ふわふわのシフォンケーキにかかった真っ白なクリーム。
目力アップのきらきらのマスカラ。
髪型にだって気を使うの。
自分に似合うことが第一、だけど流行もそれなりに。
私たちは素敵なものが大好き。
だって女の子は素敵ないきものだもの。
男の子達をとびっきりの素敵な嘘で
騙してあげるのが仕事なの。
「わぁー!キュールさぁんすごぉいー」
自分の左手の五指、その爪を彩るピンクを主体としたネイルアートに、Fはいつも眠たげに半眼にされいている群青色の瞳を丸くして歓声を上げた。
「気に入ってくれたかな?」
「すごぉーく気に入ったぁー!」
「それは良かった」
ピンクのマニキュアをベースに、きらきらと光るストーンや樹脂で作られた小さなケーキ、ネイルアート用の細い筆で小さな爪の上に描き込まれた蝶を光に翳して、きゃっきゃと喜ぶFにキュールは少し照れくさそうに笑う。
通常業務が終わり、いつもならば何かと相手をするゴシックが空でライブがあるとかで(いやゲームの大会だったか)さっさと居なくなってしまい、泪も急ぐほどでもない仕事を片づけていた為、同じく執務室に残っていたキュールが暇そうにしていたFに目をつけられたのは20分ほど前のことだ。
最初は確か、キャンディを舐めるFがナイフを磨く手つきを見て「器用だ」と褒めてくれていた筈だったのだが、いつの間にかFが持っていた雑誌に載っているネイルアートを彼女に施すことになっていた。間の経緯は全く覚えていない。
「キュールさんってぇーホントに器用なんだねー、すごぉーい」
「そうかな?普通の人よりは少し器用かもしれないけど」
爪にこんなごちゃごちゃしたモノを付けるなんて、何をするにも邪魔になるのではないかと思っていたが、ここまで素直に喜ばれれば嬉しいものだ。左手を開いたり閉じたり、色んな角度にして嬉しそうに眺めているFに笑いながら答えると、Fがぱっと顔を上げてふるふると首を横に振った。
「少しじゃないよぉー。アタシ自分でこれやってみたけどー、ハートも上手く描けなかったもんー」
「Fちゃんは少しぶきっちょさんだからね」
「もーキュールさん酷いー」
Fが示したネイルアートの画像は並んでいる中で最も簡単と思われる図柄で、キュールならば5分と経たずに再現出来そうだった。からかうキュールの言葉にFは不満げに眉を潜めて、ごく軽くキュールの膝を叩く。利き手の左ではなく、右手で。
「まーそうなんだけどー…」
「ごめんごめん。でも、少しくらい苦手なことがあった方が可愛いよ。ほら、今はギャップ萌えっていう…」
「…ぎゃっぷもえー?」
「いや、何でもない…」
不思議そうに首を傾げるFから思わず顔を反らしながら、キュールは脳裏をよぎった厄介な“相棒”の顔に深く溜息を吐いた。
キュールと共に参級を担当するゴシックは、最高幹部である鬼利が参加する会議にすら携帯ゲーム機を持ち込み、かと思えば目と胸の大きい少女がやたらと下着をチラ見せするアニメを眺めていたりする、俗に言うダメ人間である。
情報収集や情報戦の面では、ILLが子飼いにするどの犯罪者よりも絶大な能力を発揮するのだが、性質が悪いことにそれを全てゲームやアニメの片手間で行っている為、仕事の会話の中にそのアニメやゲームやネット用語などが混ざっているのだ。
よくも息が続くものだと感心さえする、途切れないマシンガントークを得意とするゴシックの長い長い「一言」が、いつの間にか仕事の話から二次元美少女の胸のサイズの話になっていた事などザラである。
その所為で、いつの間にかキュール自身も普段の会話で何気なく「そういう」単語を口にしてしまうようになった。情報収集以外の仕事は全てキュールに丸ごと投げる上、仕事以外でもこんな弊害を出すのだから本当に性質が悪い。
