不真面目な捕虜



「…貴方達の行動で賞賛に値するものがあるとすれば、」

 じゃらり、と鎖が擦れる音を響かせながら組まれた足から、鮮血が滴り落ちる。

「僕の尋問の場をこの地下室に選んだ事です」

 鎖が鳴る耳障りな音と、足元の血溜に落ちた血がそこに波紋を作る音をBGMに、血の気を失って白くなった手が乱暴に首元の血が染みたネクタイを緩めた。

「もしもここがあの荘厳な本部だったら、歴史的な建築物がまた1つ、半壊に追いやられる所だった」

 無表情のまま告げられる言葉に、怒声を発しながら野太い腕がその胸倉を掴み上げて締め上げる。ガツン、と鈍い音が響き、壁際の男が怒りに震える声を発した。

 ―――貴様は、正義を何だと思っている。

 正義?と聞き返し訝しげな表情をしたのは一瞬のことで、すぐにその口元は緩く弧を描く。どこまでも優雅に微笑を浮かべる唇から、血に濡れる舌が覗いた。

「…無能の代名詞」

 艶やかな唇から謡うように毒が紡がれ、絶句する”無能”の使役者達を眺めながら、粗末な椅子にまるで玉座に乗るように腰掛けるその唇の笑みは深くなるばかりで。
 気が付いたように自らを棍棒で殴りつける男を、鮮やかな橙色の瞳が気怠げに見上げていた。










 ”ILL”の事実上の統率者が「ボス」への報告の帰りに襲撃され、軍警の手に落ちたという事実は、正午を告げる塔内放送の後についでのように登録者に告げられた。

「今回は鬼利様直々か。珍しいこともあるもんだ」
「またかよ…」

 本部塔内の食堂で、マズイと評判のラーメンを啜りながら驚いたような声を出したガタイのいい男に、その向かいに座って銃を分解していた悦はうんざりと返した。

「喜んでんじゃねーよバァカ」
「あ゛ぁ?誰がバカだ」
「お前以外に誰がいンだよ、セピア。…せっかく今日から3日休みだったのに」

 ぎろり、と睨みつけてくる男―――今日の仕事の相棒でもあるセピアを銃を掃除しているスティックでびしりと指し、悦は繰り返される放送に小さく毒づいた。
 本部塔の内部放送の統括と、伍級の担当を勤める”F”が告げるのんびりとした放送内容は、いつも通り鬼利が誘拐された場所と時間と状況を簡単に説明して、そして最後にいつもの名前を呼び出した。

《…というわけなのでぇー、登録№223…じゃなかった8?…の、445ー、世環傑はぁ出来るだけ早く来てくださぁい》

「…何遍呼び出しても№忘れるな、この女は」
「まだマシだって。俺が前呼ばれた時は1ケタもあってなかったし」
「あんな覚えやすい№どうやったら忘れるんだか…皇国の五大数学者の1人、なんだろ?あのガキ。確か…17だったか?」
「16。数学と暗記は違うんじゃねぇの?」
「そうなのか?現在不在の幹部様は5ケタの掛け算を暗算で解くらしいが」
「…マジ?」
「頭のいい奴のことは解らねぇな、お互い」


 くくっと低い声で笑い、セピアは空になったどんぶりを脇にどけると、白く広いテーブルの上に肩からベルトで吊っていた機関銃をがしゃん、と乱暴に乗せた。
 気違いか殺人狂か、とまで言われる弐級は登録者の中でも荒くれ者が多いことで有名だが、その中で珍しくセピアは社交的で、心身共に打たれ強いこともありよく仕事で組まされる。機関銃を常に腰元に吊っているのは”ILL”でも珍しいが、悦にとってはそれも見慣れた光景だ。


 セピアが乾いてこびりついた血を指先で拭い落とすのを横目に、綺麗に磨かれた銃を手馴れた手つきで組み立てると、悦は銃弾が全弾こめられているのを重さで確認しながらテーブルから立ち上がる。

「食わんのか?」
「出る時食ったから。あんま腹減ってねーの」
「そうか。お疲れさん」
「ん。じゃーな」

 カスタムされたゴツいフォルムを丁寧に拭いながら、立ち上がった悦の気配を察して顔を上げずに手をひらりと振ったセピアに、同じくそちらを見ずに手を振り返して悦は食堂を出た。










『―――で、ですからねその…我々は直ぐに代理を申し出たんですが、鬼利氏がどうしても自分が行くと言われて…』

「…ん?」


 ふらりと訪れた武器庫の中から響いた情けない声に、悦は扉の前でぴたりと足を止めた。
 いつもは開かれている扉は半端に閉じられていて、隙間から中の様子を伺えば、奥のデスクで銃器を弄っている幽利を囲むようにして、スーツ姿の3人がデスクの周りに立っているのが見える。

 ”ILL”の本部内でスーツをきっちりと着こなしているのは、鬼利を含めた7人の幹部だけ。そして通常なら幹部はこんなところにはまず訪れることは無い。
 見慣れない光景に眼を細める悦の視線の先で、黒髪をオールバックに撫でつけた長身の男―――肆級担当の壱埜は、その立場に天と地ほどの開きがあるはずの雑用員の前で申し訳なさそうにその長躯を縮めた。


「結局、引き止めることが出来ず…このような結果に…」
「…へェ?そォっスか」

 穏やかとも思える声音で言いながら、幽利はパーツの具合を確認するように弄っていた銃を構える。その銃口は壱埜の胸元にぴたりと定められていて、見せつけるように掌の中で銃弾を転がしながら、幽利はこくりと首を傾げて見せた。


「そォいや、前もこんなことがあった気がしたンだが…俺の気の所為ですかねェ?」
「あ…いや…」
「その時、確か俺ァ貴方がたに”必ずあの人を護ってくれ”って、頼んだよォな気がするんですけどねェ…」

 銃口を1ミリも動かさないまま、転がされていた弾丸がカチリと1つ込められる。


「申し訳ない…貴方は大切な人だからと説得しようと、したんだが…」
「…説得?」

 …カチリ。

「相変わらず頭ン中が温いっスねェ、壱埜サンは。あの人が、俺にもビクつくよォなアンタの説得になんざ応じるわきゃねェでしょう?」

 カチリ、カチリ。

「完全包囲だか何だか知らねェが、あの人が出てく前に誰かが身代わりになりゃ良いだけの話じゃねェんですかィ?…それとも、あの人無しで”ここ”がまともに動くとでも?」
「そ、んなことは…ッ」
「なら、どうしてこんなことになったんでしょォねェ?」

