慕情等という生易しいものでは無く
それは獣のように喰い荒らした
霧が染みるように入り込み
じわりじわりと
心の臓を。
半ば土に埋まったその座敷には窓がなく、真夏だというのに薄らと肌寒くさえある座敷の明かりと言えば、畳の隅にぽつりと置かれた行燈のちろちろと燃える小さな火のみだった。
「…では、ごゆっくり」
背後で案内役の丁稚が低く告げる。ことりと小さな音を立てて背後で閉じた襖は、なんの趣向か墨に染めたような漆黒だった。
いや、襖だけではない。見渡せば畳の縁も柱も天井も漆黒に塗り染められ、同じく黒に統一された調度の中、煙草盆の皿と文机に乗る筆、酒杯だけが目が覚めるように朱い。
全てが夜のような黒に染まる中、数少ない彩りは目を奪うのに十分な鮮やかさを持っていたが、弐拾畳はあろうかという座敷に入った瞬間から、悦の視線は座敷の中央で煙草盆を傍らに座る男に釘付けになっていた。
貫。
「…っ…」
「…よォ」
煙管の雁首が煙草盆に叩きつけられる高く澄んだ音に我に返った悦に、煙管の持ち主はそんな悦の様子を面白そうに眺めながら呼び掛ける。
奇妙な声色だった。少し低く睦言のように甘く、よく通る。一度聞けば二度と忘れることなど出来そうにない、極上の三味のような声だ。
「随分と御無沙汰だったじゃねぇか。他にいい女でもつくったのかと思ったぜ」
「…女なんて、作るわけねぇだろ」
呟くような悦の声に、煙管に新しい葉を詰めながら男はけらけらと笑った。再び煙を吐き始めた煙管の雁首がくいと持ち上げられ、見えぬ糸に引きずられるようにして悦は男の足元まで歩み寄ると畳に膝を着く。
「確かに女はつくれねぇだろうなァ、この体じゃ」
「っ…、…」
「黙りこくってないで何とか言ったらどうだ、旦那」
ふぅ、と吹いて寄越された煙に軽く息を詰めた悦に首を傾げて見せながら、黒い着流しに同じく黒い帯を緩く締めた男は、畳の上の悦の手に白い己の指先を絡ませた。
卑猥な動きで指先をなぞり、手首を辿って袖から忍び込む指に悦の息は傍目にも明らかに熱を含んでいき、耐えきれぬようにじりと畳を這った指が、男の黒い着流しを掴む。
「すぐる…っ」
「女は無理でも男なら簡単だよなァ?…吐けよ旦那。七日もなにしてた?」
「…山間を縄張りにしてた連中を、始末してた。…女も、男もつくってない」
「へぇ?」
「っ…信じられないなら、確かめろよ」
貫。
赤く染まった頬を隠すように顔を反らしながら言う悦に、男は紅を引いたように赤い唇の端をゆるりと吊りあげて、笑った。
「…じゃァ、そうさせて貰おうか」
音も無く膝を寄せて囁く男の瞳は、行燈の僅かな明かりに照らされてゆらゆらと、まるで夜の海のような深い藍色をしていて。
呑み込まれそうだと、思った。
土に埋もれた座敷の主は名をすぐると言い、寝子だった。
花街でも有名なこの廓には若く美しい花魁が幾人も居たが、その中でもすぐるの美しさは別格であった。浄瑠璃人形のように整った顔立ちもさることながら、血を塗ったように紅いその唇が囁く極上の三味のような艶声は、一度聞くと二度と忘れられぬ、妖力のようなものを秘めていた。
男であることを差し引いても、すぐるは廓の中で随一の花魁であった。彼の座敷に上がることを許されるのはごく一部の上客のみで、その他の客には存在すら知らされることは無い。
―――衆道の気などまるで無かった旦那達が何人も、興味本位で一度座敷に上がったばっかりに抜け出せなくなった。あれは一晩で客を骨抜きにする。見世を畳む破目になったって気付きやしない、入れ込むなんてどころじゃないんだ。
心の臓まで、食い荒らされるんだよ。
「あぁ、あっ…ひ、ぃ…っッ」
ぬるり、と体内に入り込んだ生温かく柔らかなものに、喉が引きつった甘い悲鳴を上げる。
