かりかりとルーズリーフの上を滑っていたシャープペンシルの動きが止まり、数秒の停滞の後、それを持つ手の中でくるりと回る。
「えーッと…」
くるり、くるり、と指先で器用にペンを回しながら困ったように軽く眉を顰めた幽利の視界の端で、キャップを外された赤いペンの背がかつり、とルーズリーフの上部に書き込まれた数式の一部を叩いた。
「ン?」
「これの応用」
紙面に書き込まれた数字の列から顔を上げた幽利に、ペンを持った男子生徒―――幽利の双子の兄である鬼利とは別の意味合いで、総生徒数700人を超えるこの高校で知らぬ者の居ない有名人である世環傑は、ペンの背で数式の一部を円で囲むようにして見せた。
「あ、成る程。じゃァ…」
「良く出来ました」
持ち直したシャープペンシルで数式の続きを解き始めた幽利に、本来とは逆向きに椅子に座ってそれを眺めている傑は、抱え込むようにした背もたれに頬杖を突きながら小さく笑う。傑にとっては何の気なしの表情なのだろうが、これで相手が中学校時代からの腐れ縁である幽利ではなく、女子生徒だったりしたらとんでもない事になる。
なにせ後輩が呼び捨てにしようがタメ口を聞こうが気にも留めない気さくなこの先輩は、そこらのモデルや芸能人が霞んで見えてしまうような抜群の容姿をしているのだ。挨拶をした女生徒が熱を出したとか、廊下で転びそうになった所を抱きとめたら失神したとかいう、現実的に考えればまず有り得ない噂話を信じてしまいそうになる程に。
「さァすが先輩」
「このくらい解ンだろ、お前なら」
導き出した解の下にさっと線を引きながら茶化すように言うと、傑はくるりと手の中で反転させたペンでそこに丸をつけながら軽く首を竦めた。幽利が解いているのが授業レベルの問題だからか、一応渡している問題集の解答冊子を開きもしていない。
放課後、授業とはかけ離れたレベルの物理の問題について、職員室に議論をしに行った鬼利が戻るのを待つ片手間に自習をしていた幽利の所へ、受験生である傑がふらりとやって来たのはもう1時間近く前だ。剣道部である悦の部活が終わるのを待つ暇つぶしに、こうして幽利の勉強を見てくれている。
夏休みも明けて受験生としては追いこみの時期だろうに、10は校則違反をして妙に粋に着崩された制服の通りに不真面目な男だ。
「昔ッから数学は苦手でねェ。英語ならもうちょッと人並みに出来るンだが、数字見てると頭痛くなっちまう」
「前の模試の偏差値は?」
「8月頭に受けたヤツかィ?確か…」
「模試の偏差値」と言われた瞬間に脳裏には該当の数字が浮かんだが、幽利は敢えて思いだす素振りをして間を開けた。1月前に受けた模試どころか、入学当初から今まで受けた模試の教科別と総合の偏差値を並べろ、と言われたって幽利には造作も無いが、そんな記憶力は間違いなく“普通”では無い。
度を越した才能は排斥される。世の中とはそういう風に出来ているのだ。自分への面倒事を回避する為に、そして秀才天才の名を欲しいままにしている鬼利の面倒事の矛先を自分に向ける為に、こうしていた方が色々と物ごとが思い通りに行く事を幽利は知っている。
「48…くらいだったっけか。50の壁は俺にゃァ高くてねェ」
「…お前さ」
「ン?」
ルーズリーフを裏返しながらへらりと笑って見せた幽利に、傑は頬杖を突きながらにこりともせず、軽く目を細めた。
気だるげな表情の中で妙に鋭いその瞳に、幽利は表には出さずに軽く身構える。傑と中学の時から付き合いがあるのは幽利だけではなく、鬼利も同じだ。顔が綺麗で軽薄、頭の出来もそれなりでスポーツも一通り。ただそれだけの男と、鬼利が付き合いを持つ筈が無い。
「なんでそんなに一生懸命バカの振りしてんの」
「……」
「俺も偶にはするけどさ。処世術にしちゃやり過ぎじゃね?」
「…買い被り過ぎさね」
いつも通りの口調で言われた言葉に、幽利はいつも通り困ったように笑って軽く返した。