 カチリ、カチリ。……カチャ。

「ッ…ゆ、幽利…さん…」
「幽利、怒るのは解るけどその辺で…」
「…アンタ等の誰が消えたって何とかなるが、『ボス』に繋ぎ取れンのはあの人だけだ。大切、なんてレベルじゃねェんだよ。…何で解ンねェかなァ、そこんとこが」


 取り成すように口を挟んだ参級担当のキュールの言葉を溜息交じりに遮りながら、全弾込められ激鉄を上げられた銃の銃口がす、と胸元から眉間に移動した。
 その口元にはいつものように笑みが刷かれているが、ビリビリと伝わる緊迫な空気はいつ引き金を引いてもおかしくない。相当熱くなっているらしい幽利のその様子に悦は小さく溜息を吐き、わざと派手な音を立てて扉を蹴り開けた。

「…旦那、」
「壱埜苛めたってどーにもなんねぇだろ、幽利」


 諭すような声で言いながら、悦は銃身を掴むと銃口を自分へ向けた。目隠しで覆われた目元をじっと見据えてやると、幽利は小さく「すいません」と呟いて銃を下ろす。

「あ、あぁあ貴方はっ…!」
「これは、珍しい顔だね。どうして君がこんなところに?」
「悦だぁー、久しぶりー」

 幹部の中では俗に「上位登録者」と呼ばれている壱級指定の悦の登場に、思いきり戸惑った様子の壱埜とキュールなど全く気にせず、3人のうち1番後ろで欠伸を噛み殺していた少女が暢気な声を上げる。

「F、お前また傑の№間違えただろ」
「そーだったー?いいじゃーん、世環傑なんて名前ほかにいないしー、幹部の誰かが捕まったらぁ、絶対傑っちが呼ばれるんだからぁー」


 眠たげに半分伏せた眼できゃらきゃらと笑いながら、伍級担当のFは長いシャツの袖で覆われた手を口元へやった。どこからどう見ても制服を改造した女子高生にしか見えない姿で、下から覗き込むように悦を見上げる。

「それよりぃ、アタシまた悦の作ったケーキ食べたいなぁー」
「ケーキ?お前お抱えのパティシエいるんじゃなかったっけ?」
「悦のほうが美味しいしー。だめぇ?B地区の【甘味飽和地帯】のケーキバイキング券あげるからぁ」
「…マジ?」
「マジマジぃー」
「…あの、旦那…」

 3人を放ってケーキの交渉を始めた悦に、幽利はどこか毒気を抜かれたような表情で控え目に声を掛けた。

「ん?幽利も食べたい?」
「いや、そォじゃなくって…」

「…あァ、鬼利のこと?大丈夫だって、居場所ちゃんと解ってるんだろ?」

 Fがメモ帳に描く「ケーキ完成予想図」を横から見ていた悦は、いつもより張りのない幽利の声に顔を上げつつ尋ねた。
 幽利とキュール、壱埜が頷くのを見て再びFの描く絵に視線を落としながら、この場にそぐわないあっさりした口調でもう1度「大丈夫」と繰り返す。


「でも…」
「あの、悦さん…その、今回は、相手が少し…」
「相手?」
「そうなんだよ、悦。どうやら軍警の一派の仕業みたいなんだ」

 ゆるくウエーブの掛かった髪を指先に巻きつけながら、こんな場所にいなければ品のあるごく普通の青年に見えるキュールは、困ったように溜息を吐いた。
 …もっとも普通に見えるのはその左半面だけで、その右目のすぐ下から唇の端を横切る大きな刀傷が、一見普通に見えるその外見を大きく裏切っているのだが。


「軍警ねぇ…今の居場所は?本部?」
「いえ…なンか、空の端っこの廃墟郡にある隠れ基地みてェなとこにいるらしいです」
「なら大丈夫。…ちょ、F、盛りすぎ。そんなに乗っけたら下のスポンジ潰れるから」
「えぇー?」
「えー、じゃねぇよ。ちょっと貸して」

 Fから借りたペンで、まるでウエディングケーキのように壮大なものになっている「完成予想図」の下部を省きながら、悦はこともなげに自分の発言の根拠を付け加えた。

「だって、派遣するの傑だろ?」










 鋭く空気を裂く音と、重い打撲音。
 極めて暴力的なそれらの音を背景に、その捕虜は不安定に揺れる体などまるで気にしていない様子で、自らを棍棒で打ち据える男ではなく、その背後に立っている軍服姿の男を振り返った。


「…そろそろ止めて貰えませんか?これ」

 シャツの合間から見えるその肌にはどす黒い鬱血が見られたが、鎖でがんじがらめにされた腕だけで地面から20センチほど浮いた体を支えている当の本人は、まるで自分の体のことなど眼中にないように平然とした顔をしている。

 もう30分は打たれているにも拘わらず、息すら上がっていない捕虜に重々しい溜息を吐き、まだ年若く見える軍警員は捕虜を打っていた部下を止めた。壁際から吊るされた捕虜にゆっくりと歩み寄り、額から滴る血で汚れたその端整な顔を見上げる。


「随分、苦痛への耐性が強いな。”ILL”の幹部というのは我慢が得意なのか?」
「いいえ」
「何か話す気には…なっていないだろうな」
「ええ」
「……」

 淡々と、この数時間繰り返されている言葉を退屈そうに話す捕虜に、軍警員はギリっと歯を噛み締めた。軍警仕込みのポーカーフェイスこそ変わらないがその眼は明らかに苛立っており、素早く抜かれた銃が捕虜の顔のすぐ横の空間を打ち抜く。


「ふざけるのもいい加減にしろ。お前の名前と、お前が逃がした他の幹部の名前と性別を言え」
「……」
「…そうか。なら仕方ない」

 激情を押し殺したような掠れた声で言い、帽子を目深にかぶった軍警員は銃口を捕虜の左足に向けた。
 躊躇いなく引き金が引かれ、狭い部屋に響く高い発砲音に軽く眼を細めた捕虜の左太腿で真っ赤な血飛沫が上がる―――が、それだけだ。