体の下で先ほどまで纏っていた着流しが畳を擦った。この座敷に布団が敷かれている所を、悦はまだ一度しか見たことが無い。
「ぁ、あっ、あぁあッ…舐め、な…ひぅうっ!」
「動くなよ、旦那。…前みたいに焦らされたいか?」
「っ…ゃ…いや、ぁっ…!」
「じゃあ大人しくしてな。確かめろ、つったのはお前さんだろ?」
指一本で丹念に体内を解され、熱く蕩けた内壁を延々と擽られ続けた地獄のような快感を思い出し、着流しを握り締めながら首を振る悦にそう囁いて、すぐるは意地の悪い笑みを浮かべた。
下帯を取り払われた尻たぶを掴む手がぐ、とそこを押し開き、焦らすように縁をゆっくりと舐め上げてから、尖らせられた舌がぬぐぬぐと奥に入り込む。
常ならば指やすぐる自身の熱いもので擦りあげられる箇所を、柔らかい舌で擽るように撫でられ奥の奥まで溶かされて。時折、じゅるりと音を上げて淫液の混じった唾液を啜られると、それだけで触れられる事のない下肢がじんと痺れた。
「ふぁあ、ぁっ…すぐる、すぐる…っほんと、誰も…して、ない…からぁ…ッ」
「……」
「だ、から…もぅ…っあ、ぁああっ」
「…全く仕様のねぇ淫売だな」
堪え切れず涙声を上げた悦の下肢から顔を上げながら、すぐるは心底呆れたといった風に溜息を吐いた。
濡れた唇を赤い赤い舌が舐めて、嗚呼、どうしてこの男は何処も彼処もこんなに艶っぽく美しいのだろう。
黒い着流しの、その裏地が目が覚めるように紅い。甘ったるく苦い香り。白い肌に浮かぶ鎖骨の陰影すら見惚れるほどに美しくて、この男の前にはどんな浮世絵も霞のように翳んでしまう。
「考えてみれば旦那、アンタは俺と女に二股が掛けられる程器用じゃなかったな」
悪かった、そう耳元で囁かれて目の前が滲む。疑いが晴れて嬉しい等と、そんな真っ当なことを考えるには悦は余りにこの男に溺れてしまった。
「詫びの印にアンタの好きなものをたっぷりくれてやる、嬉しいだろ?」
「あ、あぁ、あッ…!」
ゆっくりと体を押し開かれる痺れるような快感に、悦は生娘のようにか細い声で鳴きながら畳に爪を立てる。今にも崩れてしまいそうな腰を片手で支え、ひくりひくりと震える悦のものを悪戯に指先で擽りながら、すぐるはくつくつと愉しげに喉の奥で笑った。
「堕ちたら仕舞だって、ちゃんと教えといてやったのにな」
丁稚が置いていった微温湯と手拭で体を清め、着流しの帯を締め直しながら、悦は畳の目をそっと指先で撫でた。
黒い縁にほど近い場所に爪で引っ掻いた後が残っている。そう言えば前も、その前の夜もここの畳を傷つけた覚えがあるが、いくら探して見ても真新しいそれ以外に畳の上に傷は見当たらなかった。
「もう直ぐ夜が明けるぜ、旦那」
煙管を燻らせながらすぐるが告げる。土に埋もれた座敷には窓など無いのに、すぐるは今が何時かをいつもぴたりと言い当てた。きっと今頃この座敷の上では空が白み始めているのだろう。
夜明けを想像しようとして、上手く思い浮かべることが出来なかった。ここで夜を明かした日はいつもそうだ。いつも見ている筈なのに、この座敷の外でのことを、上手く思い浮かべることができない。
「戻らなくていいのか?」
「……すぐる」
「ン?」
ふぅ、と吹かれた煙が仄暗い部屋を漂い、情事の名残が残る空気の中に溶けていく。
甘ったるく苦い香り。
「…今夜は、何人客をとったんだ。俺、以外に」
「……」
貫。
雁首を煙草盆に叩きつけ、灰を落とす。澄んだ音。じりじりと燃える葉が白くくすんだ煙を一度上げて、音も無く消える。
「二人」
「…その、前は?」
「四人。お得意なんだがスキモノでね、三人一度でさすがに疲れた」
「すぐる」
「なんだ」
すぐるはいつだって真っ直ぐに前を見て話す。相手の瞳のその奥まで見透かすような、そんな目で。