「でもホントすごぉいよねー。キュールさぁん、彼女さんにもしてあげてるのー?」
「いや…ネイルアートなんてやったのはこれが初めてだよ」
「えー勿体なぁいー」
パシャパシャと通信端末のカメラ機能で一通り左手のネイルアートを撮影し、端末より大きな虚ろな目のクマがぶら下がったそれをパタンと閉じると、Fは机に広げられていた雑誌をぱらぱらと捲った。
「彼女さんのお仕事ってぇードレスコード厳しいー?」
「それほどでは無いと思うけど…キーボードを叩く仕事だから、邪魔になるんじゃないかな」
「んー事務系ねー、コレとかならーデコってないし控え目でーお姉さんって感じでいいんじゃないかなー」
言いながらFが示したのは、肌色に近いうっすらとしたピンク色をベースに、上品なグラデーションが施されたデザインだった。ストーンも無ければレースも絵も無く、勿論小さなクマなども乗ってはいなかったが、光沢が艶やかではある。
「爪の形がきれーならーそのまま色乗せちゃってもいいしー、指を使うお仕事ならー爪が綺麗ならきっとテンションあがると思うなぁー」
「そういうものかな?」
「そーだよー女の子だもんー!」
「…どうした。騒がしいな、F」
端末を握り締めながら力説するFの頭に、すらりと長い指を持つ白い手がぽんと乗せられた。見上げればFの傍らには先程まで黙々と仕事をしていた泪が立っており、言葉とは裏腹に、歳の離れた妹を見る姉のような眼差しでFを見ている。
泪のことだ、先程のキュールとFの会話程度で集中が途切れることなど無いだろうから、仕事が片付いたのだろう。
「お疲れ様です」
「泪ねぇー見て見てー」
「なに、ついでだ。…どうした?」
相変わらず男顔負けに男前にさらりと返した泪に、Fが嬉しそうに左手を翳して見せるのを見て、思わずキュールは苦笑した。
機能美を重視する泪のことだ、控え目なものならともかくも、キュールがFに施してやったごてごてのネイルアートは恐らく「邪魔だ」と一蹴するだろう。
「キュールさんにねぇーやってもらったのー凄いでしょー?」
「…キュールに?」
「あ、はい…」
喜々として自慢するFから反れた怜悧な流し目がこちらを向き、キュールは咄嗟に身を硬くした。
仕事に支障が出るだろうと窘めもせず、それどころか手を貸してしまったことを咎められるかと思ったのだが、意外にも再度Fの左手に視線を落とした泪は、自分のほっそりとした顎に指先をやって「ほう」と感心したような声を出す。
「これをか。器用なものだな」
「でしょでしょー?」
「器用だとは思っていたが、まさかこれほどとは。この蝶も描いたのか?」
「はい。でもFちゃんが持っていたのが専用の筆が細いタイプでしたから、それほど難しくは無いですよ」
「そんなこと無いってぇー。ほら見てー泪ねぇ、このちょうちょねーちゃんと羽にも模様があるんだよー」
4枚の羽に半乾きのインクを利用して画いた幾何学模様を泪に見せながら、Fはうさぎの顔がついた黄色のスリッパをぱたぱたと揺らした。
「…見事なものだな」
「あ、ありがとうございます…」
「貴様はよくこういう事をしているのか?」
「まさか!初めてですよ」
マニキュアくらいは知っているが、まさか爪を装飾するバリエーションや小道具がこんなにあるとは思ってもみなかった。キュールの彼女はアイラインこそきっちり引くものの、どちらかと言えばずぼらな性格で、ショートヘアということもあるだろうがヘアメイクすら滅多にしない女である。
