Is it good?Ⅱ



 がしゃり、と頭上で響く耳障りな音。
 思わず出た舌打ちに愉しげに笑って、赤い赤い舌が唇を舐める。

「…どうかしてるよ」
「そりゃどうも」

 罵倒にも飄々と笑って見せる男の赤くキスマークと爪の痕が残る首筋からは、安っぽい女ものの香水の匂いがした。










 閑静な住宅街の中に聳え立つ高級マンションのいかにも高級そうな外観を一度見上げて、鬼利は磨き上げられたパネルのボタンを押した。

『…鬼利?』
「具合は?」
『まぁまぁ。…今開ける』

 スピーカーからの声とほぼ同時にエントランスの扉が音も無く開く。嫌味な装飾こそ無いが傍目にも十分に高いと解るそこを抜けエレベーターに乗り込み、鬼利は首元のネクタイを片手で軽く緩めた。

 最高の条件を揃えたこのマンションの所有権を持つのは、都内でも高名なホストクラブで2年№1を維持している22歳の男だ。お得意は全て世界的な金持ちばかり。普通ならば考えられないような生活水準だが、少しでも気を引こうとする彼女達の贈り物の額を考えれば妥当だ。

 一晩の相手の代償がこのマンションだと言うのだから、つくづくイカレている。


 揺れも無く目的地にたどり着いたエレベーターがすぅと開き、フロントドアの役目も果たしている金属の扉が音も無く背後で閉まる。
 モデルルームのように整頓された玄関ホールには生活感が無く、家主がほとんどの時間を外で過ごしている事を暗に示していた。声も掛けずに奥に進めば、笑ってしまうほど広いリビングルームの巨大なテレビの前、革張りのソファに長い手足を投げ出していた家主が振り返る。


「よォ。久しぶり」
「元気そうだね」

 ひらりと手を振って見せた家主―――ホストであり、鬼利の務める製薬会社で専属のモニターもしている世環傑に皮肉をこめてそう答え、鬼利は傑の座るソファのサイドに置かれた一人掛けのソファに腰掛けた。

「副作用で死にかけてるって聞いたけど?」
「昨日まではな。今日は大分楽だよ」

 答える傑の顔色は確かに血の気が無く、その美貌もあって精巧な蝋人形のようだった。さすがに仕事も休んだらしく黒いシャツにジーンズというラフな格好だったが、ローテーブルに置かれていたグラスに鬼利の分の酒を用意するその首筋には、シャツに僅かに隠れた赤いキスマークが残っている。


「…ゴキブリ並みの繁殖能力だね」
「上と下は別物だろ、男は」
 呆れを隠しもしない鬼利の言葉に軽く首を竦めて見せながら、慣れた手つきでグラスをテーブルの上に滑らせた傑は、キスマークを隠そうともせずにシャツのボタンを開けたまま自分のグラスに口をつける。

「請求してくれれば休んだ給料分くらいは出せるよ」
「要らねぇよ。一昨日サボったし」
「吐き気と頭痛以外に症状は?」
「あー…喉がちょっと痛い」

 昨日は食う度吐いてたからな、そう付け足しながら空になったグラスをタン、と音を立ててテーブルに置き、傑は次の酒を注ごうともせずにソファに背を預けた。
 水のように酒を飲むこの男にしては珍しい行動だ。報告通りかなり重い副作用が出たのだろうと予想しながら、鬼利は注がれた酒を一口含む。


「喉が死んだら本業はおしまいだね」
「かもな。勃てば稼ぐ手段なんていくらでもあるからイイけど」

 血の気の無い唇にニヒルな笑みを浮かべ、傑は事もなげに答えた。その横顔を眺めながら、鬼利はこの“悪そう”な顔が堪らないのだと、普段は研究以外の事には関心の無い同僚の女が頬を染めていたのを思い出す。

 確かに傑ならば声など無くともその整った顔と手管で“お得意”の金持ちを垂らしこみ、一生遊んで暮らせるような額を貢がせることも容易だろう。あの深い藍色の瞳に見据えられたら最後、この甘い毒を持つ妖艶な毒蛇から逃れるのは容易ではない。