口を噤んだ悦をすぐるは暫く横目に眺めていたが、やがてふぅと紫煙を吐きだすと共にその手を伸ばし、今着つけたばかりの悦の襟首を掴んだ。
「なにが言いたい、旦那。今更隠すんじゃねぇよ、腹ン中まで弄りあった仲だろうが」
「……」
常より一段低い声でありながら、すぐるの唇には薄い笑みが掃かれていた。
きっと悦が何を思っているのか、何を言わんとしているのか、この男は全て解っているのだ。解っていて、解っているから、その上で、敢えて。
…嗚呼、なんという男だろう。
「…すぐる、お前が欲しい」
「……」
「何度も言ってる。何度も、何度も。戯れなんかじゃない」
「…なァ、旦那」
襟を掴むすぐるの手がするりと悦の首筋を這い、優しい手つきで髪を梳く。
「一晩の花代も満足に払えねぇ、やくざ者の雇われ用心棒風情が俺を身請けなんざ本気で出来ると思ってンのか。言っとくが野良仕事も貧乏暮らしも御免だぜ」
「お前がその額でいいって言ったからだ。金ならつくる」
「金なんざいらねぇよ。年季なんてモンなら五年も前に明けてる」
「…じゃあ何が欲しい」
髪を梳くすぐるの手首を掴み、悦は膝立ちになってすぐるに詰め寄った。
「言えよ、すぐる。…言え」
「…あんたには無理だよ、旦那」
「ッ……!」
睦言を囁くような声音で告げられた言葉に、悦は勢いよくすぐるの体を畳に押し倒す。拍子でひっくり返った煙草盆から、真っ赤な煙管が畳に転がった。
「金も自由も欲しくねぇならどうすりゃいい、出る気がねぇならなんで俺を座敷に上げるんだよ!」
「……」
「そうやって餌チラつかせて、喰いつく俺を嗤ってンのか。俺じゃ無理なら他の客なら出来るのか。どうなんだ、何か言え、すぐる!」
「……悦」
手首と肩を畳に縫い止められ仰向けになったまま、すぐるは軽く目を細めて悦を見上げる。
まるで眩しいものでも見るように、真っ直ぐに。
「…悦、離せ」
「……っ」
「離せ」
静かなその声に重ねて命じられて、悦はゆっくりとすぐるの上から起き上った。膝で畳の上を少し下がるとすぐるは畳の上から身を起こし、ひっくり返った煙草盆を戻して煙管を拾い上げた。
「…三日後の夜、またお出で」
「…え?」
葉を詰め、何事も無かったかのように再び煙管を燻らせながらぽつりと告げられた言葉に、悦は畳の目を睨んでいた視線を上げた。
悦にとって、此れは賭けだった。他の野暮な客と同じように今宵限りでこの褥を追い出されるか、己の願いを聞き届けられるかの、どちらかだと。
今までも幾度も幾度も、それこそ座敷に上がる度に身請けの話を持ち出してはいたが、いつもすぐるはのらりくらりとそれを躱していた。今宵こそはと思ってはいたが、ここまで強引な手段に出たのだ、色よい返事が貰えなかった以上、もう二度と来るなと告げられると思っていたのに。
「三日後…」
「さっきの返答はその時だ」
「…なにを、」
何をする気だと、そう問いかけて悦ははっと口を噤んだ。
人を呑むほどに深いすぐるの瞳が、それ以上は何も言うなと語っていたからだ。
次ぐ言葉を呑み込み、ただ一言、わかったと頷いて立ち上がった悦に、苦い煙をふぅと吐きだしながらすぐるが薄らと笑った。
「刻限は今日と同じだ。…きっとお出で」
今の悦の雇い主は源座と言うやくざ者で、学も品も無いが人より少々悪知恵が働く小悪党の一人だった。
欲しいものは手に入れねば気が済まぬという性分で、組の代紋すら大恩ある先代を謀殺して奪い取ったものだと言う。賭場で厄介事に巻き込まれ止むを得ず刀を振るった悦の腕を見て、今すぐ己の用心棒として雇われろと、承諾しなければ只ではこの街から出さんと直々に宿場まで出向いて来るほど、己の欲に忠実な男だ。
金はあるが鼻つまみ者であった源座が、普通のやり方ですぐるの座敷に上がれる筈もない。恐らくはどこぞで噂を聞きつけ、入れろ上げろと光りものをチラつかせてごり押したのだろう。
