ミルク味の棒付きキャンディをからころと口の中で転がしながら、悦は薄っぺらい映像記憶端子が入った茶封筒を片手に、重厚な最高幹部執務室の扉を軽くノックする。
「…あ、」
「わッ…!」
両開きの扉の向こうからの返事を待たず、いつものように躊躇いなく中に一歩踏み込んだ悦を見て、応接椅子の奥に据えられた執務卓の向こう、黒髪をオールバックに撫でつけた痩身の男―――壱埜が大袈裟に肩を震わせた。
髪と同色の黒い瞳は、悦の姿を認めた途端におどおどとあからさまな狼狽を浮かべ、手にしていた黒いコートがすとんと床に落ちる。
「…あぁ、君か。悦」
執務卓の向こうに置かれた簡素なクローゼットの扉、その内側に張り付けられた鏡を見ながら首元のネクタイを整えていた鬼利が、ちらりと肩越しに振り返った。
背後で慌ててコートを拾い上げる部下には一瞥もくれず、怜悧な橙色の瞳は薄いフレームの眼鏡ごしに薄らと笑う。
「あー…悪ィ、邪魔した?」
「いや、構わないよ。“昼食”はどうだった?」
扉を開けたまま、背後を親指で示して見せる悦に軽く微笑んで、鬼利は壱埜が差し出したコートに、どの瞬間を切り取っても一切卒の無い、人を使うことに慣れ切った支配者の挙動で腕を通した。皮肉混じりの言葉を紡ぎながら、簡易クローゼットの扉を音を立てずに閉める。
「別に?いつもと同じ、ボロい仕事」
「それは良かった」
軽く首を竦めて応えつつ、悦は向かい合わせに置かれたソファとローテーブルの間を通り、綺麗に整頓された執務卓に茶封筒を置いた。目の前に来た悦に壱埜が更におどおどと怯え出し、鬼利の背に隠れるようにして眼を反らす。
相変わらずILLの幹部とは思えないような反応だが、泡を吹いて白眼を向かないだけまだマシだ。鬼利という絶対の上司の傍に居ることで少しは安心しているのだろう。
「それじゃ、俺はこれで―――」
「…君さえ構わなければ」
どうやら鬼利はこれから出掛ける所のようだ。依頼はいつもの通り問題なくこなし、報告すべき事も特にない。ならば長居しても邪魔だろうと早々に踵を返そうとした悦を、鬼利が止めた。
「ドライブがてらに、何か甘い物でもどうかな?」
「…へ?」
「これから少し外に出る用があるんだけど、生憎キュールも仁王も他の仕事で忙しくてね」
綺麗に畳まれた黒いハンカチを胸ポケットに滑り込ませながら、鬼利は静かな足取りで執務卓を迂回して悦の隣に来る。
「僕の“お守り”をしてくれる者が居なくて少し困ってるんだ」
「護衛なら壱埜の方が上手いんじゃねぇの?」
少しも困っている様子の無い鬼利に、悦は所在なさげに立ち尽くしている臆病な幹部を一瞥する。壱級指定の悦どころか、自分が受け持ちの肆級指定にすら敬語を使うこの男は、確かそんなナリをして護身術の達人だった筈だ。
腕試しと称した戯れで、ハンデで片腕だったとはいえ仁王に膝を着かせたの言うのだから、その腕は相当なものだろう。
対して悦は仇討惨殺が専門で、得意なのは他人を守ることではなく嬲り殺すことだ。少々頼り無くてもそちらが適任だろうと言う悦に、鬼利はちらと壱埜を一瞥して緩く首を振る。
「生憎、壱埜のスケジュールも埋まってる」
「あらら…」
「流れ弾の中で盾になれとは言わないよ、今朝のよりも遥かに楽な仕事だ。報酬には君好みの色をつけるけど…どうかな?」
レンズ越しの橙色の瞳が、真っ直ぐに正面から悦を見据えて軽く細まる。こちら顔色を覗う、等と言う控え目な物ではなく、皮膚も骨も突き抜けて腹の中を覗かれるような容赦のない眼光だ。
この視線に晒されて首を横に振れる奴など、昨日から依頼で“空”に居る傑くらいだろう。
「どこ?」
「V地区32-09」
「あぁ、アドファリーシェの所か。事務所なら昔月イチで通ってた」
「それは頼もしい」
手にしていた棒付きキャンディを口の中に放り込みながら頷く悦に、鬼利はにこりと笑って、おどおどと視線を彷徨わせていた壱埜に目配せをした。