「ウチに出入りしてるビデオ会社が、是非男優に欲しいって言ってたよ。宣伝部も是非モデルにって」
「AVは16の時に出た。モデルはちょっと面白そうだな」
「履歴まで節操無しとは恐れ入るね」
「世界一の大学出た癖に、大企業の重役蹴ってあんな会社の研究員してるお前よりはまともだろ」

 くつくつと喉の奥で笑いながら言う傑を、鬼利はグラスに残った酒を飲み干しながらちらりと横目にした。
 傑の言った通り、鬼利は留学の際に世界で最も難関と言われた大学を卒業し、世界的と言って遜色ない企業の重役ポストへの勧誘を在学時から受けていた。だが、それを傑に話したことは無い筈だ。


「…つまらない事はやりたくないだけだよ」
「何事も愉しまないとな。人生短いんだ」
「……」

 ―――…何だ?

 緩く開いた両膝に肘を置き、両手の指を絡めながら上目遣いにこちらを見据える傑の視線に僅かな違和感を感じて、鬼利は軽く眉を顰める。
 傑の唇には色が無く、肌の色とほぼ変りないほど血の気が無い。いつもはルージュを引いたように紅いだけに余計に不健康に見えるが、頬の血色はそれほど悪くない。

「―――落ちるぜ。グラス」
「…っ…」

 ゴトリ。
 まるで傑の声を合図にしたように、持ったままにしていた空のグラスが鬼利の指から滑り落ちた。毛足の長いラグのお陰で割れることなく転がったそれを咄嗟に目で追った瞬間、鬼利の視界がぐるりと回る。


「…なにを?」

 酷い貧血を起こした時のように揺れる視界に加え、指先にも力が入らない。立ち上がるのは無理だと判断し、焦点の定まらない目で傍らの男を睨みつけた鬼利に、傑は愉しげに嗤いながら指先で己の唇を拭った。
 拭われた唇は、いつもの通りに赤い。

「少しの間動けなくなるだけ。30分もありゃ抜けるし、お前が作るようなえげつない副作用は入ってねぇよ」
「…どうして」

 回る視界に目を伏せながら問えば、傑の気配が間近に移動した。
 唇の色はファンデーションか何かで色を落としていたのだろう。副作用があったのは本当だろうが、1日でほぼ完治していたに違いない。


「どうして?」

 顔を上げることの出来ない鬼利のネクタイに指を掛けながら、毒蛇が嗤う。
 この男が正真正銘の快楽主義者であり、己の欲望を満たす事の出来る頭とコネを持っていることを、鬼利は失念していた。


「理由なんてねぇよ。あったとしても、そんなのどうでもいいだろ」

 ネクタイが解かれ、シャツの襟に手が掛る。咄嗟に抵抗しようと上げかけた手は、直後に襲ってきた酷い眩暈にソファの手摺に沈んだ。
 掠れた、少し低く鼓膜が蕩けそうに甘い声が薬に犯された脳内に反響する。


「…愉しもうぜ、鬼利」


 意識を失う寸前に吹き込まれた囁きの甘さに、鬼利は朧な意識の中で不愉快そうに舌打ちをした。










 催淫剤の効果は発熱と似ている。
 どこかぼんやりと霞む意識。正常に働かない理性。肌は熱を持って粟立ち、僅かな刺激を過敏に感じ取る。

「…出来ることならお前の指をへし折りたいよ」

 意識を取り戻してから数度の瞬きの間に、鬼利は現在の状況を全て理解して呟く。肌蹴られたシャツの下、病的に白い肌を撫でる傑の指先が胸板の上で愉しげに踊った。

「いいよ、お前になら。全部くれてやる」
「……」

 グレーの天井を見上げたまま、鬼利は胸元から囁かれた声に溜息を吐いた。
 両手はベッドヘッドに手枷で繋がれ、シーツの上に寝かされた体には未だに上手く力が入らない。スラックスは脱がされていないが、ベルトを抜かれた上にチャックまで下ろされては履いていないのと一緒だ。


