「旦那、髪ィ切りました?」
武器庫の奥にあるボロボロのデスクの上。いつもの様に足の一本欠けた椅子を悦に譲り、いつもの様に悦が持参したお菓子を齧りながら、幽利はこくりと黒いニット帽で目元を覆い隠した頭を傾げた。
「うん。昨日傑に切って貰った」
「傑に?」
再度尋ねた幽利に、悦はチョコレートで片面をコーティングされたクッキーを口に放り込みながら、もう一度うん、と頷く。
「髪切るのにいちいち出ンのも面倒だから、俺はいっつもそうだよ」
「そォなんですか」
偶に仕事帰りに切ったりもするけど、と付け足しながら、悦は自分の言葉にふんふんと頷いている幽利をちらりと見上げた。クッキーをもう一枚口に放り込んだ指先から屑を軽く払い、くすんだ作業着の肩口から伸びている幽利の髪を指先で掬い取る。
「俺ァてっきり、髪ィ切るにも専属のプロの方がいンのかと……ン?」
「幽利は普段どうしてンの?髪」
「てめェで切ってますよ。プロの方にお願いするよォな髪じゃねェですし」
光の加減によっては青く輝く黒髪をさらさらと弄ぶ悦の手に、少しくすぐったそうに首を竦めながら、幽利は作業着の襟の中に入っていた毛束を引き出した。自分の髪のことなど全く気にしていなかったが、そう言えばかなり伸びている。
「後ろとか大変じゃねぇの?見えてても、こう、鋏の加減とか」
「そォでもねェですよ。こォやって持って来て、バサッと切ッちまえば」
「…バサッと?」
「はィな」
「一回で?」
「はィな」
「……」
きょとんとした顔のまま頷く幽利に、悦は無言で手を伸ばすと、幽利が肩口に持って来た毛束を引っ掴んだ。括っているのでぱっと見では解らなかったが、よく見ると毛先がどこかの海岸線かというくらいにガタガタになっている。
「……ガッタガタじゃねぇか」
「変…ですかねェ?」
「いや、変っていうか……うん、そうだよな」
気になんねぇの?と続けようとして、悦はそれが無駄な言葉だと気付いて止めた。
“千里眼”の幽利は自分の毛先が見るも無残な状態なのを知っている筈だが、自分のことなど二の次どころか十の次くらいの幽利が、自分の毛先が海岸線並みにガタガタだった所で気にするわけが無かった。
「どォせ括っちまうンでイイかなァと…」
「んー…でも折角こんなさらさらなんだから、鬼利もなんとか……あ。」
自分の直属の上司であり、幽利の双子の兄の顔を思い浮かべながら苦笑していた悦は、自分の言葉にはっと気がついたように顔を上げた。
明日、菓子と一緒に鋏を持って来て切り揃えてやろうかと思っていたが、それよりずっといい案が思い浮かんだのだ。
「鬼利に切って貰えよ」
「へ?」
「髪。器用そうだし、短くして揃えるくらい出来るだろ」
「そ、そりゃァ…俺よりかはずッと上手だと思いますけど…」
でも、と言い澱もうとする幽利を手で制してすっと幽利に顔を近づけると、悦は悪戯っぽい笑みを乗せた唇をその耳元に寄せた。
「髪触られるの、好きなんだろ?」
「っ…好き、です」
「でも滅多に触ってくンねーよな、鬼利の性癖だと」
「…はィな」
「髪切る時なら、いっぱい触って貰えると思うけど」
「……」
潜めた声でそう囁き、悦は少し身を引いた。幽利は口を噤んだままだったが、黒いニットで目元を隠したその顔を至近距離で見つめる悦には、次に幽利が言うであろう言葉が予想出来ている。
時に相手の信念すら曲げさせてしまうような甘言は男娼の基本テクだ。幽利の異常なまでの謙虚さによる甘え下手が、双子の兄に関することと、性的なことに関する時にだけほんの少し緩むのを、悦は鬼利の次くらいによく知っている。
「…もし、あンま忙しくなさそォだったら…」
「うん」
呟く様な声で言いながら、幽利は軽く俯かせていた顔をほんの少し上げた。
躊躇いがちに、だがはっきりと紡がれた次の言葉は、悦が予想していた通りのものだった。
「…頼んで、みます」
「…髪を?」
膝のナプキンを畳みながら尋ねると、先に席を立って食器を重ねていた幽利が横で小さく頷いた。
「結構伸びてきてンだけど、てめェで切るとガタガタになッちまう、から…」
「また悦とどこか出掛けるの?」
「や…そォいうワケじゃねェんだけど…」
「……」
悦に遊びに誘われたわけでもないのに、どうして今更そんなことを気にしだしたのかと幽利を一瞥したけど、必要以上に丁寧に食器を重ねている双子の弟は僕から視線を反らしたままだ。