「…さて」
一瞥を受けただけで背を伸ばした壱埜が無言でこくこくと頷くのを横目に、鬼利は優雅な動作で腕の時計を確認する。
「申し訳ないけどお茶を出す時間は無いみたいだ。…よろしくね、悦」
「ん。」
V地区に運転手付きの黒塗りの高級車で乗り付けなど、普通なら10分と経たずに人間も車も一緒くたに解体されて塵一つ残らない所だが、ナンバープレートさえ黒く塗りつぶされた車体の端、ボンネットの隅に白く染め抜かれた【ILL】の単語の意味が解らないバカは、どうやらここには居ないらしい。
高そうな壺や絵画で飾られた応接室の窓辺、筋骨隆々とした体をスーツに押し込み黒いサングラスを掛けた、いかにも護衛で御座いといった男が横に立つのを気配で感じながら、悦はからころと飴を転がしつつ窓の外を眺めていた。
「―――何も代金を踏み倒そうって言ってる訳じゃない、が…幹部さん。俺はさっきも言ったように対価ってのは相応にか払わない主義だ」
「我々に何か不手際でも?」
「不手際ってほどじゃ無いが―――」
本部から此処に来るまでの間、鬼利とは報酬の“色”である甘味の話くらいしかせず、詳しい事情は何も聞いていなかったが、どうやら2人の口振りを察するにあの中年―――昔、男娼としての悦の客でもあったローマン・アドファリーシェは、依頼料金の値下げを要求しているようだ。
通された応接室に、アドファリーシェの護衛は8人。ローテーブルを挟んで、豪奢なソファにそれぞれ向かい合わせに座った鬼利とアドファリーシェの背後に、それぞれ3人。そしてソファには座らず、窓際の壁に背を預けブラインドの隙間から外を眺める悦の左右に2人。
「―――依頼料については、別の幹部とのお話で事前にご了承頂いたものと思っておりましたが」
「あ?…ああ、あの兄ちゃんか。確かにあの時はそれで良しとした」
「では…」
「でもな、幹部さん」
“空”では非売品のあらゆる商品の流通を通して、このV地区と隣のW地区の半分を掌握している男は、そこでもったいぶって言葉を区切ると手にしたステッキでトン、と床を叩いた。
…相変わらず挙動がいちいち芝居がかった男だ。
まだステッキが必要な程の歳では無い筈だが、アドファリーシェは悦が男娼としてこの男に抱かれていた頃から、持ち手に巧緻な彫物をされたステッキを手放さなかった。足が悪いワケでは無く、単なるポーズだ。
地下に広がるこの“街”の中でも外周のV地区に拠点を置きながら、この男は昔から貴族とか紳士とかそういうものに憧れていて、事あるごとに真似をする。
「俺が了承したのは、依頼の内容がアレだったからだ。俺の頼んだ仕事があの書類の通りに行われてたのなら、勿論料金を渋ったりなんぞしない」
悦が通っていた頃よりはまだ様になっているようだが…今奴の目の前に居る鬼利は、皇国では無い国でかなりの地位を持つ家の血を引いた嫡男の第一子、元は正真正銘の貴族だった男だ。
「…成る程」
失笑しそうな程お粗末な理由で、どうにか依頼料を値切ろうとするアドファリーシェに軽く頷き、鬼利は目の前のテーブルに置かれた紅茶を一口含む。如何にも高そうなカップと対のソーサーをかたりとも鳴らさない、完璧に優雅な動作だ。教養の格が違う。
「どうやら私共と貴方とでは、あの書類の解釈の仕方に多少の齟齬があったようですね。事前に充分な確認が為されて居なかったようだ」
「残念なことにそのようだな」
「その点については此方の不足でした。お詫び致します。…しかし、Mr.アドファリーシェ」
カップをソーサーに戻し、正面から自分を見据える橙色の瞳に、偉そうに踏ん反り返っていたアドファリーシェと、その背後の護衛が僅かに身を硬くした。鬼利の後ろに立つ3人もサングラス越しにアイコンタクトを交し、悦の左右を固める2人も警戒の色を濃くする。