 間違いなく打たれた足からはどくどくと血が流れ血溜を作っていくのに、その脚の持ち主は苦痛にうめくどころか表情すら変えない。


「貴様…」
「…つくづく無計画ですね、貴方達は」

 訝しげを通り越して不気味なものでも見るような軍警員の視線に、捕虜は溜息を吐きつつ尋問の静止以外で「はい」と「いいえ」以外の言葉を初めて口にした。

「撃つのは構いませんが、どうしてわざわざ太腿を?太腿には太い血管が走ってることくらいご存知でしょう?」
「…やけに饒舌になったな。出血が多くて驚い―――」
「それとも、」

 挑発するようにいいながら首を竦めて見せた軍警員の言葉を遮り、捕虜はそこで確認するように撃たれた左足を軽く持ち上げた。
 普通なら激痛で動かすことも困難なはずだが、血を吐き出している傷口から弾が抜けていることを確認しているその表情には、苦痛など欠片も伺えない。

「…それとも、僕が登録者並に丈夫だとでも思ってるんですか?」


 鮮血でぐっしょりと濡れたスーツと、足元に広がる血溜をみて深く溜息を吐きながら、まるで出来の悪い生徒を諭すように軍警員を見下ろすその視線は、圧倒的優位にいるはずの軍警員もゾクリと背筋が寒くなるほどの威圧感を孕んでいた。

「僕に限ってはそれは例外です。こんなに大量に出血したらすぐに失神しますよ」
「構んよ。貴様は知らんだろうが、我々には無意識の人間からその知識を得る機械がある。…その場合、機械にかけた人間は気が狂うか死んでしまうがな」

「……僕を脅かすつもりなら、その頭の悪そうな薄笑いは止めたほうがいいですよ」
「強気だな。嘘だとでも思っているのか」
「ええ、勿論」

 一歩近寄り、その瞳を睨み上げながら低い声で言った軍警員に、捕虜はにっこりと笑った。

「そうか。あんな閉鎖的な穴倉で猿山の大将をやっていたんだ、信じられないのも無理は無いが」
「僕が信じないと言ったのは、装置ではなくそれがここに有ると言う話ですよ。貴方は驚くほど理解力が低いようだ、猿と表現するなら僕より貴方のほうがお似合いですね」
「っ…貴様!」

 淡々とにこやかに毒を吐く捕虜にとうとう耐え切れなくなったのか、軍警員は手の中でくるりと銃を反転させると、そのグリップで捕虜の額を強く殴りつける。
 衝撃に吊られた体が不安定に揺れ、乾いた血の上から更に血が滲むが、捕虜は無表情のままに荒く息を吐く軍警員を見下ろすだけだ。


「…貴方が言っているのは、半年前にリリアント博士が開発した”DAEE-45機”のことでしょう?開発後1週間、報道規制をかけた上で軍警はその研究を買収。リリアント博士を加入させた新チームを立ち上げ、更なる機器の改良と増産に着手した」
「な…っ」

「…だが、研究開始より4日後に開発支持者の故閑将軍が急逝し、意見の不一致によりリリアント博士がチームを離脱、失踪。機器の開発には大量の金とプラチナが不可欠ということが解った途端、他の有力者達が軒並み難色を示すようになり、計画は現在停滞中」
「黙れ…!」

 ぶるぶると銃を持った腕を震わせながら、軍警員は再度銃を振り上げた。激情にかられた彼を、脇に下がっていた部下が慌てて止めるのを退屈そうに眺めながら、捕虜は自らを睨み上げる軍警員と、その部下に向かってにこりと微笑んだ。

「一ヶ月の間に増産できたのはわずか3機で、その内の2つはこの大陸内に存在しないし、残り1つも現在は”ブルーロード”の向こう側にある。もし僕に使うことがあってもそれは最低でも1週間は後だ。…違いますか?」
「ッ…!」
「少尉、落ちついてください…!」


 部下に低い声で叫ばれ、軍警員は深く息を吐くとようやく振り上げた銃を下ろした。未だにその腕を抑えていた部下を振りほどくと、銃を再び反転させて銃口を壁のレバーへと向ける。
 鎖を固定していたレバーは撃たれた衝撃でガコン、と上に跳ね上がり、吊るされていた捕虜はどさりと鎖ごと、自らの作った血溜まりに落ちた。

「…さすが、かの有名な”ILL”の最高幹部だけあるな。貴様の口を割らせるのは一筋縄ではいかないようだ」
「……申し訳ありませんが、少尉殿」

 地上からこの地下室に降りて来た部下が水を一杯に張った大きな桶を下ろしているのを横目にしながら、捕虜は自らの服の袖で額の血を拭いつつ、その場に座り込んだまま軍警員を見上げた。

「生理現象に訴えた尋問は僕には的確ですが、どうせならもっと有意義なことを聞いて貰えませんか」
「…有意義なこと?」
「プロフィール程度、わざわざ聞かなくてもデータベースに詳細なのが揃っているでしょう」
「……」

 未だに血を溢れさせる傷口が偽物に思えるほど、自然な動作で立ち上がった捕虜―――”ILL”の歴代最年少最高幹部の佐緒・鬼利は、じゃらりと鎖を慣らしながら、軍警員に歩み寄る。

「腹の探り合いは十分です。いい加減、本音で話しませんか?」
「……っ」

 思わず一歩後ずさった軍警員に優雅に微笑みながら、その舌先で悪魔をも操るという”ILL”の司令塔は、血で汚れたその橙色の瞳を妖しく輝かせた。


「貴方が僕に本当に聞きたいことは何です?…少尉殿」










「…そいえば、お前等こんなトコにいていいのかよ?」
「えっ、あっ、わわ私ですかっ!?」
「そうだけど…なんで離れンの」

 クリームをイチゴにしようかチョコにしようかで悩むFに苦笑しながら何気なく尋ねた悦は、3メートルは飛び退くようにして離れた壱埜の瞬発力に軽く引きながら頷いた。


「Fはいてもいなくてもいいだろうけど、お前等は話し合ったほうがいいんじゃねぇの?」
「そうしたいのは山々なんだけどね…ほら、壱埜がこの有様だから」

 大げさに手を広げて首を竦めて見せながら、キュールは自らの影に隠れるようにして悦から視線を反らしている壱埜を見やる。

「君にさえこの怯え様なんだ、世環なんて目の前に来たらどうなるか」
「あー…そういうことか」
「僕は会議よりも幽利君への謝罪の方が重要だと思って、こちらに来たんだけどね。……まぁ、世環が怖いっていうのも理由の一つではあるけど」
「…ふーん…」