…そう言えば、傑が自分の髪は悦が、悦の髪は自分が切っていると言っていた。
「もし、面倒じゃなかッたら…ダメかなァ、って…」
髪を伸ばしているのも、美容室どころか床屋にも行かずに自分で切っているのも、単に“面倒だから”という理由の幽利が、自分からこんなことを言い出すわけが無い。大方悦か傑の入れ知恵だろう、けど。
…リアス式海岸のような幽利の毛先をどうにかしよう、と思っていたのは僕も同じだ。
美容室に行けと言えば、お金が勿体ないだの店に申し訳無いだのと騒ぐだろうし、それなら自分できちんと揃えろと言ったらナノ単位で直線にするだろうし、どうしたものかと考えていたけど、成る程。僕が切ればどちらも解決する。
「…やッぱり、」
「いいよ」
シンメトリーに重ねられた食器を音を立てて持ち上げながら、多分「やっぱりいい」か「やっぱりダメだよな」か、それに近いことを言おうとしていた幽利の声を遮って言うと、クロスから30センチほど浮いていた食器のタワーが落ちた。
皹でも入ったような音がしたけど、幽利が騒がない所を見ると値段相応の硬度はあったらしい。
「い、イイの?」
「随分伸びてるしね。済んだら鋏を持っておいで」
「は…はィな!」
立ち上がりながらそう言うと、再び食器を持ち上げた幽利が一瞬呆けたような顔をして、直ぐに目を輝かせながらこくこくと頷く。
「すぐ済ませッから、えっと…シーツとかもいる?」
「余所見してると転ぶよ」
食器を洗いにキッチンへと向かう幽利を振り返らずに釘を刺しながら、僕は散歩に連れて行って貰えると解った犬のようなそのはしゃぎ方に、思わず小さく笑った。
見えない尻尾をぱたぱたと振りながら、食器洗いを終えて鋏を持って来た幽利を足元に座らせて、ケープ代わりのスカーフを首元に巻く。
「短くすればいいんだね?」
「ン。お願いします」
必要以上に背筋を伸ばしながら、幽利は僕に背を向けたままぺこりと頭を下げた。頭を動かしたことに気付いて慌てて元の姿勢に戻る幽利を眺めながら、僕は幽利に手渡された鋏を持ち直す。
白いスカーフの上に出した幽利の毛先は、伸びた所為か前に見た時よりも荒々しい軌道を描いていた。右端と左端で3センチ近く長さが違う。
「動くと刺さるよ」
「はィ…な」
取り敢えずこの“なんちゃってアシメ”をなんとかしないといけない。手櫛で髪を梳かす度に小さく揺れる幽利の頭を左手で固定しながら、ひとまず直線を目指して鋏を入れた。
全体を見ながら、手櫛で梳いた毛束を指に挟んで切り落とす。そう言えば昔、幽利があの屋根裏に居た時も、前髪だけは監視役にバレない程度にこうして切ってやっていたのを思い出した。
目が悪くならないように、という我ながら幼稚な配慮からだったが、今では僕の方が眼鏡を掛けるようになっているのだから皮肉なものだ。
「長さはこれでいい?」
「…ぁ…えっ…?」
「髪」
「…あ、うん」
10センチほど短くなった毛先を軽く払いながら言うと、転寝でもしていたのか、どこか上の空な声で答えた幽利が小さく頷く。
「鬼利、ありが…ッぁ!」
「どこに行くの」
そのままもぞもぞと立ち上がろうとする幽利を、切り揃えたばかりの髪を引いてもう一度座らせる。序に妙に艶っぽいその声で上の空の理由が解ったけど、中途半端は嫌いだ。
「まだ揃えただけだよ」
「ご…ごめンなさい…」
肩越しに軽く振り返った幽利の瞳が濡れているのには気付かない振りで、頬を軽く叩いて前を向かせた幽利の髪に、今度は縦に鋏を入れていく。どうせ括るのなら同じかもしれないが、空調の無い武器庫で動き回るなら少しでも軽くしてやった方がいいだろう。
いっそ僕と同じか、それ以上に短くしてやった方が楽なんだろうけど、そうするとコトの最中に引っ張り難い。夏場でも蒸れず、且つ首輪代わりに指を絡めて引ける程度に調整しながら、梳き鋏の要領で縦に少しずつ鋏を入れてボリュームを落としていると、僕の思考を“読んだ”のか、幽利がきゅっとスウェットの膝辺りを握り締めた。
…全く、とんだ被虐趣味に育ったものだ。
「…前髪は?」
「あ、ぇ、前?」
「……」
「それじゃァ、前、も…」
もぞもぞと膝を抱えて体ごと振り返った幽利の顔は、俯いていてもそうと解るくらいに紅潮している。抱えたままの膝をちらりと一瞥しながら前髪を掴んで軽く引くと、吊られて顔を上げた幽利の肩が目に見えてびくりと跳ねた。