あの傲慢な男がすぐるの客の、それもかなりの上客の一人であるというのはいい気がしないが、悦がすぐるの座敷に上がれるようになったのは源座の存在があったからだというのだから皮肉なものだ。
あの品のない男が酒の席で逢ってみろ抱いてみろと唆さなければ、単なる流れ者に過ぎない悦はすぐるの名すら知ることはなかったのだから。
三日後。
月の無い夜だった。
護るべき雇い主は、別の護衛を付けて半刻ほど前に屋敷を出たと三下に告げられた。遠出だと言う。
悦がすぐるに入れ込むようになってから、最初は面白がっていた源座は悦が彼の元に通うのにあからさまに難色を示すようになっていた。又、常のように何の彼のと理由を付けて引き留められる事が無くなるのを幸いと思う一方で、酷く嫌な予感がした。
源座は三人雇い入れた用心棒の中でも特に悦の腕を頼みとしている。対立する組との仲が悪化してからは、悦以外の者を連れて屋敷を出ることもほとんど無くなっていた。
ましてや遠出だ。
…嫌な予感がした。
「…こちらへ」
廓の裏戸を叩くと、顔を出したのはいつもの丁稚ではなく番頭の芳吉であった。
商売人らしく饒舌である筈の番頭は常に無く寡黙で、押し黙ったままに悦を招き入れると、いつも通されるとのは別の階段を悦に下らせた。無言で差し出された手に腰の物を預けると重さに驚いたか軽くよろめいたが、いつもの軽口を叩くでもなく、静かに白い障子を開く。
其処は狭かった。
すぐるの座敷と同じく土に埋もれた場所なのだろうが、其処は四畳ほどの広さしか無い上、調度と言えば塗り固めただけの土壁に掛けられた場違いな掛け軸と障子、隅に置かれた長持くらいのものであった。
「此処は?」
「お静かに願います」
悦から預かった物を丁寧に布に包みながら、番頭は押し殺した声で告げる。
怯えたようなその表情に謂われるがまま口を噤むと、軽く頭を下げて障子の向こうへと下がりながら、囁くような声音ですぐるが寄越したと言う言伝を伝えた。
「掛け軸の向こうにすぐるの座敷が御座います」
「…覗けってか」
「覗くも覗かぬも旦那様の御自由に。…但し、一度掛け軸を外し中を覗いたその時は」
「その時は」
「必ず全てを余す処無くご覧下さりませ。総てが済めばすぐるがお迎えに上がります。約束の御返事はその時に、…と」
「…わかった」
ごゆっくり。番頭がそう言って障子を音も無く閉めるのを横目に羽織りを脱ぎ捨てると、悦は躊躇い無く松の画かれた掛け軸を外した。
外した其れを長持の上に置き壁を検めると、成る程其処には覗ける程の穴があり、その覗き穴の向こうにはあの黒い座敷が広がっている。
二張りの行燈に浮かぶ座敷は相変わらず薄ぼんやりとしていたが、目が慣れれば其れほど苦ではなかった。
無意識の内に座敷の主の姿を探した悦は、だが視界にあの黒い着流しが映ったと思えた瞬間、思わず壁から僅かに身を引いていた。
『っ…旦那、…』
『……』
どこか熱に浮かされた様なすぐるの声に、布団に半身を起したそのしなやかな肢体に圧し掛かり帯を乱暴に解く男が顔を上げる。
見間違いだと思った。いや、そう望んでいたのだ。
『何だ、口吸ってやっただけで堪ンなくなったか』
「……っ」
下品にせせら笑う酒焼けした声。
聞きなれた源座のその濁声を聞いた瞬間、悦の背筋をざっと得体の知れない物が走った。土壁に付いた手が其処を抉り、ぎゃり、と音を立てる。
若しや、とは思っていた。
源座がすぐるの客の一人である事は当の昔から諒解していた筈だったが、まざまざとその様を見せつけられ、悦は己の臓腑を暗く熱い炎が焦がす音を聞いた。
あの下衆な男が、数に任せて粋がる事しか能のない小物が、今当に其の手ですぐるの着物を剥ぎ、白木のように滑らかな肌に触れているのだ。まるで喰らい付くようにあの艶やかな唇を吸い、すらりと長い脚に節ばった指先を食い込ませて。