その代わりに気合いを入れた時は惚れ直す程の変身を見せてくれるのだが、そんな女であるからこのような雑誌の存在もキュールは初めて知ったのだ。
「泪ねぇならー…あ、これとかーこっちのとかいいんじゃないかなぁー。青ならアタシも4色持ってるしぃー」
「…これを爪に描くのか?」
Fが示した青から濃紺へのグラデーションを地に、銀色のラメを散らしたデザインを見て、泪は形のいい眉を僅かに潜める。夜空をモチーフにしているらしいそれは、キュールの目から見れば色の境界をぼかして塗り、その上にバランスを見て銀を散らすだけの簡単なものに見えるのだが、雑誌の中での難易度は中の上に指定されていた。
「なかなか難しそうだな。Fは出来るのか?」
「こんなにきれーには出来ないよぉー、なんかねぇーシマシマになっちゃうー」
「私も同じ過ちを辿りそうだ」
「てっきりこういうのはお嫌いかと思ってましたが…」
思わず言うと、泪は卓に乗せられたバックにぎっしりと詰められたマニキュアの瓶のうち、青いものを取って眺めながら少し困ったように笑う。
「私も一応、女だからな。美しいものを見れば小娘のようにはしゃぎもする」
「…やりましょうか?」
泪の様子はとても“はしゃいでいる”ようには見えなかったが、どこか眩しそうに瓶を眺めるその横顔が、以前空のジュエリーショップで大して高価でもないネックレスを眺めていた彼女の姿と重なり、ついキュールはそう口走ってしまっていた。
どうもキュールは女にこういう顔をされると弱いのだ。最高の女はこの後4日ぶりに会う彼女に間違いは無いのだが、つい喜ばせたくなってしまう。
「これならすぐに出来ますよ。道具を貸して貰えるなら」
「いや、しかし…」
「キュールさん優しぃー。泪ねぇーやってもらいなよぉーぜぇったいきれーだよー?」
ぴょんと座っていた、本来ならゴシックの席であるチェアから飛び降りたFは、そう言いながら躊躇う泪を強引にそこに座らせてしまった。ごそごそとバックの中を漁り、呆れるほど大量な瓶の中から微妙に色の違う青色のマニキュアを4本と、砂のように細かい銀のチップの入れ物を取り出して並べる。
「色はこれでいーかなぁ?この写真よりはぁ、ちょぉっと明るい感じになっちゃうかもだけどー」
「私は構わないが、どうだ?」
「ええ、大丈夫です。じゃあ…」
頷きながら泪の手を取ろうとしたキュールは、だが差し伸べられた白い女の掌を見て、咄嗟に手を引っ込めてしまった。
…もしかして、これはとんでもない事じゃないのか。
脳裏にそんな考えがよぎる。つい今しがたFにも同じことをしてやったばかりだが、Fはまだ学生で、つまり子供だ。少なくともキュールの価値観ではそういうことになっている。
だが、泪は違う。上司でもある彼女は立派過ぎるほど立派な大人の女だ。凛とした美貌も地位もとてもキュールに吊り合うものではないが、Fを子供とする価値観で言えば、彼女は間違いなくキュールの恋愛対象に当たる。
そんな女性に、一人と定めた女を持つ自分が、プロでも無いのにマニキュアを塗るような真似をしてもいいものか。恋人にもしたことが無いのに。いや幾らなんでも考え過ぎか。手を握るのにも躊躇うガキじゃあるまいし、泪相手じゃ間違いが起こる筈も。いやそんな彼女を裏切るような真似は夢にも描いていないけれど、女としてはやっぱり気分がいいものじゃないだろう。浮気?いやまさか。黙っていれば解らないんだし、そもそもあれはそんなに器の狭い女では。いやいやでも。
「…どうした、キュール」
手を引っ込めた体制で止まったまま、自問自答の渦に巻き込まれていたキュールの内心を知ってか知らずか、泪はキュールの顔を覗うように首を傾げた。