車を降りた後、事務所に入る前、そしてこの応接室の扉の前であれだけ入念なボディーチェックをしたというのに、臆病な連中だ。外を照らす人工太陽の光に朱が混じり始めたのを眺めながら、意識だけは室内に向けた悦は口の中の棒付きキャンディーをからりと転がす。
「今回の依頼に於ける幾つかの重要な点について、私共は完璧な仕事をしたと自負しております」
「そ、…それは勿論だ。しかし、その…君の言うさほど重要では無い点において、だな…」
「本来では歯牙にもかけぬ末端の些事に於ける不備を問われましても、依頼料をお下げする訳には参りません」
「なに?」
相変わらず穏やかな表情のまま淡々と言う鬼利を、アドファリーシェはぎろりと上目遣いに睨んだ。室内の護衛連中が揃ってわざとらしく身じろぎ、スーツの下に隠した武器の存在を匂わせるが、他ならともかく鬼利にはそんなもの何の脅しにもならないだろう。
顔は窓に向けたまま悦がちらりと横目で確認すると、案の定鬼利は「何か?」とでも言いたげにアドファリーシェを正面から見据えていた。自分は勿論、護衛である悦も丸腰であるというのに、全く大した度胸だ。
「それ等の些事も含めて完璧にこなすと言うから、俺は“ILL”に依頼をしたんだぞ。それを、歯牙にも掛けぬなどと…開き直る気か?!」
「では、どうあっても事前に御約束した依頼料は払って頂けないと?」
ステッキで強く床を叩きながらアドファリーシェに、鬼利は対照的に冷静な声で尋ねた。赤い唇がゆるりと吊り上がり、薄い笑みを浮かべる。
ぞくりと背筋が寒くなるようなその笑みに、アドファリーシェは顔を引き攣らせて口を噤んだ。ここでいつもの調子で当たり前だ、と突っ撥ねれば何をされるか。この地下街で生き抜いてきたハイエナの嗅覚が、やっと危険を嗅ぎとったらしい。
「…これは困ったな」
どう言い包めようかと、口を噤んだまま(無駄な)思考を巡らせるアドファリーシェを悠然と眺めながら、鬼利は少しも困っている様子の無い声音で呟く。
口調の変化を察して、外を眺めるのも飽きたといった風に室内に戻した悦の視線に、一瞬だけ怜悧な橙が絡んだ。
「結論さえ完璧に出来れば合格だろうと思っていたけれど、どうやら現場経験の無い僕には解らない重要な過程を見過ごしてしまっていたようだ」
「……」
「任せろと言った手前、此処は“平和的”かつ“穏便”に事を進めたい所だが…何か君の目線からの妥協点があれば教えてくれないかな?」
テーブルに置かれた依頼書を指先でなぞりながら淡々と問う鬼利の視線は、アドファリーシェやその後ろの護衛まで通り越して真っ直ぐ前に据えられたままだ。
誰に向けての言葉かと全員が訝しげな表情をし、9対の視線が車を降りてから一言も声を発さず存在感を消していた悦の存在に思いつく前に、悦は動いていた。
飴が舐め溶かされ、プラスチックの棒となった棒付きキャンディーを逆手に持った指先が、何気ない動作で振られ傍らの護衛の右目―――サングラスと皮膚の間の僅かな隙間を通し、プラスチックの棒を斜めにその眼球に突き刺す。目を潰された男が悲鳴を上げるより早く、銃を抜こうとするもう1人の護衛の首筋に回し蹴りを叩き込んで、背後のコレクションケースの硝子張りの扉に吹き飛ばし、悦は地を這うような低い姿勢で床を蹴った。
硝子が割れるけたたましい音に男の悲鳴が重なり、残りの護衛が色めき立って銃口を悦と鬼利へと向けるが、銃声は続かない。
「ぐっ…!」
「……」
護衛の1人が体で割ったコレクションケースの扉、鋭利な断面を見せる硝子の破片をアドファリーシェの首筋に押し当てながら、悦は自分の頭の周りをぐるりと取り囲む護衛共の銃口をちらりと一瞥した。
どいつもこいつも絶望的に察しが悪く、しかも配置は背もたれのあるソファの後ろだけで、悦の動きに間に合うだけの素早さでそれを乗り越える身体能力も無い。おまけにこの距離で一人残らず“その場で”銃を抜いた。