『此の俺を半刻も待たせやがって。何様だてめぇは。あァ?』
『ッ…ぁ、あ…』
無理矢理に脚を開かせ、露わになったすぐるの物を乱暴に扱き立てながら、興奮に掠れた声で源座が言う。
刺激が強すぎるのか、震えるすぐるの手が源座の手首を掴み制止しようとするが、其の手は源座に触れる前に野太い腕によって掴み上げられ、布団に叩きつけられた。
『…しゃぶれ、淫売が』
『んぐっ…ぅ…ふ、』
性急に己の前を寛げた源座が低く言い、布団に肘を置いて半身を起していたすぐるの上に覆い被さる。
叩きつけるようにして上から腰を振り立てる源座の動きに、気遣いというものは欠片も無かった。じゅぷじゅぷという濡れた音と、呼吸を阻害されるすぐるの苦しげな呼吸、荒い息使い。
『っう…も、ういい、離せ』
『ッ…げほ、…ぅあっ』
絶頂が近いのだろう、切羽詰まった声で叫ぶように言うなり、源座はすぐるの体をひっくり返した。されるが侭に伏せたすぐるの腰を上げさせ、醜悪な物を突き入れると、がっしりとすぐるの腰を掴み滅茶苦茶に腰を振り立てる。
『お、おっ…クソ、この…淫売が!』
『あぁ、あっ…だ、んな…も、と…ゆっくり、…っ』
『煩ぇ!だま、…黙りやがれッ』
悦が聞いた事のない声で、悦が見たことも無い顔で、すぐるは布団に縋りながらがくがくと揺さ振られていた。
暫くして源座が汚らしい声を上げながら達し、そう、達したのだ。すぐるの中で。
深く息を吐いて一度己を抜いた源座は、だが肩で息をしながらすぐるの腕を引っ掴んで仰向けにさせると、白濁とした体液がどろりと伝う後腔に扱き立てて硬度を取り戻した物を再び突き入れた。
今度は些か余裕があるのか、大きく腰を使いながらすぐるの髪を掴み上げると、浅い呼吸をする艶やかな唇を吸う。
『ふ、ぅ…う、…っ』
『おお、おっ…すぐる、すぐる…っ』
太股に爪を立てながら腰を振り立て、源座の濁声がすぐるの名を呼ぶ度に、悦の中に燃える暗い炎が油を注がれたように勢いを増した。嫉妬などという穏やかなものでは到底なく、それは間違いなく明確な、そして強い殺意であった。
『だす、出すぞ、すぐるっ…何処だ、何処に出して欲しい…っ』
『な、かにっ…は、…旦那…中に、欲しい…』
甘ったるく掠れたすぐるの声は、今当に穢されいるというのに相も変わらず艶を孕んでいて、其の事が更に悦を堪らなくさせた。艶声ではあるが、いつも己が聞いているのとは質が違う。もっと甘く、絡みつくような毒を内に孕んでいる。
―――其れから半刻あまり、源座は盛りの付いた犬よりも酷い有様で狂ったようにすぐるを抱いた。
己の物が勃たなくなるや、独り善がりの行為に其れまで殆ど達していなかったすぐるの物にしゃぶり付き、帯で腕を縛り上げられたすぐるがいくら制止しても止めようとせずに、何度も何度もすぐるの淫液を飲み干した。
『だん、な…もう、時間だ…』
『……』
掠れ切った声で傑が告げ、源座は荒々しく舌打ちをするとべたべたに汚れた顔ですぐるの口を吸い、解けた帯を締め直す。
これ以上の地獄絵図を見ずに済むと思う反面、すぐるの言う「時間」というのが悦には合点が行かなかった。いつもこの刻限に悦が座敷に上がる時は、すぐるは行為が終わっても夜が明けるまでは座敷に居座る事を許してくれる。
『…失礼致します。源座様、御約束の刻限で御座います』
『待て…今行く』
障子の向こうからの丁稚の声に低く答え、源座は布団に横たわったまま荒い息を吐くすぐるを見下ろした。
『…次は何時だ、すぐる』
『何時でも。…旦那の金子が続く限り』
布団に横たわったまま、薄く目を開いたすぐるは甘ったるい声で囁くと唇の端をつぅと吊り上げて嗤った。