 付け加えるように言って苦笑したキュールと、その横でぶんぶんと首を振って頷いている壱埜に適当に頷きつつ、悦はデスクに腰掛けて投げ出した足を揺らしながら、横に同じように座っている幽利を振り返った。

「なぁ、傑ってそんなに怖い?」
「え…?…あ、スイマセン、ボーっとしちまってて…今、何て?」
「…いや、なんでもねぇわ」

 足元に落としていた目隠しごしの視線を僅かに上げ、無理していると解る表情で笑みを浮かべる幽利に手を振って話しを打ち切り、悦はその肩をぽんぽんと叩いた。
 …それに力なく笑って俯いた幽利の横顔を伺う悦の目の前に差し出される、赤や緑や青で鮮やかにペイントされた紙切れ。

「…お前な、もうちょっと空気読めよ」
「こぉゆー時は放っておきなよー。変に気ぃ使うと泣きたくなっちゃうしぃ?…あ、ちなみにぃ、アタシは傑っちのこと怖くないよー?」
「そりゃな。ンなふざけた名前で傑のこと呼べンのはお前くらいだよ」

 結局イチゴクリームに決まったらしく、薄ピンク色に塗られたケーキ完成予想図を受け取りながら言うと、Fは「可愛いのにぃー」と笑いながら長い袖をパタパタ揺らした。


「あ、ここのフルーツやっぱりイチゴにしといてねぇー?」
「じゃあR地区行って市場でイチゴ2パック買って来いよ?そしたら作ってやるから」
「えぇー、無理だよぉー。明日からアタシ皇国数学者代表でぇ、”M6”のシンポジウム出なきゃいけないしぃー」
「シンポジウム?…ンだそれ。俺のケーキより大事?」
「悦のケーキのほぉがアタシには大事だけどぉ、すっぽかしたらマーサが―――」


 バコンっ!

 からかうような悦の言葉に袖を口元に押し当てて本気で悩むFの言葉を遮り、悦が蹴り開けた以上の力でこじ開けられた扉が大きく開いた。

 壱埜が押し殺した悲鳴を上げ、キュールがその場で固まる中、扉を開けた人物―――先ほど放送で会議室に呼ばれ、今は他の幹部達と救出作戦を立てている筈の傑は、中央で眼を丸くしている悦で視線を止めるとつかつかと歩み寄る。

「傑!どーしたんだよお前、会議は?」
「あんなもん真面目に聞いてられっかよ、めんどくさい…それより悦、今暇?」

 横目でちらりと幽利の様子を確認しながら唐突に尋ねる傑に、悦は「ケーキ完成予想図」をポケットに捻じ込みながら頷いた。

「暇…って言やぁ、暇だけど。何で?」
「鬼利が捕まってる場所が空の…ほら、前雑誌に載ってた店と同じ郡にあるらしくてさ。普通に行くには遠いし、ついでに行かねぇ?」

 あまりにも当然のように語られるとんでもない話に、一歩下がってその話を聞く壱埜とキュールがぽかんと顔を見合わせる中、悦はしばらく考えてから、


「…でも、鬼利がいるんだからどっちにしろ1回帰らなきゃダメなんじゃねぇの?」
「1人運転手連れてって、帰りはソイツに任せる。お前と仲いい、弐級の…セピアだっけ?アイツは?」
「あー、成る程。じゃあセピアに頼むか。アイツ最近まーた彼女にフラれたって泣いてたから、きっと暇してるし」

「じゃ、決まり。さっさと行こうぜ、仁王に見つかったらまたどやされる」
「じゃあ俺、セピア呼んで―――」
「傑っ」

 呼んでくる、と続けようとした悦の言葉を遮り、追っ手が来ないかと戸口を振り返っていた傑の腕を、幽利が強く掴んだ。

「ん?」
「あの…俺も、…」
「…あぁ、悪ィ。忘れてた」

 言葉を濁らせる幽利に柔らかく笑いかけ、傑はその頭をくしゃりと撫でる。その言葉に幽利はパッと俯いていた顔を上げ、

「ッ…ぁ、ぐ…!」

 …次の瞬間、正確にその鳩尾に減り込んだ膝に、ずるりとその場に倒れ込んだ。


「うーわ、荒っ…大丈夫かよ、幽利」
「平気だろ、このくらい慣れてるだろうし」
「そう?…じゃ、先行ってる」

 傑に支えられた幽利を1度心配そうに覗き込んでから、悦は傑の言葉に頷くと棚から磨き上げられた大ぶりなナイフを数本攫って、武器庫を小走りに出て行ってしまう。
 一体どこにどう収納しているのか、扉をくぐった時には既にその手の中にナイフは無く、仕事の時に着ている黒いジャケットの裾が少しゆらめいただけだ。


「…ちょ、っと…世環、何を!」
「ん?…あァ、ここに居たのかアンタ等」

 気を失った幽利を支えて自分に寄りかからせながら、思わずといった風情で声を上げたキュールに、傑は今その存在に気づいたように彼とその影の壱埜を見やった。
 視線を向けただけで2人が軽く身を竦ませるのに困ったように苦笑しつつ、ぐったりとした幽利をひょいと肩に担ぎ上げる。

「丁度いい、コイツちょっと預かってくんねぇ?」
「預かる、って…」
「そ、そんな急に言われましても…ッ」
「傑っちー、鬼利さんのこと助けに行くのー?」

 担ぎ上げた幽利をデスクに寝かせながら、端末でも預けるような気軽さで言う傑に慌てるキュールと壱埜を横目に、それまで黙っていたFが声を上げる。

「あぁ。コイツが寝てるうちに返してやんねーと、アッチはともかくコッチがどうなるか解ンねーかンな」
「兄弟愛もーここまで来ると異常だよねぇー。まぁしょーがないしぃ、もぉ慣れたけどー」

「だーからアレだけ言ってンだろ、何があってもアイツだけは攫わせるなって」
「しょぉがないじゃん、”痛みを感じないなんて欠陥、捕虜になる以外に利点が無いんだよ”とかぁ、寂しそうに言われたら止められないってぇー。…あ、それより傑っちー」


 ムリムリ、とパタパタ長い袖を振っていたFは、不意にくるりと体ごと反転して背後を振り返ると、そこに掛けられた壁掛け時計を見上げた。

「そろそろヤバいかもぉー。見つかったらぁ”公私を混同するな”ーってぇ、また仁王ぽんに怒られちゃうよぉー?」
「ん、じゃあそろそろ行くわ。コイツ頼むな」
「りょぉかーい。いってらっしゃぁーい」