「ッぁ…鬼利…」
「……」
散髪の最中に盛っていることを僕に叱られるとでも思っているんだろう。怒られることに怯えながらも、思いきり期待した表情で見つめて来る。濡れた橙色の瞳は、当然のように開かれたままだ。
…なんの為にこちらを向いたのか、この愚弟は自分の行動の意味をもう忘れているらしい。
「…目に刺さるよ」
「え…?…っあ、ごめ…!」
一応、声を掛けてやってから反応を待たずに下ろした前髪に鋏を宛がうと、ようやく本来の目的を思い出した幽利が更に顔を赤くしながら慌てて目を閉じた。
5分後。
「どう?」
少し身を引いて全体のバランスを見てから鋏を置くと、律儀に目を閉じたままだった幽利が薄らと目を開いた。ふるふると頭を振ってスカーフや顔に付いた髪を落としながら、短くなった後ろ髪に手櫛を通す。
「すっげェ軽い。ありがとう」
「大分伸びてたからね。それで当分は切らなくてもいい筈だよ」
「当分…ッて、どンくらィ?」
「2、3ヶ月」
床に落ちた髪を避けて足を組みながら答えると、僕のスラックスに付いた髪を払っていた幽利が小さく3ヶ月、と呟いた。
「…な、なァ、鬼利」
「なに?」
「なンか、エロい奴は髪が伸びンのが早い、ッてFちゃんに聞いたンだけど…アレってホントかな」
「……」
…思い詰めたような顔で、何を言い出すのかと思えば。
「半分は迷信だよ」
「半分?」
「髪は夜に伸びると言われてるからね。娯楽の無い時代は夜更かしイコール性行為、と考えられていたからそういう定説が生まれただけで、髪が伸びる早さと性的に貪欲かどうかに因果関係は無い」
「そッか…」
大体、そんな因果関係があるとすれば幽利の髪は今頃腰に届く程に長くなっている筈だ。自分の日頃の行いを考えれば解りそうなものだけど、解いたスカーフを払っている幽利は目に見えてしゅんとしている。
…やれやれ。
「夜更かしで伸ばすのは無理だろうけど、引っ張っていると普通より早く伸びるらしいよ」
「引っ張る、ッてェと…括ったり?」
「そう。ポニーテールとか、」
手首に巻いた革紐を見ながら言う幽利に頷きながら、僕は優しくかき上げた前髪を指先に絡めて引き摺り上げる。
「ッあ、…!」
「こうやって、引いたりね」
「…っ…ぁ、う…ッ」
強制的に上を向かせた幽利に視線を合わせながら囁くと、明らかに痛みからでは無い声を上げた幽利の手が、きゅっと僕のスラックスを握り締めた。
量が無くなった所為で少し物足りないけど、この程度なら許容範囲かな。
「き…鬼利……っあ」
「ここ、片づけておくんだよ」
「……はィな」
一頻り短くなった髪の引き心地を確かめて乱暴に手を離すと、立てたままの両膝を物欲しげに摺り寄せていた幽利が小さくうなだれながら呟いた。
丁寧に畳んだスカーフをソファの端に置き、掌でフローリングの上に散らばった髪を寄せ集めている幽利を横目に、その腕を跨いでソファから立ち上がる。バスルームに向かいながらちらりと一瞥すると、掌に集めた髪を乗せている幽利はまだ膝を抱えたままだった。
…あぁ、そう言えば前に傑から貰った鞭をまだ試していない。
「…幽利」
「はィな」
「今日は特に残した仕事も無いから、僕はこれからゆっくりお風呂に浸かるつもりだけど」
よく躾けられた犬のようにぱっと顔を上げた幽利が、説明じみた僕の言い回しに小さく首を傾げる。
そのきょとんとした顔が、続く僕の言葉を聞いて淫猥な期待に染まるのを想像して笑わないようにするのは、実は結構な精神力が必要だ。
「僕の目が無いからと言っておイタをすると、お仕置きだからね」
「ッ…」
その下半身を一瞥して背を向けた僕の後ろで、幽利が小さく息を詰める。
わざわざ盗み見るまでもなく、驚きから僕が想像した通りの表情になっているであろう幽利の返事は、予想通り消え入るように小さかった。
…さぁ、今夜はどんな“お仕置き”をしてあげようか。
Fin.
Hair Cut第3弾、幽利Ver.
第二弾の悦Ver.から随分と間が空いてしまいました。幽利の散髪はこんな感じ。
拍手感謝SS、と銘打って置きながら随分と長くなってしまいましたが、それも感謝の証ということで、ひとつお願い致します。
この後、幽利は勿論おイタをしました。
