1840。
左腕の時計を確認して、クロムは再び後ろ手に腕を組みながら視線を前に戻す。
地下二階、第14資料室。クロムが何度も足を運んだアルファの”隠れ家”は、ファイルを詰め込んだ棚や天井の監視カメラを全て撤去されて、かつての地下牢を彷彿とさせる無機質な空間になっていた。
クロムが部屋に運び入れたのは粗末な机と椅子だけで、来月には粗大ゴミとして処分される予定のその椅子の一脚には今、人間の姿をした”兵器”が座っている。
「そうだ!ごめんね、お茶も出さないで。傑君はストレートとミルクどっちがいい?」
「ザネリならストレートで」
何気なく言われて、ティーセットを乗せたトレイを引き寄せていたアルファの手が止まった。
トレイに乗っているのは屡李のティーセット一式だ。今、他社の追随を許さない保温性を持つポットに入っているのはただのお湯で、茶葉はカップと同じデザインのティーストッカーの中にある。そして2日前、密閉されたそこにクロムが移したのは、確かにザネリの茶葉だった。
後ろに立つクロムにはゆっくりと顔を上げたアルファの表情は解らなかったが、これから何を言い出すか想像するのは容易かった。
「スゴい!ねぇ、なんで解ったの?俺がいっつも飲んでるのはウェジネでこれは屡李だし家はいくつも茶園持ってるしザネリは季節外れなのに!」
予想通り、堰を切ったように喋りだしたアルファに、クロムはやれやれと息を吐く。興奮するといつも以上に言葉が足りなくなるのも、アルファの悪癖のひとつだ。
アルファは紅茶の中でも刺激的なウェジネを好む。貰い物の屡李の陶器は密閉性が高いことで有名で、そのティーストッカーの中の乾燥した茶葉の匂いを嗅ぎ分けられるのは訓練された犬くらいだろう。トゥーレ家は貴族階級の嗜みとして懇意にしている茶園が世界中にあり、ザネリの最盛期は冬だ。茶葉を家から持ち出したのはアルファで、ストッカーに移し替えたのはクロム。密告者でも居れば特定は容易いが、出される茶葉を特定したところで意味は無いし、”兵器”が毒を気にするとは思えない。
余程鼻がいいのか、透視でも出来るのか、単に密告者が居ることを匂わせているだけなのか。相手は”兵器”だ。選択肢が多すぎる。
となれば、当然アルファは聞く。知識量と反比例して頻度は減ったが、なんで、どうして、は幼い頃からの彼の口癖だ。不思議を不思議と楽しむ情緒も、己が知らないことを相手に知られる不利益の損得勘定も、知識欲の権化には備わっていない。
「わざわざお茶を調べるとは思えないし、もしかして俺達が気づかない内にストッカーを開けて中を覗いたとか?だって確信を持ってたよね。君は絶対にここに入ってるのがザネリの茶葉だって知ってたよ、そういう言い方だったもん。見えるの?」
「見えねーし、見てもねーよ」
椅子から腰を浮かせて身を乗り出すアルファに苦笑しながら、美貌の“兵器”は答える。
「普通に、匂いで」
「……匂い」
ぽつりと呟いて、アルファは椅子に腰を下ろした。呆けたように宙に視線をやること約2秒。癖の強い赤毛の下で“純血種”の嗅覚を分解して分析する実験を幾通りか考えてから、ゆっくりと正面の藍色に視線を戻し、アルファはへにゃりと気の抜けた声で言う。
「傑君は鼻もいいんだねぇ」
その言葉を聞いて、クロムは剣の柄頭に置いていた手を腰の後ろで組み直した。いつものアルファなら直ぐにでも思いついた実験を試す所だが、今回ばかりは当初の予定通り、会話を優先することにしたようだ。
「他の皆もそうなの?」
「選別は荒いけどな」
「どうして?」
「俺と違って経験則と状況で勝手に選別してるから」
「なんで傑君はそうしないの?」
「これでも成功例だからな」
「じゃあ傑君は五感の選別の全てを意識下で取捨選択してるってこと?毎日毎分毎秒一時も休まずに?」
「大したことじゃねーよ。それ用にある程度の”容量”空けてあるってだけだ」