 袖をパタパタと振って見送るFに軽く手を上げて答え、傑は悦と同じように途中で弾丸の詰まった紙の箱を棚から攫って、武器庫を後にした。
 決して走っているわけでも急いでいるようにも見えないが、その去り際は引き止めるのすら躊躇うほど颯爽としていて、キュールは上げかけた声を途中で飲み込む。


「Fさんは…彼等と仲がよろしいんですね」
「うん、仲良しだよー。悦は超お菓子つくり上手いし優しいし可愛いしー?傑っちは超男前でぇ、中身もイイ男だし色々相談乗ってくれるしー」
「そ…」

 Fの口調はどこまでも自然だが、それを聞く壱埜の顔はひきつるばかりだ。
 その反応に無邪気に笑いつつ、Fは自分の年齢の半分ほど年上の同僚を振り返って、眠たげに半眼にされた眼で彼を見上げる。


「壱埜も早く慣れないとー、それじゃ”犯罪者と対面した人”そのまんまじゃんー?」
「そ、そうは言われましても…」
「急には難しいよ、F。壱埜はまだ来て3ヶ月なんだし」
「でもぉー、壱埜だって入る時に鬼利さんに言われたでしょー?」
「鬼利さんに…ですか?」

 情けなく眉尻を下げながら問い返す壱埜に、Fはにっこりと笑って頷く。

「”死にたくなければ常識を外れろ”ってー。ここじゃぁネジの2、3本飛んでるのが当たり前なんだからさぁ?…登録者もアタシ達も、


 …鬼利サンだって、そうなんだし」










 ぴちゃん。

『…は……拒否……嘔吐…かと思わ……異常…』
『機…の到……のか…!?』

 ぴちゃん、ぴちゃん。

『…が効かな……なら…で…』

 …ぴちゃん。

「……」

 水の滴る音に混じって聞こえる喧しい話し声に、鬼利はゆっくりと眼を開いた。
 椅子に縛り付けられた体はぐっしょりと水に濡れたまま、裾から水が血の混ざった水溜りに落ちていく。目の前には気絶する前に飽きるほど沈められた水桶と、自白剤によく使われる薬剤の瓶と注射器。

「…何時ですか?」

 体中が酷く重く、顔をあげるのすら億劫だったが、すっと背筋を伸ばして顔を上げた鬼利の表情にはそんな影など少しも見えなかった。
 もう眼を覚ましたのか、と解りきった事を聞く尋問官に微笑み返しながら、鬼利はもう一度、今の時刻を尋ねる。


「そんなもの、知ってどうする」
「僕もそろそろ強情を張っているのは辛くなりましたので、ゲームでもと思いまして」
「…ゲームだと?」
「ルールは簡単。僕の望みを叶えて頂くごとに、僕は貴方達に情報を提供する。…自白剤は僕の体には効きませんし、拷問で意識も虚ろな状況で喋るよりは遥かに価値がありますよ」

「…下らんな。貴様が嘘を吐かないと何故言える」
「これでも経営の真似事をしています。”契約”はちゃんと守りますよ」


 血を失いすぎた所為か、時折視界がゆらいで焦点がブレるのを無視しながらじっと軍警員を見上げると、彼は軽く舌打ちしながら手元の時計に視線を落とした。

「…17時18分だ」
「ありがとうございます。では早速……4日前の、バーレンハルツ皇国議員の私邸襲撃は私共の仕事です。依頼主は、ラビヌス卿」
「馬鹿な!」

 頭の中で自らが監禁されてからの時間と、残してきた幹部達が指揮を取って行っているであろう”本部”の状況を予測しながら、鬼利はガンっと壁を殴りつけて吠えた軍警員を冷ややかに見上げた。

「ラビヌス卿とバーレンハルツ殿は幼馴染だぞ!?」
「知っていますよ。政略に見えぬようにとのお達しでしたので、ご家族と使用人を逃がした上で、少々手荒でしたが邸を焼きました」
「……確かなのか」
「僕自身が、当方で子飼いにしている壱級指定犯罪者に指示したことです」
「……」


 唇を噛んで黙り込んだ軍警員を横目に、鬼利はちらりと室内を見渡した。
 コンクリートに固められた四角い部屋で、出入り口にはいかにも重厚な鉄扉。見える門番は2人だが、きっと裏側にも何人か控えているだろう。
 ここの規模なら少尉程度が全指揮を持っていてもおかしくない。室内にいるのは門番含め少尉とその部下2人の5人だが、少数精鋭とはいえ兵隊の人数は20は堅い。

「少尉殿、」
「…今度は何だ」
「手足の鎖を少し緩めて貰えませんか。少し…肩が」
「肩だと?…肩がどうした」
「少し前に折ったばかりなんです。無理な態勢を続けると関節が歪んでスーツが着れなくなると医者に言われてまして」
「…いいだろう」

 どこか困ったように笑う鬼利に頷き、少尉は鬼利の体を椅子に固定していた鎖を解かせて両手首に鎖で繋いだ枷をはめ、両足を椅子の脚に繋がせた。
 部下が作業を行う間、律儀に銃に手をかけて自分を見据える少尉に鬼利は内心で小さく笑い、先ほどよりは自由に動くようになった手で血に濡れた前髪に触れた。


「昨今急増しているマフィアの抗争は、リディール一家の全面統合を持って近いうちに終結します。指揮権が全て移るまで約3日。その後は貴方達がお好きにするといい」
「先ほど貴様は、”契約は守る”と言ってなかったか?」
「…ええ、言いました」
「やはり信用できないな。今お前が言ったことは明らかな契約違反だ」

 それとも守秘義務すら無いのか、と馬鹿にしきった口調で尋ねる少尉に、鬼利は半ば呆れたようにな表情で溜息を吐くとゆるく首を横に振った。

「それは違います。リディール一家を勝たせ、権力を集中させてから一気に蹴落とすよう依頼して来たのはトルニトロイですから」
「トルニトロイ…砂漠王トルニトロイか?奴とマフィアに何の関係がある」
「彼が昔世話になった一家をリディールが潰したんですよ。ありがちな復讐劇です」