聞いてみたことは無いが、鬼利が傑を彼が望むように呼び捨てにしている理由はきっとこれだ。そして幽利が単なる先輩後輩の枠を超えて傑を見ている理由も、これだった。
嘘を見破ることが得意な人間は、嘘を吐くのが得意な人間だ。
「双子でも、俺と鬼利とじゃァ出来が違ェんだ。てめェでも時々嫌ンなる」
「ふーん…」
真意の中にほんの少し嘘を混ぜた幽利に、傑はつまらなさそうに相槌を打ってくるりとペンを回す。
他より少しは面白いこの男の相手をしてやってもいいが、それは鬼利の役目だ。ふたりの中で特別なのは鬼利だけでいい。
傑の声音の中に含まれた感情に気付かぬふりをして、幽利は持ち直したシャープペンシルを裏返したルーズリーフに走らせた。
1つめ、2つめを問題無く解いて、3つめ。前の2題よりは少し複雑な式の途中で、“いつも”の凡ミスをしてそれを放置したまま式を展開していくと、狙った通りの箇所に赤ペンの背がかつりと当てられる。
「そこ違う」
「…アレ?…あァ、またやッちまった」
消しゴムで間違えた箇所を消し、正しい数字を出すのに少し苦労する素振りを見せながら、幽利は横目でこっそりと傑の背後にある時計を確認した。
鬼利が持ち込む問題と質問は、地元では有数の進学校に揃えられた理系教諭達にいつもひと騒動を巻き起こす。あれやこれやと互いに議論を交わしながら、今の環境では鬼利が知ることの出来ない知識を零して、なんとか導き出された解答と一緒にその全てを吸収した鬼利が戻るまで、あと少しといった所だろうか。
この時間なら鬼利は下校途中に図書館に寄るだろうから、その間に買い物に行って―――
「…なぁ、ここ」
「え、」
物想いに耽りながら、問題を見た瞬間に脳裏に浮かべていた解答をさらさらとルーズリーフに書き込んでいた幽利は、不意にかつりと机を叩いたペンの音に素早くその先を追った。この問題では、もう“間違えるつもり”は無かったからだ。
示された数字を見て僅かに目を細めた幽利に、傑が僅かに口角を吊上げた。式を追っていてそれを見逃した幽利の、放課後だというのに結び目を造っている襟元のネクタイを、ペンを離した手がするりと伸びて根元から引っ掴む。
「っ…!」
完全に不意を突かれた幽利の体が机の上に傾ぎ、それを支えようと亜鉛に汚された白い紙の上に突かれた掌が、ぐしゃりとそれを歪めた。
「お、いおィ、何す…」
眉尻を下げた、謙るような笑みを張りつけた幽利の言葉を、傑はその吐息ごと唇で呑み込んだ。
「っ……!」
見開かれる橙色の瞳を、開いたままの傑の両眼が至近距離で笑う。唖然とした表情のままに薄く開かれていた唇の合間に舌を差し込み、濡れたそれが柔らかい肉に触れた瞬間、それまで呆けたように白黒していた幽利の瞳が鋭く細められた。
夕陽が赤く染める教室に、肉を打つ鈍い音が響く。
「…っは…!」
「……」
舌から逃れるように振り解かれるのとほぼ同時に、咄嗟に噛み締めた奥歯の上から強かに殴りつけられた頬を、傑は幽利のネクタイから離した手の甲で軽く拭った。
何も言わずただ無表情に横目で自らを見る傑に、幽利は硬く握っていた拳を解いて軽く振り、傑から目を反らしながら軽く舌を打つ。
…殴らされた。
「…ばぁか」
2人しか居ない静かな教室ではよく通るその小さな音に、傑が楽しげに笑った。
閉じられたままの解答冊子が傑の手で捲られ、今幽利が解いている問題の解答が載ったページを開く。解説されている式は幽利が書いた式と全く同じだった。
カマを掛けてやったのだと、ご丁寧にも説明してくれる傑に幽利が深く溜息を吐くのを聞きながら、傑は幽利に殴られた右頬が僅かに赤く染まり始めた美貌で意地悪く笑う。
「ツメが甘いんだよ」
「…てめェは性質が悪ィ」
Fin.
傑&幽利in高校生。
他と同じように上手く騙してやろうとする幽利と、それを牽制する傑の悪戯。
キスして殴られる傑が書きたかったんです…