「肌白いな。女並み」
「さっきまでここに寝てた彼女には負けるよ」
「ここじゃねぇよ、さっきはソファでヤった」

 お前の座ってた方の。そう付け足して喉元に上がってきた唇がくすくすと笑う。濡れた唇が啄ばむように首筋に触れ、不快そうに顔を反らしながら鬼利は小さく溜息を吐いた。

「そんな顔するなよ。さすがに傷つく」
「それは良かった」
「下、脱がせた方がイイ?」
「……」
「俺のスーツでいいなら貸すけど」

 顔を反らしたまま、鬼利はその問いに意識を取り戻して初めて傑を見た。これから男に襲われようとしているのにその瞳は相変わらず絶対零度まで凍て付き、背筋が寒くなる程の眼光に傑がぺろりと唇を舐める。

「どちらでも。どうせ捨てる」
「いいのかよ。ンなこと言ったら好き勝手しちゃうけど」
「不愉快な時間は出来るだけ短くしたいだけだよ」
「成る程」

 目を反らしながら退屈そうに言う鬼利に喉の奥で笑い、傑の手が慣れた手つきでスラックスを下げた。下着はそのままに両足から抜いたそれをベッドの下に落とすと、脚の間に割り込んで最低限の筋肉しか無い鬼利の膝裏に手を差し入れる。

 持ち上げられた右足に傑の指が這い、まだ自由が利かずに抵抗されないのを確認して綺麗な形をした足の甲に口づける。柔らかい舌がちゅるりと音を立てながら這い、甘噛みした小指に労わるように絡みついてから足首へ。くるぶしからゆっくりと、啄ばむようなキスが足の内側を辿っていく。


「…前にセックスしたのは?」
「2週間前」
「妬けるね」
「…、…」

 苦笑に近い笑みを乗せた舌が下着越しにモノに絡みついた。未だ萎えたままのそれを寄せられた鼻先が撫で、小さく息を詰めた鬼利を上目遣いに見上げながら濡れた布に熱を孕んだ吐息を吹きかける。

 指先で僅かにずらされた下着の合間から忍び込んだ舌がモノを引き出し、たっぷりと唾液を絡めながら唇に扱きあげられるのを他人事のように眺めながら、鬼利は手枷に繋がれた指先を動きを確かめるように握った。


「蹴り飛ばすなら今の内だぜ」
「……」
「俺とヤると、女も男もすぐに腰砕けになって喘ぎだす」

 鬼利を見ないままに指先と舌とで丹念な口淫を施しながら、傑は当然のことのように告げた。自慢も驕りも感じられない、事実を告げているだけの淡泊な響きで。
 四肢の感覚は戻りつつあった。今なら傑のこめかみに膝を叩きこむことも出来る。そして傑は上手い。犯されたくないのならここで昏倒させるべきだろう。

「…全く」

 少しの思考の後、鬼利は苦笑と共にそう呟いて左足から力を抜いた。考えるまでも無いことだ。
 抵抗したとしても喧嘩慣れした傑にそれが通用する可能性は?この男が快楽主義者だとさっき再確認したばかりだ。そんな男に更にガソリンを注いでどうなる。ただ犯されるだけならまだしも、更に薬を盛られてSM紛いの真似など始められては眼も当てられない。


「本当に、…嫌になるくらい小賢しい」
「気付くのなんてお前くらいだ」

 事もなげに笑って、傑は完全に勃ちあがった鬼利の先端をくりくりと指先で撫でた。素直に息を吐いた鬼利に気を良くしたのか、先走りの滲みだした先端をじゅるりと吸い上げてから食らいつき、そのまま喉の奥まで呑み込む。

「っ、…ん…」
「ふ、ぅ…っ…は…」

 見ているだけでえづきそうな場所まで迎え入れ深いストロークを繰り返しながら、窄められた柔らかい唇と指先が裏筋を扱く。熱い口内で軟体動物のように蠢く舌はあっという間に鬼利のポイントを見つけ出し、上下運動の合間に絶妙な力加減でそこを擽った。次第に苦しげになってくる吐息も表情も、恐らくは全て計算の上なのだろう。