 面白くもなさそうな表情で淡々と言いながら、鬼利は襟元を正すと血で染まったネクタイを片手で緩めた。

「僕が契約を守るのは、相手が契約を守っている間です。5大富豪に数えられるにしては、あの方は払いが悪くて困っているんですよ」

「人の命など…貴様にとっては金づるでしかないということか」
「まさか」


 不快感も露に言った少尉に、鬼利はすぐさまその言葉を否定する。じろりと睨みつける少尉とその部下を眺めながら、穏やかとも言える表情で微笑んだ。

「命はかけがえの無いものですよ。無為に奪われることなどあってはいけない」
「では貴様のやっていることは何だ?」
「物事には例外というものが存在します。死んだ方が世の為人の為になる人間というのも、実際に存在してるんですよ」
「所詮自らの悪行を正当化する言い訳だ。死んで為になる人間などどこにいる」


 吐き捨てる少尉の瞳は真剣で、まるで正義漢を絵に描いたようだった。
 自分などに出会わなければ、その瞳が曇ることもなかっただろうに。改めて囚われの身となったことを後悔しながら、鬼利はにっこりと微笑んだ。

「いるじゃないですか、ここに」
「…何?」
「貴方達の正義に添う為にはもう死ぬしか無い。…僕が”例外”のいい例です。そうでしょう?」
「ッ……」

 普段なら1も2も無くその言葉を肯定しただろうが、少尉はすっと反らされた鬼利の視線とその表情に、言葉を返すことが出来なかった。

「遠慮してるんですか?考える必要なんて無いでしょう」

 どこか物憂げな表情で空中を見つめていたオレンジの瞳が、冷たい笑みを湛えながらぞくりとするような流し目で少尉を見やる。


「…頷いていいですよ」










 Y‐002地区真上、空。
 人工ではない太陽が影を長く伸ばす中、両脇を廃墟に囲まれ舗装の崩れた元・公道を、派手なペイントを施された装甲を付けられたバンが走る。

 ”街”の地形で言うTからZ地区の真上は、皇都の発展に伴って捨てられた廃墟郡が多い。都心部と比べて寂れた廃墟の街を瓦礫にタイヤを取られないよう進みながら、セピアはちらりと後部座席を見やった。

「あ?…だから、今向かってるって。悦のトモダチにちゃんと送らせっから。……それより仁王、幽利は?…寝てる?ちゃんと閉じ込めとけよ、危ないから」
「…おい、悦」
「なに?」


 ”悦のトモダチ”という言葉にぞくりと背筋が寒くなるのを感じながら、セピアは自らをこの地獄のようなドライブに借り出してくれ、助手席で暢気に雑誌を読んでいる悦を横目に睨みつけた。

「何、じゃねぇだろうが!ドライバーやれとかわけ解ンねぇこと言い出したと思ったらこんな車に乗せやがって!後ろに乗ってるのは何だ!」
「何でそんなコソコソ喋ってんだよ…傑だろ?」
「呼んだ?」
「ッ馬鹿、声がでかい!」

 音量を落としたまま怒鳴るという芸当を披露しながら、セピアは悦を黙らせつつ座席ごしにこっそりと背後を振り返った。
 戦車にも穴を開ける大口径のライフルと共に後部座席に座っているのは、ある意味ウランやニトロを積むよりも恐ろしい、別名『世界の敵』とも呼ばれる危険人物。

 長い付き合いだ。セピア自身にそっちの気は無いが、悦と傑がそういう関係だということは知っている。確かにノーマルではないが、死体とヤるのが趣味だとか、断末魔を聞かないとイケないという連中がごろごろしている中では、性別がどうだのというのは些細な問題だから特に気にはしていなかったのだが、


「どうしてッ、そのデートに俺が巻き込まれなきゃいけねぇんだ!」
「っで、デートとか、そんなんじゃ…ねぇよ」
「照れてる場合か!俺には死活問題なんだぞ!」

 悦には優しい零級指定賞金首が、万人に優しいとは限らない。悦曰く、世環傑は無駄な殺生をするほど弱くは無いので怒らせなければ大丈夫らしいが、現存する「化け物」の1人と廃墟郡をドライブなど、とてもじゃないが生きた心地がしなかった。

「そもそも怒らせなければ、って何だ!純血種の沸点なんて知らねぇぞ俺は!」
「怖がり過ぎなんだよ、セピアは」
「相手誰だと思ってやがんだ!?全力でまともな反応だボケ!」
「動脈掻っ切ったり、体に向こうが見えるくらいの穴開けたりしなければ大丈夫だから」
「向こうが見えない程度の穴なら開けてもいいってのか!?」
「うん。…セピアの腕じゃかすりもしねーだろうけど」


 皮肉のつもりなのか、明るい調子で言って楽しげに笑う悦の無邪気な横顔に殺意を覚えながら、セピアはバックミラーに映る後部座席を盗み見る。

 さっきまで本部と繋げていた端末を片手に、ドアの縁に頬杖をついて窓の外を眺めるその姿こそ、異常に絵になる美男の見本のようなのを除けばごく普通だ。

 これでまだ鬼のような形相でこちらを常に睨みつけているとか、外見がいかにもな化け物だったらまだ救われるのに、あからさまに一見害が無いところが質が悪い。


「…ん?」
「ッ…!」

 思わず見つめてしまったのが悪かったのか、反応した傑から視線を反らそうとした時にはすでに遅く、セピアはその藍色の瞳と鏡の中でバッチリ眼を合わせてしまった。

 視線を外すに外せず、背筋を冷や汗が濡らすのを感じながらしばらく見つめあい、…そして不意に、傑がどこか困ったような表情で笑った。

「そう怖がンなって。別に獲って食いやしねーから」
「…あ、あぁ…いや…」
「嘘吐け。獲って食うだろお前は」
「いっくら俺でも仕事中にガブっとやったりしねぇよ。ちょっと味見に齧る程度ー」
「は!?」

 ―――か、齧る?!

「その”程度”が問題なんだよ、傑は。セピアには手ぇ出すなよ?」
「へーきだって、俺ガチはパスだから」
「…じゃぁ、もしセピアが俺くらい細かったら?」
「あー…飢えてたらいっちゃうかも」

 ―――飢え…ッ!?

