行った先でくるりと振り返った。
その顔に浮かぶのは骨折による苦痛でも捕縛による脱力でも無く、執務室に通された時から浮かべていた、底の見えない静かな微笑み。
「まず、僕が賜った博士号のことです。あれは正真正銘僕の物で、父は一切関わっていない。…ついでに言うと、父が発表したあの方程式も、事実上の発見者は僕です」
「…何だと?」
「それと、僕の親族が殺されたのはある研究所の陰謀だ、というお話ですが」
淡々とした口調で言いながら、鬼利はレンズの割れた眼鏡を右手で外すと、それを足元に放った。
音を立てて踏み潰されたレンズが八雲の靴を叩き、床に散らばっていく。
「親族を毒殺したのは僕です。確かに弟のことで”遺術”の研究所に追われた時期もありましたが、それも僕が幹部に就任するのと同時に全て潰しましたので」
「…全て嘘、ということか」
「そういうことです」
にこりと微笑み、鬼利は自らに向けられた銃口を興味無さそうに見やった。
「…先ほど、お出ししたお茶のこと。覚えてますか?」
「はッ…毒でも仕込んでいたか?生憎だが、我々は一口も飲んでいない」
「ええ、知ってますよ。飲んだふりをして下さったんでしょう?」
こともなげに頷きながら、鬼利は何気なく折れた左腕を持ち上げるとその手首に巻かれた腕時計に視線を落とした。
「貴方ほどの人が、気づきませんでしたか?」
「…ハッタリか」
「荒くれ者を相手にするのに、僕の部屋には護衛の1人も居なかった。おかしいとは思いませんでしたか?」
「……」
腕時計に視線を落としたままの鬼利の言葉に、八雲は銃口を鬼利の額に据えたまま眉を顰めた。
確かに、奇妙だ。護衛どころかあの部屋には監視カメラ1つ無く、鬼利自身も丸腰で部屋にも武器になりそうなものはペーパーナイフ程度しか無かった。
「あの紅茶には揮発性の毒薬が入ってたんです。だから、部屋には僕と貴方達以外は誰も入れなかった」
「下らない嘘だな。毒物の類なら、すぐに我々の探知機が作動している」
「それが普通の毒ならね。…でも、生憎あの毒は僕のオリジナルなんです。解毒剤も中和方法も僕しか知らない」
「ッ…お前…!」
淡々とした声に隠れて響く小さな音に、八雲は話の内容よりもその音の発信源を見て思わず声を上げた。
先ほど彼がへし折り、奇妙な方向に曲がっていた鬼利の指が2本、元に戻っていた。何かの部品を嵌めなおすように、鬼利が曲がった指を元の位置に戻しているのだ。
「ああ、ご心配なく。僕は痛覚というのが鈍くて、骨折など痛くも痒くも無いんですよ」
「…あの絶叫も嘘、という事か」
「迫真の演技だったでしょう?」
特に面白くも無さそうに答えながら、鬼利は僅かに曲がったままの自らの指を眺めた。まるで彼の存在など忘れたようなその横顔に、八雲は訝しげに思いながらも銃の引き金に指をかけ、
「…あ?」
さっきまで視界に収めていた銃が、自分の腕ごと消えているのに気がついた。
「ここにはデリケートな機器が多いので、武器の類はセンサーが持ち主ごと破壊するんですよ。貴方の部下も、分かれて1分後にはズタズタです」
白い機器の表面を染める血飛沫にも眉1つ動かさず、鬼利は天井からのレーザーの照射により四肢を裂かれた八雲を、何の感情も浮かばない瞳で見下ろした。
「…貴方みたいにね」
「じゃァ全部殺しちまッたの?俺がつけたレーザーが」
「そう。…でも解析速度が少し遅いね。消音も未完成だった」
「やっぱアレじゃァ煩ぇかなァ。気づかれた?」
「いや。毒の話と指で気を引いておいたから」
「…毒?」
「実際には紅茶にも空気にも毒なんて1ミリも含ませて無いし、あの部屋では新薬どころか頭痛薬だって作ってないけどね」
「ははッ、さァすが」
「この嘘吐き」
Fin.