其れにもう一度荒く舌打ちをして、源座は畳に投げ出されていた羽織りを肩にかけると、すぱんと障子を開きそこに控えていただろう丁稚を蹴散らして座敷を出ていく。
『…やれやれ』
源座の足音が遠のくと、それまで指一本動かすのも気怠るそうに横たわっていたすぐるは、打って変って確りとした声でそう呟いた。
丁稚が置いていった手拭で簡単に体と顔を拭うと、布団の外に蹴りだされていた黒い着流しを羽織り、緩く帯を締め、慣れた手つきで葉を詰めた煙管を手に壁に歩み寄る。
覗き穴越しの狭い視界からすぐるの姿が消え、一刻ぶりに壁から顔を離した悦の横で、土壁がごとりと揺れた。ゆっくりと反転したそれは、どうやらからくり戸であったらしい。
湿気の多い重苦しい空気の中に混じる、甘く苦い香り。
「…すぐる」
「よォ、旦那。愉しんでくれたかい?」
射殺さんばかりに鋭い悦の視線を事もなげに受け止めて、すぐるは茶化すように笑った。
「如何いうつもりだ。…あんな、ものを見せて」
ふぅ、と寄越された煙を払いもせずにすぐるを見据えながら、悦は押し殺した低い声で問う。
「…興奮したか?」
「……なに?」
「如何思った。俺があの醜男に犯される様を見て。アンタにゃ聞かせた事のねぇ声だった筈だ。如何思った、旦那」
悦の問いには答えずに問いを重ねたすぐるは、何時ものように面白そうに笑いながら悦を見ていた。嘘偽りなど通用しそうもない、あの瞳で。
「…芳吉に、刀預けて置いて良かった」
長時間力を込めていた為に白くなった指先を眺めながら、悦は静かな声で答えた。
「もし下げたままだったら、…殺さずに置く自信がねぇ」
「…そうか」
呟いたすぐるの貌からふ、と笑みが消える。
つ、と悦から視線を外し、何か深く思い詰めるような表情で黙り込んだすぐるに、悦は掛ける言葉が見当たらずに口を噤んだ。すぐるとの間で、こんなにも重い沈黙が続くなど初めての事だった。
「っ、…すぐる、」
「旦那、アンタ海を見たことはあるか」
約束であった返答をまだ貰っていないと、掠れそうになる声を上げた悦の言葉を遮って、すぐるがぽつりと言う。
「…海?」
「俺は七つでここに来てから、此の花街から出た事が無い。十四になってからはずっとこの座敷の中だ」
悦に視線を合わさぬまま告げられた言葉は、俄かには信じられぬ物だった。
学のある金持ちを相手にするすぐるはあらゆる事に造詣が深く、悦などより遥かに多くのことを知っていた。小難しい宗教や学問から、巷で流行りの浮世絵師や口さがない娘達の噂話まで、ありとあらゆる事を。
「…出た事、無いのか」
「無い。本やら絵でどんなものかは知ってるけどな、未だ此の目で見た事は無いんだ」
何でもないことのように言いながら、すぐるはどこか遠い目をして煙を吐いた。
「…見せてやる」
「ん?」
「見せてやるよ。海でも湖でも、お前の好きな物を」
お前が今まで見た事のない、お前が見たいと思う全ての物を。
「…そりゃァ楽しみだ」
くすりと笑ってそう呟いた傑が、着流しの袖で包んだままの手で悦の頬に触れた。素肌に触れたいと、思うがままに手を伸ばす悦の手を避けてするりと離れたその身体は、反転した壁にもたれながら赤い煙管を指先で弄ぶ。
「金のことは気にするな、旦那」
「気にするな、って…だから、金なら、」
「アンタは只、今夜のように俺を想ってくれりゃァいい」
其れで、俺はアンタのモノだ。
「……」
真意を測れずに口を噤んだ悦に、すぐるは煙管を咥えながら恥ずかしげも無くそう言って、愉しげに笑った。
―――すぐるの座敷のある廓が爆破された、と。
悦が源座の屋敷の雑魚に聞かされたのは、その翌日の昼のことだった。
「離れに火薬が仕掛けられたんだ。娘達はみィんな廓の方にいたから助かったけどね、離れは上も下も滅茶苦茶さ」
火の粉でも飛んだのだろうか、腕に布を巻いた鉄火肌の廓の女主人は、そう言って苛立たしげに黒い煙管を貫と煙草盆に打ちつけた。