「…ン、ん…っ」
「…っ、…」
「ッ…!…は…、」

 深く根元まで呑み込まれたままキツく吸い上げられ、与えられる快感に抗う事無く鬼利は傑の口内で達した。久しぶりの感覚に一瞬潜められた形のいい眉が、深い吐息と共に緩む。

「…良かった?」

 シーツに沈んで呼吸を整える鬼利の顔を真上から覗き込み、傑が愉しげに嗤いながら小首を傾げた。その顔を横目にしながら、鬼利は薬に浮かされている時と似た目をした傑に薄く笑う。

「悔しいくらいにね。…気持ちよかったよ」
「そりゃよかった」

 鬼利から視線は外さないままに傑の手がサイドスタンドの引き出しを探り、中から取り出したローションの蓋をパチンと弾いて開くと、萎えた鬼利のモノの上から半透明な中身をどろりと零した。

「次の遊びはもっと愉しいぜ」
「…お前にとってはそうだろうけどね」
「同僚のねーちゃんに聞いたけど、痛覚鈍いんだろ?」

 たっぷりとローションを絡めた手で下着を引きずり降ろし、鬼利の細い足を片方、肩に担ぎあげながら傑が嗤う。足の内側を辿った指先がローションを絡めながら撫でるのは、硬く閉ざされたままの後腔だ。

「普通の人よりは多少、鈍いのは確かだよ」
「なら絶対ハマる」
「……っ」
「“協力的”なカラダに、弱いけど薬も入ってる。ついでに相手は俺だ。…これで溺れなかったら褒めてやるよ」

 ローションの滑りを借りてつぷりと埋められた指が、異物を押し出そうと締めつける内壁をゆっくりと割り開いて奥へと入り込む。内臓を撫でられているような圧迫感と不快感に鬼利は眉根を寄せるが、その表情を覗いながらも傑は指の動きを止めなかった。

「深く吸って、…そう。痛かったら言えよ。ゆっくりやる」
「ッ、…は…」


 ぬちゅり、と水音を立てながら、傑は言葉の通りに緩やかな動きで指先を動かしていく。今まで経験したことのない感覚に全身が鳥肌を立て、薄い胸をゆっくりと上下させながら鬼利は手首を繋ぐ鎖を握り締めた。
 酷い圧迫感が、そこは元々受け入れる場所では無いのだと実感させる。薬を飲ませずに商品のモニターをさせた際、薬さえあればそこだけで達せるほど敏感な傑が感じるどころか嘔吐したのを見て多少驚いた記憶があるが、この不快感ならばそれも仕方のない事だ。


「っん…?」
「ココが前立腺。お前がいっつも遠慮なく突いて来るトコ」
「あぁ、…っお前が、泣き叫ぶポイントのこと?」

 かなりスムーズに動くようになった指先で撫でる程度に前立腺を突きながら、傑はいつも感じているそれとは種類の違う愉悦に眉を顰めながらも皮肉を絶やさない鬼利に小さく笑う。


「そーそー。誰かさんがトコロテン決めねぇと許してくんねーから」
「っぁ…は、…ふ…ぅ、く…ッ」
「感じる?」
「…ん、…っ…ぁ、…は」
「…お前くらい賢いと俺もやり易い」

 最初の指を導線にゆっくりと2本目の指を差し入れ、一瞬軽く締めつけられたがすぐに深い呼吸と共に緩んだナカをぐるりと撫でて、傑は鬼利の首筋に口付けた。鬼利の顔は背けるように横を向いたままだが、うっすらと開かれた橙色の瞳が少しずつ欲に濡れ始めているのを傑は見逃さない。

「…いつも、…っん、…」
「ん?」
「いつも、…はぁ…っ…こんな、面倒なこと、を…?」
「まさか。女相手なら前戯で十分濡れるし、野郎相手の時はローター突っ込んで開かせる」
「…ッ…そう、じゃない」