「……」
「悦?…えーつ、こっち向いて」
「……」
「ったく…」


 自分で言っておいて傑の返答に拗ねたらしい悦は、傑の呼びかけにぷいっと横を向いたままで応じない。
 ハンドルをがっちり握りながら、どうなることかと横でびくびくしながら状況を見守るセピアの背後で傑はしょうがねぇなという表情で呟くと、シートから体を浮かせて背筋を伸ばしたセピアではなく、悦の座るシートの脇にするりと手を伸ばし、

「うぁッ!?ちょ、いきなり何…ん!」
「…機嫌直った?」
「……っ」


 バコン、と傑がシートを倒す所から驚いて叫んだ悦の唇を傑がキスで一瞬塞ぎ、エロい表情と声で甘く囁き、悦が顔を真っ赤にしながら俯く、という光景までを一部始終目撃してしまったセピアは、そこではたと我に返って慌てて視線を反らす。

 ―――帰りてぇ…。

 これから囚われの身となっている鬼利を助け出そうというのに、寛いで楽しげに話す2人の横で、セピアはちょっと泣きそうになりながらアクセルを強く踏み込んだ。










「…なんてことだ…」

 部下に書き取らせた鬼利の”密告”を改めて見直し、少尉は額の傷を止血する等の簡単な要望と引き換えに語られたその内容の深刻さに、絶望的な思いで呟いた。

 一代で財を築いた富豪やマフィア、黒い噂の絶えない企業家などが絡んでいることはある程度予想の範疇ではあったが、数が多すぎる。




 ほぼ殺人行為だけだと思われていた”ILL”の依頼内容は、情報提供から盗み、脅迫、護衛、交渉など多岐に及び、クリーンな経営内容で知られる大企業ですら”ILL”に数回情報提供を依頼していた。


「今言ったことは…神に誓って確かなことか」
「ええ、確かですよ。貴方の信じる神に誓って」

 どこか含みのある口調で言い、鬼利は予想以上に酷い現状に苦悩する少尉を楽しげに見上げた。

「…信じられませんか?依頼主の素性が」
「ああ…信じられんな。…名だたる大企業の名前が、こんなにも上がるとは」
「軍部警察との協定では、”標的は純然たる悪人のみ”とありますが、依頼主については何も制限がありませんから」
「はッ…あくまで我々との協定を守っている、と言いたいのか」


 数年前、”ILL”と軍警の間に結ばれた協定の存在は少尉も知っていた。
 軍警が”ILL”の経営に不可侵を貫く代わりに、”ILL”の標的は社会的な悪人と呼ばれる者のみに限定し、一般人の家屋や人間そのものを傷つけた場合は、厳罰を持って登録者を罰す。

 簡略化すれば内容はこうだが、あの”ILL”が馬鹿正直に従っているとはとても思えない。

「そもそもあの協定は我々の真意では無い。正義のなんたるかも忘れた者達が取り決めた協定だ」
「そうなんですか?私は賢い判断だと思いましたが」
「…なんだと?」


 低い声で唸り、その胸倉を掴み上げた少尉に小さく苦笑し、鬼利は手を振り解くでもなく「だってそうでしょう、」と言葉を続ける。

「”ILL”の登録者でいる限り、彼らは一般人には手を出さない。もし出せば、自分よりランクの高い登録者から制裁を受けます」
「…その程度で怯むような奴等なのか?」

「怯みますよ、特に壱級は。制裁とは言っても単なるリンチですから、相手の機嫌が悪ければその場で死ぬかもしれない」
「……」
「確かに我々は許されない悪です。でも”必要悪”というのはどこにでもあるものなんですよ。現に、政治的に手を出せない場合は軍警からの依頼も―――」
「黙れッ!」


 怒声と共に鈍い音が響き、顔面を拳で強く殴りつけられた鬼利は揺れる視界に内心で軽く舌打ちした。舌に感じる血の味を床に吐き捨て、襟を掴む少尉の手を引き剥がすと少々乱暴に襟元を整える。

「…そんなに許せませんか、我々の存在が」
「当たり前だ…!」

 低く地を這う少尉の声に鬼利は無表情に眼を細め、血の気を失った手が血に染まり首に引っかかるだけとなったネクタイを解いて床に投げ捨てる。

「それなら、貴方達はこんな手順を踏むべきではなかった。”街”ごと地中に沈めてでも、徹底的に卑劣な手段を取って我々を潰すべきだ」
「そんな真似できる筈が―――」
「”世界で最も純粋な悪”として名を売る”ILL”に、そんな弱腰で敵う筈ないでしょう。

…洒落や遊びで命張ってるわけじゃないんですよ、僕等も登録者も」


 ワントーン落ちた、少し低い声。
 怒鳴っているわけでもないのに殴りつけられたような衝撃を与えるその声に、二の句が告げない少尉とその部下を橙色の瞳が睥睨し―――そしてふ、と嗤った。


「…まぁ、もう遅いですけどね」










 それは一瞬の出来事だった。
 音を立てて扉が開き、身構えた門番2人がまるで何かの冗談のように壁に叩き付けられ動かなくなった。侵入者はあっというまに狭い空間を支配し、それまでぴしりと板を張ったようだった鬼利の背が、初めて背もたれに寄りかかる。

「悪ィな、遅れて。待った?」
「…少しね」

 部下からすり取ったのか、壁に叩きつけられた衝撃で体が麻痺したように痺れたまま動けない少尉の前で、若い男のように見える侵入者は鬼利に鍵の束を放った。


「何人殺した?」
「ゼロに決まってンだろ。軍警員殺すほどバカじゃねぇって」
「それを聞いて安心したよ」

 手足の枷を解き、侵入者の手をかりて椅子から立ち上がりながら、鬼利はそれまで少尉が見たのとは全く違う、心からホッとしたような表情で微笑む。
 開け放たれた扉の向こうから響く銃声に、恐らく外で襲われているであろう部下を思って強く奥歯を噛み締めながら、少尉は無防備な鬼利の頭に銃口を向け、

「撃つなら俺にしとけよ、大将」
「なッ…!」

 標的を定め引き金を引いた瞬間。少尉の目の前には一瞬前まで数メートル先で背を向けていた男が視線を合わせるようにしゃがみこんでいた。
 何があったか理解できず、硬直した少尉に薄く笑い、どこかで見覚えのある綺麗な顔をした若い男は、その引き金を抑えていた手で少尉の手から銃を取り上げた。

「大将じゃなくて”少尉”だよ。…1人じゃないの?」
「どーせだからついでにデートしようと思って。あと運転手にセピアって奴も」
「セピア?…可哀想に、お前なんかと一緒じゃ生きた心地がしなかっただろうね」