「…下手人の目星は?」
「あの子の客の誰かだろうさ。解ってたら苦労しないよ」
淡々と問う悦を睨みつけてそう答え、女主人は額に手をやると深く溜息を吐いた。
あの、黒い座敷のある離れが壊されたのは明朝の事だったと言う。幸いにも廓にそれほどの被害は無かったそうだが、土に半ば埋もれたあの座敷が如何なったのかは、深く考えずとも解る事だった。
「すぐるは、」
「火の手が治まってからウチの男衆総出で掘り返してるが、出て来たのは此れだけさ。指の一本も見つからないよ」
きっと朝から何人も、悦のようにすぐるの客であった者がこうして安否を聞きにやって来ては同じ問いを繰り返しているのだろう。欠けた朱色の杯をカランと畳に投げ出して、女主人はもう一度溜息を吐く。
常の悦ならば彼女の言い草に苛立ちの一つも覚えそうなものだったが、今の悦にとって世界は全て薄ぼんやりと現実性を失っていて、白昼夢か何かのように見えていたから、そうかと頷いたきり杯をじっと見つめていた。
「…旦那、こんな時に何なんだけれどね」
「……」
「アンタに預かり物があるんだよ、あの子から」
「…預かり物?」
「そうさ。本当ならアンタじゃなくあの子に渡したいんだけれどね」
悦から視線を反らしたまま、女主人は煙草盆の下段の棚から紫の包みを取り出すとす、と畳の上にそれを滑らせる。
視線で促されるまま持ち上げれば小さなその包みはずっしりと重く、はらりと解けた合わせ目から黄金色の輝きが覗えた。かなりの額だ。
「…此れは」
「……」
「女将。なんの金だ、此れは」
「…アンタの花代さ」
視線を畳の目に落としたまま、絞り出すように言った女主人の声は囁くように小さかった。
「旦那。あの子がアンタに何と言って何をしていたのか、そんな事ァアタシは知らないし知ろうとも思わ無いがね、あの子はアンタのことを旦那とは思って無かったよ」
「…何?」
「夜具が、…無かったろう。あの子が言ったんだ。花代だって、名目上受け取ってたが全部取ってあった。それが此れさ」
旦那とは思って無かった?確かにあの部屋に夜具が、布団やら枕の類があったのは最初に座敷に上がった一度きりだった。花代も、他の客があの一夜の座敷に幾ら出していたのかは知らないが、悦のような浪人風情でも七日に一度は通えるような額だった。
ずしりと手に乗る思い包みを見つめたまま、黙り込む悦を憎々しげに睨み上げて、目尻に朱を刺した女主人は薄らと涙の膜さえ張ったような目で吐き捨てる。
「アタシはそれをあの子に渡してやりたかったんだ。年季が明けても働きづめに働いて、アタシが店を継ぐ時も随分助けてくれた」
「っ…じゃあどうしてアイツを外に出さなかった!」
「あの子が出たくないと言ったからさ!だから、だからアタシは、あの子がいつかいい人を見つけて出たいと言った其の時に困らぬようにって、斯うして…!」
叫ぶように言って不意に膝で立ち上がった女主人の手が、悦の着物の襟を掴む。
「如何して昨日、あの子を連れて行って遣らなかったんだ!あの子を出せるのはアンタだけだった、アンタが昨日手を引いていれば、そしたらあの子は…っ」
「……」
華奢な手が千切れんばかりに襟を握り締め、揺さ振られるのに任せる悦の掌から、布から零れた小判が畳にバラバラと落ちて行った。
騒ぎを聞きつけて這入ってきた芳吉が嗚咽を漏らす女主人を引き剥がし、詫びを言う声も悦の耳には入らない。
こんな汚らしい色の板一枚で、あの夢のような夜を買っていたのかと思うと吐き気がした。
「…芳吉」
「はい」
「下手人の目星は本当に付いて無いのか」
「…は、はい」
「何でもいい、何か解ったら教えてくれ。…頼む」
昨日。
昨日、連れ出せていれば。
海を、見せて、
Next.