「どうして他の皆はそうしないの?」
「要らねぇからな」
「どうして?」
「他の連中は”自分”が残ればそれでいい。俺はそうもいかねぇんだよ」
「じゃあ、それは君にだけ与えられた“指令”なんだね」
ふんふんと頷きながら、アルファは茶葉を入れたティーポットをゆるりと一度回す。
「……いや、残されたと言うべきなのかな?」
「さぁな」
「うふふ」
カップを用意するアルファの手は震えていた。勿論、興奮によってだ。
その証拠に、クロムの位置から見えるヒール8センチの特注の軍靴が、打ちっぱなしのコンクリートの床の上でうずうずと足踏みをしている。踵の分だけ嵩増しすれば上背190を超す四軍師の男が、これではまるで子供だ。
「ねぇ傑君」
カタカタとソーサーを鳴らしながらカップを並べ、そっとその中に紅茶を注ぎながら、アルファは喜悦に蕩けた声で問う。
「それは、俺にだから言えないの?それとも誰にも言えないの?」
「誰にも」
「じゃあ鬼利君にも言えないんだね」
「ああ」
「人間以外なら?」
「無理だろうな」
「そうなんだ」
ぴったり2杯分で空になったティーポットを置き、アルファはこつんと踵で床を叩いた。
「君にも解らないんだね」
聞き慣れた猫撫で声が、ずしりと重力を孕んで部屋に満ちる。
背筋に走る寒気を腕を組み直す事で誤魔化し、クロムは視界の端に捉えていたアルファの後頭部から意識的に視線を反らした。幼馴染の言動はいつだって突然で、次の瞬間にはこちらを振り返って同意を求めて来ないとも限らない。
それが例え戯曲の一節をもじったものであろうと、乳飲み子の上げるそれのように意味の無い泣き声であろうと、アルファの発した言葉であれば、クロムがそれに妥当な相槌を打ってやることは容易いが、今のアルファの目を直視することだけは避けたかった。
そんな、クロムが忌避する視線を真正面から受け止めて、“兵器”は笑う。不自由な体の姿勢を直すほんの一瞬、アルファから反れた視線は確かにクロムへと向けられていて、その藍色の視線には何か、クロムの気の迷いでなければ、憐れみが含まれているように見えた。
それが幼馴染であり盾であり側近である男に忌避されるアルファに向けられたものなのか、幼馴染であり王であり戦友である男を明日にでも手にかけねばならない己に向けられたものなのかは、クロムには解らなかった。
「傑君、お砂糖いる?」
「いや」
「じゃあ、どうぞ」
既に先程の話題には何らかの結論を出したのか、場違いに呑気な声で自らが作り出した重苦しい空気をぶち壊したアルファが、カップのひとつを押し遣る。世界有数の高級茶器が滑った先は、当然のように対面に座る賓客の前だ。
椅子に座るのにも介助を必要とする程に拘束された藍色の瞳の賓客は、今度は小細工無しにクロムを見上げた。アルファと対峙した多くの人間がそうであったように、その瞳は雄弁にクロムへ困惑と疑問を投げかける。「これには何か裏があるのか、それともこいつが馬鹿なだけか?」と。
「……うん、上手く淹れられた。ほら、傑君も冷めないうちに飲んで飲んで。喉乾いてない?」
クロムと“兵器”の無言の会話など全く気にせず、アルファは尚もお茶を勧める。それを聞いた藍色が何かを諦めたように一度伏せられ、億劫そうに体を捩って前傾姿勢を取ろうとするのを見て、その口元にカップを運んでやる為にクロムは組んでいた腕を解いた。アルファの真意など読めた試しが無いが、少なくともクロムが知る限りでは、彼には賓客に紅茶を犬のように舐めさせて悦に浸るような性癖は無い。
「ああ!違う、違うよごめんごめん!そうじゃなくて!」
「……は?」
「……ではどうしろと言うんだ」