 中の指が3本に増やされ、詰めそうになった息を吐き出しながら鬼利は熱の移った鎖を握り直した。
 水音を立てながら中を広げる指にも不快感はほとんど感じない。独立した動きをする3本の指が前立腺を掠め、意図的に押し上げる度に背筋を紛れも無い快感が走り呼吸が乱れる。途切れる言葉が不愉快だったが、何か無駄口でも叩いていないと漏れそうになる喘ぎ声を傑に聞かせる方が余程不愉快だ。

「あぁ、俺?自分では瓶ごとローション突っ込んで入口解すくらいしかしてねぇよ。昔っからオナるのだけは苦手でさ」
「そ、う。…は、ぁ…ッん、ンん…っ」

 冗談めかして笑う傑に軽口を返そうにも、ピストン運動を真似た指に前立腺を正確に突きあげられ、その度に突き抜ける愉悦に頭が回らない。眼鏡を掛けていない所為だけではない視界の歪みに、鬼利は傑の肩に担がれた足を微かに震わせながら鎖を離した不自由な腕で自らの目元を覆った。

「鬼利。まだ苦しい?」
「ぅ、あ…っふ…あ、ぁ…ッ」
「…じゃァ、そろそろ俺もヨくして?」

 男を感じさせる低い声で気遣ったと思ったら、全てを自由に出来る立場にありながら甘えるような調子でねだる。もし傑の喉が潰れたとしてこの声が聞けなくなるのは少し残念だと、どうしようもない事を考える自分に軽く舌打ちをし、鬼利は返答の代わりに深く息を吐いた。
 カチャリ、とバックルを外す音と共に指が引き抜かれ、代わりに宛がわれた熱い欲にじんと腰が痺れる。だが、傑は押し当てたそれをぬるりと擦りつけながらも直ぐには入れず、囁くように鬼利の名を呼びながら目元を覆う鬼利の手を剥がした。


「…なに」

 手錠を掛けられた事を除けば初めての強引な行為に、鬼利は眩しそうに眼を細めながら目の前の傑を見上げる。あからさまに邪険なその仕草にも不快な顔1つせず、嫌味な程に綺麗な顔をしたホストは笑みを消して濡れた鬼利の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「顔見せて。ちゃんと感じてるって顔が見たい」
「…どうかしてるよ」

 仕事でもなく男である自分を抱こうとしているだけでなく、顔が見たいだなんて鬼利にはとてもじゃないがまともな思考だとは思えない。この男相手ならば尚更のことだ。自分の顔を鏡で見ていた方がまだ楽しめるだろうに。
 だが、そんな考えに反して傑は鬼利の目尻にキスを落としながら、どこか愉しげに笑って見せた。

「そりゃどうも」
「は、…んッ…?」

 押し入ろうとする熱に深く息を吸い込み、鬼利が体の力を抜こうとした瞬間。乾いた唇を濡れた傑のそれに覆われ、モノより早く入り込んだ柔らかい舌に鬼利は目を見開いた。
 キスなどするつもりは無かったが、直後に埋められた熱い欲の圧迫感とそれが与える愉悦に薄い鬼利の体は僅かだが反り、滅多に平静を乱さない脳からほんの一瞬だが確かに、理性が飛ぶ。


「ン、んんッ…ふ、ぅ…っ…!」
「……」
「んっ、んっ、…ッっ」
「っは…最高」


 担がれた足が強張り、意図せず傑の背中を引き寄せるような形になるが、そんなことを考慮する余裕は今の鬼利には無かった。貫かれる際の嬌声を呑み込んだ傑の唇が耳元で囁く言葉の意味さえ、体内を埋め尽くす火傷をしそうな熱さと全身をさざ波のように覆う愉悦がかき消していく。


「はっ…は、…っ」
「そう、上手。…そうやってちゃんと息してろよ」
「ぅあ、ぁ…っ!」

 ゆっくりと引き抜かれていく灼熱に目の前が明滅し、体内の熱を少しでも逃がそうとするように鬼利の呼吸が浅くなった。20年余りこの体で生きて来たが、己の喉がこんな声を出すのを聞くのは勿論初めてだ。