大人な彼女は催促などしては来ないが、その怜悧な瞳の洞察力は男のそれを軽く超越している。「あ、はい…」等と煮え切らない返事をするキュールに、僅かに残念そうに陰ったその表情は、フェミニストを自負するキュールには堪らないものだった。
「そう言えば、今日は逢瀬の日だったか。時が無いのか?」
「えー!そぉなのー?」
「い、いえ!」
今にも「私は遠慮しよう」と言わんばかりの泪と、その聡明さでもって空気を読み「じゃあ仕方ないねー」と続けんばかりのFに、キュールは咄嗟に首を横に振る。
「まだ1時間はありますから、大丈夫です」
待ち合わせまでに余裕があるのは事実だ。幸い乾きの早いマニキュアだし、このデザインなら20分と掛けずに泪の爪を彩る自信もある。そして何よりも、女達に期待を持たせておいてそれを裏切るという行為を、自称フェミニストの男はどうしても許すことが出来なかった。
「本当だな?このようなことでお前に不義理をさせたとあっては、私もこの子も、貴様の恋人の元へ詫びに向わなければならない」
「本当ですよ。ちょっと手順を考えてただけですから。……じゃあ、泪さん」
内心で彼女以外の女の手を握ることを恋人に詫びながら、キュールは引っ込めていた手をそっと伸ばした。
「…失礼します」
「…まあ、それは気の毒なこと」
ミルクティーの注がれた瀟洒なカップを上品に傾けながら、事の顛末を聞いたカルヴァはそう言って、くすりと笑った。
毎週末、医局長の休みに合わせて行われる夕方のお茶会は、2人の女と少女にとって定例となっている。偶に、カルヴァの元に預けられているもう1人の小さな淑女が加わることもあるのだが、今日は涅槃と共に奥の部屋で遊んでいるのか、Fと共に柔らかなソファに腰掛けるカルヴァの足元に侍っているのは柳一だけだ。
「辞退しようと思ったのだが、聞かなくてな」
「そうでしょうね、あの子は優しいもの」
「ちょぉっと優しすぎるけどねー」
柳一が淹れたミルクティーをふうふうと吹きながら、Fはそう言って小さく笑う。泪の手を握ろうとして引っ込めた時の、キュールの顔を思い出したのだ。
キュールはFを子供と思っていたが、彼が泪に認めた鋭い洞察力は、泪とカルヴァに女としての英才教育を施されているFにも勿論備わっている。あの瞬間のキュールをどんな葛藤が襲っていたのか、泪とカルヴァに説明されるまでもなく解っていたのだ。
「あら、解らないわよ。“初めて”に拘る女の子は多いわ」
「そぉかなぁー?でもー、それなら男の子の方がそーじゃないー?」
「男が拘る“初めて”は色事だけだ。女は寧ろ、それ以外の“初めて”に拘るだろう」
「経験の無い人は嫌だけれど、前の彼女とは行った事の無いお店、食べた事のない手料理、して貰っていない事、に拘る子は多いわね」
「必要以上に前の女との接点を嫌わない限りは、男の目には可愛らしさとして映るようだがな」
「んー…確かにぃ、そうかもー」
少し冷めたミルクティーをちびちびと舐めながら、Fは2人の先輩の解説にこくこくと頷いた。キュールが選んだのだからその恋人も良い女に違いないが、そう言われてみると確かに、単なる包容力だとか拘束癖だとかの話でも無い。
「じゃぁー、キュールさん、もしかして怒られちゃったかなぁー?」
泪は上司だから断り切れずに、という理由でなんとかなるかもしれないが、自分は少しマズいかもしれない。カップをかちゃりとソーサに戻しながら、申し訳なさそうに眉尻を下げたFに、カルヴァと泪は同時に大人の女の顔で微笑んだ。
「大丈夫よ、F。そうだとしても、きっと痴話喧嘩にもならないわ」