カップに直接顔を近づけようとする“兵器”と、その尊厳を守る為に一歩踏み出したクロムとを、アルファはバタバタと手を振り回して制止する。怪訝そうな藍色と、呆れた鋼色、それぞれの視線に全く臆することなく、それどころか全力で不思議そうな顔で交互に2人を見ながら、アルファは“兵器”を―――正確には彼が纏っている拘束衣を指し示した。
「それ脱げばいいよ、疲れるでしょ、そんなの着てたら。お茶も飲めないし」
「……」
「……」
ね?ね?と言わんばかりに忙しなく視線を向けてくるアルファに、兵器は苦笑し、クロムは溜息を吐く。アルファはスープをフォークで掬おうとする者を見るような目でこちらを見てくるが、この場でのその発言は地雷原で、毒ガスが蔓延していて、軍に封鎖されている土地でのピクニックを提案しているのに等しい。
クロムは拘束衣の性能を信じていない。仕様書を確認し、完成品を2日かけて検品し、すり替え防止の印を数十通りの方法でつけ、返却の1時間後には装着されるようスケジュールを組んだが、必ずすり替えられているか、何らかの細工が追加されていると考えている。彼我の立場が逆ならばクロムは必ずそうするし、そう出来るからだ。目の前の兵器が”無力化”されている等とは微塵も信じていない。
だが、それでもあの拘束衣にはこの場に限り、物理的ではない拘束力を持っている。軍警が用意した保険ではなく、ILLがアルファの無力化の要請に応じて用意した拘束衣である以上、その効力はこの取引の契約の一部だからだ。それは現存する遺術の最高峰と対峙する上で、唯一にして最大の保険となる。
それを、その拘束衣を、お茶が飲めないという理由で脱げなどと。
「……馬鹿か貴様は」
「えっ、なんで?」
「折角かけた保険を何故台無しにする必要があるんだ。茶を飲ませたいなら俺が流し込む」
「えぇ……クロちゃんいつも水責めは時間が掛かりすぎるとか言う癖になんでこんな時だけ積極的なの……駄目だよ傑君じゃなくて他の人にやってよ」
「茶化すな。禁則事項を定めただろう」
「解ってるよ、さっきだって齧られなかったでしょ。大丈夫だよ」
「俺はやらん」
「ええ!一条で俺は触れないんだからクロちゃんやってよ!」
「三条十二項に記載した筈だ」
「腕のベルトちょっと外したくらいで殺されるなら俺とクロちゃんどころか本部の皆死んでるよ!人類が滅亡してないんだから大丈夫だって!」
「危険性の有無は俺が判断する。貴様は俺に上官の首をみすみす差し出せというのか」
「あー!上官って言った!それ俺嫌いだって言ってるのに!」
「喚くな。今すぐ返還してもいいんだぞ」
「クロちゃんの意地悪!」
「何とでも言え」
素っ気なく顔を背けたクロムをアルファは歯軋りしそうな顔で凝視するが、悔しそうにぶつぶつと繰り返されるのは意地悪意地悪という子供のような恨み言ばかりだ。
その地位を鑑みればクロムの創った約定など容易くアルファは踏みにじれるが、「上官」と呼ばれるのを嫌う四軍師はそれだけは絶対にしない。無尽蔵の知的好奇心に従った暴走の結果が、一年に渡ってクロムにただ「隊長」と呼ばれ副官として傅かれる退屈と寂寥だと、賢い幼馴染は三年前に学習済みだからだ。
「……わかった」
渋々と、心の底から渋々といった声音で、アルファがぽつりと呟く。
クロムが背けていた顔を戻すと、年下の幼馴染は予想通り、不貞腐れた子供のような顔でクロムを横目にしていた。
「じゃあ、傑君に脱いでもらう」
「どういう意味だ」
「クロちゃんはさ、どうせアレに細工がしてあると思ってるんでしょ。じゃあ傑君に脱いで貰えばいいよ。契約不履行になるから。ね、それならいいでしょ?」
「いや、俺がよくねぇよ」
「……」
唇を尖らせた横顔は腹立たしいが、アルファにしてはマシな譲歩案だ。机の向こうから上がった抗議の声を聞き流して、クロムは暫し黙考する。