「あ、ぁッ…ふ、…ぅ、んン…ッっ」
「キツい?」
「あたり、前…ッあ…!」


 今更確認するまでも無く傑のモノがどれほど凶悪なのかは熟知している。他など鬼利は知らないが、あれが“初心者向け”でないのだけは間違いない。
 上がりそうになる嬌声を押し殺して荒い息を吐く鬼利に薄く笑いながら、気遣うような言葉とは裏腹に傑の律動は少しも緩まらなかった。それどころかより深くなったような気さえするそれに、前立腺刺激に慣れない体は完全な勃起こそしなかったが、先端から先走りを滲ませている。

「イイ声。…な、もっと聞かせて」
「ひ、…あ、あぁッ」

 甘えるような声と共に腹部を滑り落ちた手が半勃ちのモノに絡みつき、先走りの滑りを広げるようにしてぐちり、と指を押し付ける。快感に締めつけた内壁が熱いモノで割り開かれ擦りあげられると、意識さえ遠のきそうな愉悦に目の前が白く明滅した。


「はぁ、あっ…ぁ、…あッ…!」
「……」
「んんッ…!ぁっは…ん、っ」

 指先にカリを扱かれ内側から前立腺を突き上げられる快感に、面白いくらいに自分が溺れて行くのが鬼利にはよく解った。過ぎた愉悦に頭痛すら覚えたが、揺れる腰を止めようともしない脳は羞恥すら既に忘れたらしい。
 閉じる事が出来ない唇を気紛れに嬲る舌から、肌を辿る指から、貫く灼熱から、どうしようもなく甘い毒が際限なく注がれて細胞全てを犯されていく気さえする。


「気持ちイイ?鬼利」
「ぁ、あ、っ…ぅ、ンん…ッは、ぁあ…!」
「言って。…聞きたい」

 絡みつくように甘い声で囁きながら、傑の指がしっとりと湿った鬼利の髪をかき上げる。胡乱げに見上げた橙色に笑う藍は深く、獲物を弄ぶ獣の色をしていた。

「イイ、よ…ッ、ぁ…きもち、いい…!」
「……」

 揺れる視界の中で見上げた藍色が僅かに細まり、濡れた紅唇が妖艶な笑みを浮かべる。

「…出すぜ」
「ぁ、あっ…あぁ…ッ!」

 深く重い突き上げと共に裏筋を押しつぶされ、喉を反らせて達した鬼利の体内で最奥まで入り込んだ楔が熱い飛沫を吐き出した。
 白から黒へと染まる視界と体中を襲う倦怠感にゆっくりと体をシーツに沈めれば、失神したと思ったのだろう、美しい毒蛇が喉元で囁く声を、一瞬にして熱を排除した思考が捉える。


「…つまんねぇの」










 熱い湯で残滓を流した体を拭いながら脱衣所に出た鬼利は、濡れたバスローブを脱ぎ捨てていた筈の場所に、クリーニングのビニールが掛ったままのスーツが一揃い置かれているのを見て眼を細めた。

「……」

 ちらりと壁越しにスーツの持ち主へと視線をやってから、鬼利はタオルを脱衣籠に放り込みつつスーツを持ち上げてサイズとデザインを確認し、血の気を取り戻した唇の端を僅かに吊り上げる。


「…よく言うよ」

 どこか嘲弄するようなその言葉は、直後に響いたビニールを乱雑に引き剥がす音にかき消された。










 髪を乾かしスーツの上着を腕に掛けてリビングへと戻ると、さっきまで鬼利を組み敷いていた男が来訪時と同じ姿でソファに腰かけていた。

「持ってる中じゃ一番まともなの選んだつもりだけど、それでよかった?」
「若干大きいけどね。問題は無いよ」

 皺の寄らないように上着をソファに掛け、ローテーブルに立てかけるようにして床に置かれたままの鞄を持ち上げた鬼利に、傑は薄い笑みを浮かべながら振り返る。


「少しはゆっくりしてけよ。痛くは無くても落ちつかねぇだろ?」

 傑が言っているのが中の違和感だということはすぐに解った。確かに先程まで酷使されていた後腔には未だに何か入り込んでいるような違和感があったが、この程度に邪魔されるような集中力ならば開発局など任されていない。