「…ド三流」
アドファリーシェの太股を膝で押さえ、喉元に硝子片を押し当てるのと同時に靴底から引き抜いていたナイフをくるりと手の中で回しながら、悦は面白くも無さそうにぼそりと呟く。
手持ちの10数本のナイフの内唯一残った、金属探知機をクリアする為に鉱石製、かつ人間の目を欺く為に靴底に仕込めるよう柄も無い滑らかなフォルムの、刃渡り12センチの琥珀色のナイフ。久しぶりに使う時が来たと少しだけ楽しみにしていたのに、相手がこれでは硝子片で十分だ。手応えが無いにも程がある。
「…さて、Mr.アドファリーシェ」
向けられる3つの銃口にも眉1つ動かさず、鬼利の細い指先がこつ、とテーブルを叩く。悦の肩越しに口惜しげな視線を向けた中年男に、“ILL”の最高幹部はにっこりと微笑み、揺らぎもしない橙の瞳で自分に向けられた銃口を振り返った。
「どうやら我々は長居をし過ぎたようだ。あまり歓迎もされていないようですし、そろそろお暇させて頂こうかと思います」
「……!」
向き直ったアドファリーシェに目礼する鬼利に、その頭部に銃口を向ける護衛が僅かに身じろぐ。3つの鉄の塊の1つが威嚇の為にその後頭部にごつ、と押し当てるが、鬼利はそれを空気のように無視してソファから立ち上がった。
銃を向けられているとは思えない鬼利の挙動に、悦を除く部屋の全員が目を丸くする中。今にもこの場から立ち去ろうとしていた鬼利は、テーブルに置かれていた書類に伸ばした手をふと止めた。
「…ああ、これは失礼を」
自嘲するように笑いながら緩く首を振り、鬼利はスーツの内側に手を差し入れる。その動きに残り2つの銃口が左右から鬼利の髪に押し当てられ、悦に向いていた3つの銃も鬼利の方を向くが、鬼利は相変わらずそんな無骨な物は見えてすらいないように、喪服のように黒いスーツの内ポケットから万年筆を取り出した。
余りにも“鬼利らしい”鬼利の行動に呆れたように笑う悦を横目に、鬼利はその悦によって喉笛を押さえられているアドファリーシェの前に書類を滑らせ、その上にタールに沈めたように黒い万年筆を置く。
都合6つの銃口を事も無げに黙殺し、彼の息子程の歳の犯罪斡旋機関最高幹部は、アドファリーシェに優雅に微笑んで見せた。
「Mr、こちらに貴方のサインを頂くのを忘れておりました」
滑るように進む黒塗りの高級車の中。半端なソファなどより余程座り心地のいいシートに背中を埋めながら、悦は植木鉢のようなカップの中に盛られた5種類のアイスを次々に口に運んで行く。
「…美味しい?」
「ん。」
外からは漆黒にしか見えないスモークガラスの嵌まった窓枠に肘を置き、頬杖を突きながら、鬼利は半ば呆れたように黙々と氷菓子を消費していく悦を見た。
キャラメルとバニラのアイスを纏めて口に運びながら即座に頷いて見せた悦の視線は、バケツのようなカップの中身に夢中だ。そこらの子供よりも無邪気なその瞳は、甘いアイスを前にきらきらと嬉しそうで、どうにも先程キャンディの棒で目を潰し、唸るような回し蹴りで頸骨を砕いた姿と重ならない。
「鬼利も買えばよかったのに。甘いモン苦手じゃないだろ?」
「嫌いでは無いけどね。あそこの1つは少し…僕には多いよ」
どんどん減っていく透明なカップの中身を見ながら、鬼利は心底「勿体ない」という表情で言う悦に苦笑する。
最初の約束の通りに「甘い物」を食べようと誘った鬼利に悦が指定したのは、D地区にあるアイスの専門店だった。50を超える種類は圧巻で客も多く、確かに悦の言う通り美味しそうではあったが、鬼利は一緒に食べようという悦の誘いを丁寧に断った。
甘い物は苦手では無いし、アイスも偶には食べるが、その店での“アイス1つ”はまるでスコップで掬ったかのように巨大だったのだ。
「まぁ、見た目はな。でも舌触り良くする為に空気含ませてあるから意外と量は少ないし、イイ材料使ってるから全然しつこくねーんだよ、これ」
