しずかなへや



 薄暗く照明を落とされた寝室に、ぎしり、ぎしり、とベッドのスプリングが軋む音が断続的に響く。

「んっ…鬼利…」
「…ん…?」
「強くねェ?平気?」
「…もう…少し」

 真っ白なシーツの上にうつ伏せて片腕を投げ出しながら、鬼利は閉じていた鮮やかな橙色の瞳を開いて、数度瞬きをしてからまた伏せた。
 鬼利の腰を跨ぐようにしてベッドに膝をつき、投げ出された腕の肩から首筋にかけてを両手を使って揉み解しながら、幽利は掛かる圧力に途切れがちな鬼利の声にほんの少し指先へ力を込める。

 普段の仕事が仕事な上に、鬼利はよく本を読む。教科書に載りそうな程正しい姿勢をしているので負担は少ない筈だが、頭能派な兄が1日に視覚から入れる情報の量は怖ろしく膨大だ。只でさえ忙しい仕事が立て込むと、視神経に掛る負担が僧帽筋にまで影響を与えてしまう。
 酷使された目が訴える鈍痛を欠片も感じ取れない、というのも理由の1つだろう。硬直した肩の筋肉を解し、血流が正しく流れるように促しながら、幽利は目を伏せた鬼利の横顔を見てこっそりと苦笑した。

 痛みは無くともこんなに凝っていれば重さやだるさを感じる筈だが、鬼利の集中力の前ではそんなサインでさえ無駄になってしまう。


「少しか楽ンなって来た?」
「ん…」

 目隠しを外した幽利の目には、皮膚の下の鬼利の筋肉や血流やリンパの流れがどうなっているのかが、X線で透かし見るよりもはっきりと“視えて”いる。
 マッサージをする前よりもスムーズになった血流を確かめながら問えば、目を伏せたままの鬼利が小さく声を出した。

 鬼利は基本的に無駄な事は言わない。言葉に出すのはいつも必要なことだけで、だから肯否どちらとも取れる曖昧な言葉や声を出す事は無い。
 …幽利以外、には。


「次、腰やッから」
「……」

 充分に解れた肩から手を離し、暖かさが逃げないように肩口にバスタオルを掛けて体の位置を足の方へずらすと、目を開けた鬼利がちらと自分の上に居る幽利を一瞥した。
 鬼利は声に出しては何も言わず、幽利はその視線を受けてちらとサイドスタンドの時計を確認し、やはり何も言わずに小さく笑って見せる。

 鬼利はそれに軽く眉を顰めたが、幽利がその細い腰に両手を宛がってマッサージを始めると、諦めたように軽く息を吐いてまた目を伏せた。


「……」
「……」



 薄暗く照明を落とされた寝室には、2人の息使いとベッドが小さく軋む音だけが響く。

 必要な事を口にするのも、必要の無い事は口に出さないのも、幽利以外の人間の前だけでの事だ。
 身じろぎすらせず、自分の下で顔を半ばシーツに埋めて目を伏せている鬼利を見ながら、幽利は鬼利と同じ鮮やかな橙色の瞳を軽く細める。


 みんな鬼利が解らないと言う。あんな難しい人を相手にして、その上そんな関係で、愛されているのか不安になる時は無いのかと聞く。

 そんなことある筈が無いのに。


「……」
「……」

 …鬼利。
 ぐぐ、と適度な体重を掛けて鬼利の腰を揉み解しながら、幽利は声には出さずにその横顔を見つめて呼び掛けた。
 鬼利は答えずに、目も開けなかった。

 鬼利が無駄な事を言うのも、必要な事を言わないのも幽利の前だけだ。こんなに解り易く、誤解なんてしようも無いほど明確に表現してくれているのに、それなのに、みんなはどうして鬼利が解らないのだろう。


 誰も彼もあの不完全な伝達方法に頼り過ぎている。
 伝えたいことを一番よく伝えてくれるのは言葉じゃなく、伝わって来ることを一番無駄なく理解できるのも言葉では無いのに。


「……」

 鬼利の肩にかけていたタオルをそっと外し、その体の上に端に寄せていた布団を掛けながら、幽利は鬼利の体が楽になるようにと、それだけを想って動かしていた両腕を軽く回した。
 1時間の丹念なマッサージで、今度は自分の両肩から腕にかけてに乳酸が溜まっているのが解ったが、鬼利と違って自分は体が資本だ。このくらいは明日、風呂で少し解せば凝る暇も無く治る。


 腰をマッサージする途中で鬼利は寝てしまった。線の細い見た目の通りに冷え症な兄はこの時期少し寝つきが悪いのだが、血流の良くなった体は末端まで温まっている。これなら明日の寝起きは、何時もより少しは良いだろうか。

 浅い鬼利の眠りを妨げないよう静かに明かりを消して、ベッドが大き過ぎて出来る鬼利の足元のスペースに潜り込みながら、幽利は横になった途端にどっと襲って来た眠気に小さく欠伸をした。“千里眼”で布団の中から時計を確認すると、時計の針は午前3時を回っている。


 …おやすみ、鬼利。

 声には出さずに眠る鬼利にそう伝えて、幽利は布団の中で目を伏せた。


 暗いふたりの寝室はとても静かで、そこにはふたりの息使いと鼓動の音以外、無駄な音は何もなかった。



 Fin.



マッサージしてあげる幽利。
平穏で平凡で深く重い2人きりの寝室。

Anniversary