「生憎、レイプ犯の巣で寛げるような神経はしてない」
「酷ぇな」
「何か表現に間違いでも?」

 苦笑しつつ立ち上がった傑を見ないままにスーツの上着に手を伸ばすが、鬼利がそれを掴むより一瞬早く伸ばされた腕が上から黒い布地を抑えつけてそれを妨げた。
 あからさまに鬱陶しそうな視線を向けると同時にネクタイが引かれ、強制的に引き寄せられて揺らぎもしない橙を、額が触れ合いそうな距離で傑が嗤う。


「あんなによがってたクセに」
「……」
「ちゃんと処理出来てるか見てやろうか?…鬼利」

 拳1つ分高い位置にある傑の美貌を見上げたまま鬼利は沈黙を守っていたが、己の名を呼ぶ掠れた声を聞いて静かに息を吐いた。
 鞄を滑り落とした指先が傑の襟元に伸ばされ、大きく胸元を開いたその襟口を指先で掴む。

「傑…」
「ん?…ッ!」

 掠れた呼び声と共に襟元を握る手が強くそれを引き、咄嗟に身を捌こうとした傑の動きを一瞬だが停滞させた。傑の表情が己の失態に気付いて苦々しく染まるのを眺めながら鬼利は固めた拳をその鳩尾に叩き込み、逃げ場を無くしてその打撃をもろに受けた長身を更に襟を引いて引きずり下ろす。

「ッ…か、は…!」
「……」

 跳ね上がった膝が正確に傑の鳩尾へとめり込み、前屈みになったその身体を鬼利は退屈そうに見下ろしながら肩口を蹴り飛ばして脇へと退かした。
 肺から強制的に空気を押し出され、せき込みながら腹へと手をやる傑を後目にソファに掛けられていたスーツの上着を羽織り、鞄を持ち上げる。

 急所に強烈な二撃を食らいながらも受け身を取った所はさすがと言うべきだろうか。鬼利を見上げる視線は鋭かったが相変わらずその唇には笑みが掃かれており、ローテーブルに寄りかかるようにして座り込んでいる傑の胸板を躊躇いなく足蹴にしながら、鬼利は空いた手で傑の前髪を掴み上げた。


「次のモニターの日取りは追って連絡する。一昨日…いや、もう3日前か。サボった分も働いて貰うから、よろしくね」
「…今言うセリフかよ、それ」

 吐き捨てるような傑の言葉をあっさりと聞き流し、掴んでいた前髪を乱雑な手つきで離すと、鬼利は一度強く傑の胸板を蹴りつけてからくるりと背を向けた。
 小さな咳払いと共にリビングから背中に向かって呼び掛ける声が響くが、鬼利は振り返るどころかまるで声など聞こえていないように、フロントドア兼エレベーターのボタンを押しこむ。
 金属の扉が滑らかに開き鉄の箱へと乗り込む鬼利の背に、最初から反応など期待していなかった傑はそのまま言葉を続けた。

「鬼利、訂正する。…やっぱ面白ぇよ、お前」


 言葉に対する返答は相変わらず、無い。
 …だが、その姿が完全に扉に呑み込まれるほんの一瞬の間。返答の代わりに立てられた中指に、傑は1人には余りに広いリビングで笑声を上げた。






 Fin.



しっかし可愛くないネコだ。
攻め同士の絡み第二弾。鬼利を泣かせ隊の隊員急増につき、初めての鬼利受けです。
初体験からアブノーマルは可哀そうなので、ノーマルな代わりにいつもよりねっとりとした性描写を心がけてみました。
もっと焦らしたり辱めたり開発した方が良かったかしら。でもそれは傑ってよりカルヴァの仕事のような気もしないでもない。

最後のDVは御愛嬌。

Anniversary