「そーかなぁ?」
「あれだけ気の利く男だ。拗ねた女の扱いが解らぬような馬鹿では無い」
「そうね。……その気遣いを貴女にも回してしまったとしたら、解らないけれど」
思わせぶりに言いながら、カルヴァは泪の爪に描かれた美しい青色のグラデーションを見て、黒曜石の瞳を悪戯っぽく細めた。そこらの男が軒並み靡きそうなその妖艶な眼差しに、だが泪は空になったカップをソーサに戻しながら軽く鼻を鳴らす。
「その程度の男であれば、相手の女の為にも別れるべきだ。女を敬わぬ男は死ぬべきだが、女が愚かであることを失念する男に、先は無い」
「こいはもーもくー」
「そうね」
甘い紅茶とお菓子を囲んでくすくすと笑いあう女達は、勿論キュールがその程度の男でないことを知っていた。このお茶会で話題に上る男は、彼女達が認めた「良い男」だけだからだ。
「でもーそれじゃぁー、姉様もぉ、キュールさんにしてもらったらぁ?」
「確かに、カルヴァの手ならば映えるだろうな」
「私はいいわよ。職場も違うのに、わざわざして貰うなんて悪いわ」
「でもでもぉ、キレーだよぉ?」
傍らのカルヴァに体を寄せながら、結局右手も左と同じように塗って貰ったマニキュアを見せるFと、それに倣う泪に、カルヴァはお茶受けのショコラにフォークを入れながら笑う。
「キュール程では無いかもしれないけれど、器用でずっと暇な子なら知ってるわ」
そう言いながらすっと動いたカルヴァの視線の先には、ショコラに添えられた薔薇と葉の飴細工があった。
Fは首を傾げたが、泪は直ぐにカルヴァの言う「器用で暇な」人物に思い至ったらしい。自分のショコラに添えられた薔薇の飴細工を透かして見ながら、どこか呆れたように苦笑する。
「悦か。全く、仕事ぶりに似合わぬ特技が多い男だ」
「えー!じゃぁー、このケーキもー?」
「ええ。今日貴女達が来るのに、お茶受けが無いって話したら持って来てくれたの」
自分の分の薔薇をFの皿に移してやりながら頷くカルヴァに、先に半分ほどショコラに手をつけていた泪は、ぱり、と飴細工の華を齧りながら小さく笑う。
「なら、次からは私もこういったことは奴に頼むとしよう」
「そーだねー、えっちゃんならぁ、色々と心配いらないしー」
「でしょう?今度頼んでみるわ」
恐らくキュールと同じく無碍に「嫌」とは言わないであろう、ショコラの作り手を思い浮かべて、3人は揃って小さく頷きあった。
悦もキュールと同じく恋人は居るし、恐らく“初体験”であるにだろうが、悦に限っては彼女達にマニキュアを塗ろうが手を握ろうが、その恋人は嫉妬のしの字も思い浮かべないに違いないからだ。
堅苦しいレストラン等では無く、気楽な居酒屋とバーで週末の恋人を労ったキュールは、天然の夜景が見える彼女の部屋のカーテンを引きながら、化粧を落としている彼にとってただ1人の女をちらりと覗った。
「なにー?」
「いや…なんでもない」
ほろ酔いで上機嫌な恋人に対して、キュールの表情はぎこちない。車を運転するために飲まずにいたからではなく、恋人に対しての後ろめたさが拭えないからだ。
自分でもそんなに思い詰めるようなことで無いのは解っているのだが、あくまでもそう思うのは自分で、相手がどう取るかは別の話…等と考え始めると、もう止まらない。
そして終には「隠しごとをしている」ということにまで罪悪感が芽生え始め、キュールは部屋着のTシャツに下着という、非常に目に毒な格好で冷蔵庫からビールの缶を取り出している彼女に、神妙な面持ちで話しを切りだした。
どんな反応をするのかと、内心少し怖く思いながら洗い浚い全てを話したキュールに対して、冷蔵庫に顔を突っ込んだままの恋人の反応は、