クロムは拘束衣の性能を欠片も信用していない。例えばそれが定期的に生贄として寄越される自分の名前すら言えなくなった犯罪者であっても、ILLから齎されるものには必ず何らかの細工がされている筈だった。数%の例外は例外ではなく、隊員やクロムや、アルファまでもが“気づけなかった”事案に過ぎない。そう確信するくらいには、クロムはILLを、それを率いるあの一般人の狡猾さを買っている。
そんな男が、己の手札の中でもとっておきの一枚を、無駄に消費することなど有り得るだろうか。
データから推測するに、口さえ自由ならこの鬼札は現在本部塔にいる全ての生き物を16分程で殺し尽くすことが出来る。自由を奪う最強の拘束衣は同時に盾となり、露出した頭部に関しても最短2秒での再生が観測されている。戦争になれば勝ち目はほぼ無い。だが、幸運な偶然が重なり、数十年を掛けて蓄積してきたもしもの備えが全て機能したならば、負けないことは出来る。
奇跡のような確率の話ではあるが、クロムにも考えつくような可能性を、あの男がただ放置するだろうか。否だ。そんなことは有り得ない。
なればこそ、やはり、必ずこの拘束衣には細工がされている。四軍師の一人がILLに対して要請した「無力化」の為の拘束衣が、例えそのベルトの一本でも着用者の意志で外すことが出来るのなら、アルファの言うとおりそれは立派な契約違反だ。その事実は今後軍部警察にとって充分有益な手札となり、アルファと定めた禁則事項の六条七項の例外事項にも妥当する。
「……いいだろう」
黙して5度目の瞬きを終えて、クロムはゆっくりと首肯した。目の前の“兵器”に安全性など元から認めていない。絶命するのが1秒後からそれ未満になろうが構いはしない。必要なのはあちらにあってこちらに無いもの、有事に使える手札だ。
「いや、だからこっちは良くねぇんだって」
「なんで?」
「一枚いくらすると思ってンだよこれ。鬼利が怒る」
「大丈夫だよ、ほら、俺がどーしても、どぉおおおおしても脱いでくれなきゃポットに顔突っ込んで溺死する、って脅したとかさ、そういう感じで言えば」
「器用な自殺だな」
「ほら、俺こんなだから。あいつなら言いかねないな、ってきっと鬼利君も思うよ。もし怒られそうだったら言ってくれたら説明するし」
「ポットに顔突っ込んで溺死する方法を?」
「うん。このポットじゃ容量的に厳しいから、人間がちゃんと溺死出来るだけのお茶が入るのを作っとくね。データは揃ってるからバッチリのが出来ると思う」
「んー……ベルトの金具を狙って蜂の巣にするとかじゃ駄目?」
「やだ」
「そうか、やだか……」
きっぱりと言い切られて、美貌の兵器は遠い目をして天を仰ぐ。その姿は写真に残る己の、それも決まってアルファと共に映っている時のものと酷似していて、クロムはポーカーフェイスの下で少しだけ同情した。
「ねぇ、お願い傑君。俺どうしても君が自分でそれを引き千切る所が見たいんだ」
「……どうしても?」
「どうしても」
アルファお得意の猫撫で声で溌剌と言い切られて、拘束衣姿の賓客は溜息を吐く。正面に向き直り、期待に満ち満ちた目で彼を見つめるアルファの瞳に一片の翳りも無いのを認めてもう一度溜息を吐き、億劫そうに不自由な体を背もたれから浮かせた。
「しゃーねぇから、やるけど」
「ホントに!ありがとう!」
「お望み通りに引き千切ってやるから、動くなよ。腕だけな」
「大丈夫だよ、止められるなんて俺もクロちゃんも最初から思ってないから!」
「そうじゃねぇよ」
ふっと苦笑して、藍色がクロムを見る。
「そっちには金具飛ばさねぇから、ビビって動くなよ」
挑発めいた言葉の背後で、みしり、と音がした。
それは実に小さな動作だった。隠されていた筋肉が膨張して隆起するわけでも、化け物の呼び名に相応しく鋭い歯でミサイルさえ受け止める特殊繊維を喰い破るでもなく、“それ”はただ不自由な体を斜めに捻っただけだった。少なくともクロムにはそう見えた。