「詳しいね」
「ん?…や、別に…好きだから」
含み無く感心して褒めた鬼利に、悦は視線を反らしながら呟くように言う。好物を前にして少し饒舌になったのに気付き、照れているのだろう。
…素直な反応だ。
鬼利は悦の、この裏の無い素直な感性が気に入っていた。脳に膨大な知識を詰め込み、その副作用として他人を見下す癖がついた自分には、きっともう一生持つことの出来ない感性だからだ。
これで常時裏も表も無いのならただの間抜けだが、これで悦はきちんと頭が回るから有り難い。急なことで咄嗟に護衛を頼んだがこれは当たりだ。もう少し場数を踏ませれば、回せる仕事の幅が広がるかもしれない。
「バニラとキャラメルと苺と…チーズケーキにビターチョコ。どれがいい?」
「…くれるの?」
「うん」
不意に並べられた単語に思わず問えば、悦は植木鉢のようなカップの中身を鬼利に見せながら屈託なく頷いた。礼を言いながらシートから背を離し、鬼利もカップの中で均等に減った色とりどりのアイスを見る。
「おススメは?」
「全部」
「1つでいいよ」
「うーん……………苺」
「じゃあそれで」
熟考の果てに、薄ピンク色のアイスを示した悦に小さく笑いながら応えると、悦は安っぽいプラスチックのスプーンで凍った果肉の入ったアイスを大きく掬い、
「はい」
アイスの乗ったスプーンを渡す…のではなく、そのままスプーンを鬼利の方へと差し出した。
「……」
「早く。すぐ溶けるんだよこれ」
何の冗談だと思わず悦を見るが、大真面目な顔で急かされてしまい鬼利は少し困る。
彼の恋人でもある零級指定の軟派な変態も、偶に「はい、あーん」等とふざけた事を言いながらこんな真似をして来るが、こんな事は幽利にもさせ無い。相手が傑ならば、手首の1つでも折ってから丁寧にスプーンを受け取るのだが、今アイスを差し出しているのは悦だ。
まさか傑と同じ事をするわけにはいかない。鬼利は少し迷ってから、仕方なく差し出されたアイスを口に含んだ。
咥えたスプーンがするりと抜き取られ、舌に乗った苺味のアイスが微かな酸味と甘みと共にふわりと溶ける。砕かれた果肉と共に飲み込み背をシートへと戻すと、悦が顔色を覗うように首を傾げた。
「どう?」
「美味しい。ありがとう」
「いーえ。…もっと食べる?」
「一口で充分だよ」
「そ?じゃあ食っちまうわ、コレ」
言うなり、悦はぱくぱくと残りのアイスを口に放り込んで、瞬く間にカップの中身を空にしてしまった。まるで吸い込んでいるようなスピードだ。
「…本当に好きなんだね」
「勿論。…あ!ちょい待ちオッサン、悪いけど今の路地右に行ってくんねぇ?」
「どうしたの?」
「ここの裏にあるクレープ屋が滅茶苦茶美味いんだよ」
「クレープ…」
呟きながら、鬼利はシートから立ち上がり運転手に道を指示している悦の手が持つ空のカップを見た。植木鉢のように巨大なこのカップに、5種類のアイスはたっぷりと入っていた筈だが…まだクレープが入るのか。
思わず悦の腹を見た鬼利を、シートに戻って来た瑠璃色がくるりと振り返る。
「鬼利も食べるだろ?」
「いや、僕は…」
咄嗟に辞退しかけた鬼利は、きらきらとした瑠璃色の瞳が途端に陰ったのを見て口を噤んだ。これから本部に戻った後、今度はキュールを護衛として連れて空の企業家と会食の予定がある。ただでさえ食は細い方だ、今胃袋を膨らませるのは得策では無い、のだが。
「…食わねぇの?」
振動も無く止まった車の中、窓の向こうに店が見えているのにドアを開けようともしない悦に、鬼利は笑いながら“参った”と言うように軽く両手を上げ―――自分では滅多に触る事の無いドアノブに、手を掛けた。
Fin.
鬼利の護衛をする悦。
この2人メインの絡みは実は初めてでした。悦と鬼利の関係はこんな感じ。
元男娼は甘え上手です