「ふーん。いーなー」
…という、何とも間の抜けたものだった。
「お、怒ってない?」
「え?なんで怒るの?」
やっとお目当てを見つけたらしく、缶ビールを2本と、つまみのサラミを持ってキュールに向き直りながら、前髪をピンで上げたままの恋人は首を傾げた。
「なんでって…茜にはしたこと無かったから」
「うん、無いね」
「なのに職場の子にしたから、その…怒るかなって」
差し出されるまま缶を持ち、少し広めのワンルームのソファ代わりになっているベットに、恋人の横に並んで腰掛けながら、キュールは少し尻すぼみに自分の言葉を説明する。
「まー、気分良くは無いよね」
ぷしゅ、とプルタブを引き上げながら、恋人の茜はさっくりと言った。良い意味でも悪い意味でも、さっぱりした女なのだ。
「でも、そこまででも無いよ」
「そう…か?」
「うん。だって、私にはもっと上手くやってくれるんでしょ?」
缶ビールを豪快に呷りながら、茜は当然のことのように言ってキュールを振り返る。勿論キュールは頷いた。全力で頷いた。
「勿論!」
「うん、ならいーよ」
ふにゃ、と笑って、茜は缶を持って冷えた手でキュールの頭を撫でる。頬に降りて来た手を捕まえてキスを落としながら、キュールは泪とも、Fとも違う、ペン蛸がある茜の小さな手をきゅっと握った。
あんなことを考えていた自分が、今となっては馬鹿らしい。自分にとっては、手一つとってもこの女が一番なのに。
「どんな色がいい?後輩の子に見せて貰った雑誌じゃ、グラデーションが落ちついてて綺麗だったけど」
「色かぁ…私肌色とピンクしか持って無いからなー」
「何色?」
「んー…5色くらい?まだ使えるかどうか解らんけど」
「なら出来る。グラデーションでいいか?」
泪やFにしたものや、雑誌で見たお手本よりも綺麗に茜の爪を飾ってやろうと、開けぬままの缶を置いてベットから立ち上がろうとしたキュールを、世界で一番愛しい手が止めた。
「ううん、今はいい。っていうか今日はいい」
「…嫌いか?」
「そうじゃないけど」
途端に萎れたキュールに苦笑しながら、茜は誤魔化すようにビールを呷ると、サラミを3切れ同時に口の中に放り込む。
「じゃあ、なんで?」
「…だって」
むぐむぐと口を動かしている内から次のサラミに手を伸ばしながら、茜はそこで不自然に顔を反らした。
「…シーツに着いたり、剥げちゃったら、明日友達に自慢出来ないでしょ」
「……」
剥げたらまた塗り直すよ、と言いかけて、キュールは酒豪の茜の頬がほんのり赤くなっていることに気がついた。そして、わざわざマニキュアが着く場所に、「シーツ」を指定していることの裏の意味にも。
気付いてから沸き上がった愛おしさは、先程の罪悪感の比では無かった。
「……」
「あ。まだ飲んで…っ」
残り僅かな缶を茜から取り上げたキュールは、照れも入った彼女の抗議をややベタに、自分の唇で塞いだ。
そのまま電気も消さず、シャワーも浴びずにベットの上に恋人を押し倒したキュールの行為は、フェミニストを自負する彼には間違いだらけだったが、こればかりは身勝手と解りつつも許さずにはいられなかった。
何しろキュールの腕の中にいるのは、彼の世界の中で最高の女なのだから。
Fin.
ILLの日常、キュール編。
ネイルアートって綺麗だよね!やってる人凄いよね!でも自分では邪魔だからしたくない。
…という女が何となく書いちゃったという、色々と行方不明な産物。
編、とか言ってますがシリーズ化する予定は今のところありません。
爪って、伸ばしてるのをいきなり切ると、指が短くなったように見えますよね!