そして、ただそれだけで、それの両腕を戒めていた3本のベルトの内の1本が、金具をひしゃげさせながらバチンとその肩越しに跳ね上がった。
「ん、」
鞭のような速度で体の前面に跳ね、鈍い音を立ててその胸板を叩いたベルトを危なげなく首を傾けて避けながら、それは更に体を捻る。潰れた金具が少しずつその右肩口に消えていくのを見てようやく、クロムはそれが左腕を上げようとしているのだと気づいた。
引き千切ろうとしているのだ。
ハンカチほどの面積で対戦車ミサイルを受け止める「アトロポス」で編まれた拘束衣を、拘束されたままの腕で、内側から、宣言通りに。
ごきり、と鈍い音が響く。関節が外れた音だ。肩の可動域は決まっている。構造上の限界はどうしたって存在する。それを超えて、それでも尚、“それ”の動きは止まらなかった。
椅子に座った下半身は微動だにしていない。白磁の肌には汗一つ浮いていない。
まるで出来の悪い合成映像だ。ぎちぎち、めりめりと音を立ててゆっくりと左腕が上がっていくにつれて拘束衣の右側が絞られていき、とうとう肋骨がある場所がべこりと陥没しても、それを纏う美貌の虜囚は眉一つ動かさなかった。既に関節の可動域を超えた左腕だけが、鈍色に包まれたその内部の状態を胸の悪くなるような音で伝えながら、ただゆっくりと持ち上げられていく。
「……よ、っと」
軽い掛け声と共に、とうとう肘が頭よりも高い位置まで来た左腕が、耳を聾するような破裂音と共に戒めを抜けた。弾かれたように上がった左腕には確かにベルトの残骸が、千切れてこそ居ないものの、原型を留めぬ程に引き伸ばされてリボンのようになった繊維が纏わりついていた。
既に関節から外れて久しい筈の左腕は、金具を千切った勢いそのままに、ぐるりと体の前面に回って、机に引っ掛かりながら体の側面へと落ちる。肩口に寄った不自然な皺を見れば、その中身がどうなっているかは想像に難くなかった。
その、ただの肉の残骸と成り果てている左腕を、それの持ち主は右腕で無造作に回した。ぐちゃり、と果実を潰したような音を気にした風もなく、背面に向かって。
「……それ、動くの?」
内緒話のように潜めた声で問うたアルファに穏やかに笑うと、それは正しい位置に戻された左腕で、袋状に指を包む拘束衣の為にカチリとソーサーを鳴らしながらもカップを掴む。
冷めた紅茶を、御伽噺の美姫の如き紅唇は一息に飲み干した。空になったカップを指先にひっかけ、中が見えるようにゆらりと揺らして見せながら、”化け物”は戯けた仕草で右手を掲げる。
「ご満足?」
ゆらゆらと揺れるカップから、僅かに残った紅茶が雫となってぽたりと机に跳ねた。
「あぁ……」
応じたアルファの声は興奮に掠れている。前のめりになっていた濃紫の軍服の背中が弛緩し、癖の強い赤毛がゆっくりと、首を巡らせてクロムを振り返った。
“持ち主”の視線に引かれて無意識にそちらを向いたクロムにとろりと微笑んで、底のない青灰色は囁くように言う。
「……クロちゃん、“俺達”が、“これ”を創ったんだよ」
吐息のようなその声を聞いてようやく、クロムは全身に鳥肌を立てることが出来た。
to be...
『アトロポス』
編み上げれば45センチ四方で対戦車ミサイルすら受け止める特殊繊維。
オトルル地方ミュルミ村に500年続くモリア繊維工業により再現され、現物、技術、情報の全てをILLが独占している。傑が敢えて遺した遺術の一つ。
運命の糸を切るアトロポスにさえ切れぬ糸として、挑戦と期待を込めて名付けられた。前時代の名はラケアミド。主に人為兵の装備や拘束具の素材として用いられていたもので、純血種の装備、拘束に用いられた素材よりも性能は一段劣る。量産しやすい下位モデル。
上位モデルの拘束具なら純血種を3時間拘束可能だが、技術製法の全てをメモの一枚も残さず初代傑が破壊し尽くしたので、”再現”にはもう500年は掛かる見込み。
(傑予報)