 軽薄な若い男の言葉に楽しげに笑いながら、鬼利は傷ついた脚を庇う素振りもなく彼の傍らまで来ると、少尉を見下ろしてにっこりと微笑んだ。





「ありがとうございます、少尉殿。貴方達が僕を誘拐し尋問してくれたお陰で、軍警をゆするネタが出来ました」
「な、に…っ?!」
「最近、どうも国境外のマークが厳しくて参ってたんですよ。この傷の代償に、今度の交渉でそれを緩めさせます」


 おざなりな止血をされた左足をとん、と指先で叩きながら鬼利は決まりきった決定事項のように言い放ち、そのすぐ傍らに若い男を伴いながら扉まで行くと、そこで何かを思い出したようにぴたりと脚を止めた。

「…先程お教えした依頼主ですが。あれは全員、軍部警察の上層部にご友人が多い方です。告発などしようとすれば貴方と部下の首が飛びますから、お気をつけて」

 半ば呆然とした表情でいる少尉を振り返り、自らの血によってルージュを引いたように艶やかな唇が、優雅に弧を描く。


「なかなか楽しめる”ゲーム”でしたよ、少尉殿」










 世界がぐるぐると回るような眩暈を堪えてなんとか階段を上りきった所で、鬼利は横からぐいっと自分の半身を持ち上げるような力にそちらを振り返った。

「…歩けるよ」
「知ってる」
「……歩ける、ってば」
「知ってる」
「……」

 手を振り解こうにも、血を失い精神的にも疲弊した体にそんな体力は残っていない。せめてと口で訴えてみても、傑は同じ言葉を繰り返すだけで、鬼利の体を支えるように組まれた腕を離してはくれなかった。

「ん、お帰り」
「ただいまー」

 タイヤを撃ちぬかれた装甲車と気絶した軍警員が転がる横を通り、傑に支えられながら廃墟を出た鬼利は、聞き慣れたのんきなやり取りに重い頭を上げる。

「大丈夫かよ、鬼利。撃たれてんの?」
「…一発だよ。もう抜けてる」
「そ?俺と傑、このままちょっと出るから。帰りはコイツに送って貰ってくんねぇ?」

「解った。…悪いね、セピア。わざわざ来て貰って」

 運転席から強張った顔でこちらを見ているセピアに、取り繕った笑顔でそう言うと、ここに来るまでで相当神経を使ったらしいセピアはガクガクと頭を振って頷いた。
 その反応に小さく笑いながら後部座席に乗り込み、悦が助手席を降りたのを横目に、鬼利はゆっくりと息を吐きながらシートに体を預ける。


「あの、よ…鬼利、」
「…なに?」

 傑と悦をその場に残してバンを発車させながら、セピアがちらりと鬼利を振り返った。

「…真っ直ぐ、帰るからな」
「……」
「悦に言われたんだよ。アンタは仕事バカだから、そのまま打ち合わせとかに行こうとするだろうけど、やせ我慢してるだけだから絶対真っ直ぐ帰れって」
「…そう」


 セピア程度ならいくらでも言い包められたが、悦にそこまで予測されて釘を刺されているのに、敢えて刃向かうというのもバカらしい。

「…やせ我慢、か」

 周りの風景が廃墟から街並みに変わるのを眺めながら、鬼利は苦笑しつつぽつりと呟き、
 最高幹部として”ILL”に戻るまでの数10分間、バンの後部座席で少しだけ眠った。










 翌日。
 時間にしてほんの半日とはいえ拘束され尋問を受けていた鬼利は、翌朝何も無かったかのように執務室に居た。

「はい、報告書」
「あぁ…お疲れ様、悦」

 いつも通り、数枚の現場写真とネガを入れた茶封筒を差し出した悦に、繋げていた通信を切りながら、鬼利はそれを受け取ろうと包帯の巻かれた左手を伸ばし、


「ちょ、っと…ッ?」
「…やっぱり」

 鬼利が封筒を取った途端、ぐいっと手首を掴んで掌までを覆っていた包帯を剥ぎ取り、悦はそこにあった見慣れた傷に小さく苦笑した。

「おかしいと思った。撃たれた鬼利を幽利が仕事に出すわけねぇもん」
「……」
「目隠しいらねぇの?…幽利」

 執務卓に頬杖を吐きながら、鬼利―――基、鬼利の格好をした幽利を小首をかしげつつ見上げ、悦は悪戯っぽく笑う。
 それにつられたように笑いながら、幽利はかけていた伊達眼鏡を片手で外した。

「上手く化けられたと思ったんですがねェ…旦那にゃァ敵わねェや」


 受け取った封筒をばさりと投げ出し、袖を丁寧に捲り上げて剥がされた包帯を巻きなおしながら、幽利はシャツの襟で隠されていた鬼利のものより少し長い髪を出した。


「どこで解ったんで?」
「入った時。確かに顔は似てるけど、鬼利はもっと眼つき怖ぇし」
「ははッ、聞いたら怒りますよ」
「”本物”は?医局?」
「今っスか?今は寝室で……あァ、まだ寝てます」

 鬼利と幽利の居住区は執務室の真上にある。寝室があるだろう方向を見上げて答える幽利の眼は愛おしげに細められていて、その横顔を見ながら悦は楽しげにくすくすと笑った。

「そんなに心配ならついてればいーのに。1日くらい休んだって平気じゃねぇの?」
「この時期は忙しいんスよ。だから、”どうせ看てるしか出来ないなら、僕の代わりをやっておいで”って言われて…」
「っとに仕事好きだな、アイツ…その内過労死しそう」
「まさか」


 呆れて呟いた悦の言葉を、幽利は笑いながらもあっさりと否定した。

「言い切れンの?」
「えェ、勿論。約束がありますから」
「約束?」
「ガキの頃に約束したんですよ。鬼利が死んだすぐ後に、俺が死ぬって」

 まるで当然のことのように言って捲り上げていた袖を戻すと、幽利は外に出していた髪を器用に襟の内側へと隠した。

「だから、鬼利はそう簡単にゃァ死なねェんですよ。俺を殺すことになりますから」
「…俺さ、」
「はい?」
「復讐の為に何百人も殺す奴とか、好きだからって理由で相手殺す奴とか、飽きるくらい見てきたけど……偶に、そんな奴等も何倍も、お前等の方が異常に見える」
「ははッ、異常ですか」

 表情こそいつものとおりだが、秘め事を話すようにひそめられた声で言われた悦の言葉に、幽利はけらけらと笑い、外していた伊達眼鏡を掛け直した。
 鬼利の外見に幽利の口調で、それはそれは楽しそうに。


「そんなこと、百も承知です」



 Fin.




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