フルコース





「―――……結構。仰りたいことは良く解りました」

 膝に乗せたノートパソコンを閉じながら、鬼利はバックミラー越しに運転席のキュールに軽く頷いて見せた。
 7分に渡って滔々と垂れ流されていた”被害妄想”がようやく止まった端末を反対の手に持ち替えつつ、パソコンから小指ほどのサイズの記憶端子を抜き取って、それをシートの隠しポケットから出した掌大の機械に繋ぐ。

「元を辿るまでもなく身から出た錆です。……ええ、潔白などとは口が裂けても言えません。猊下の前では特に」

 ポータブル充電器のような外観の機械のボタンを押し、繋がれた端子の中身を高圧電流と強磁気で破壊しながら、鬼利は左手を掲げて腕時計を確認した。18時43分。

「はい、そうです。懺悔にはチップが要りませんから。……ああ、そう大声を出されなくても聞こえています。仰る通りだとして、何か問題がありますか?」

 滑らかに減速した車が、”街”の中心に聳えるILL本部塔をぐるりと楕円に囲む高さ3メートルの塀をくぐる。かつてゲリラ兵として廃車寸前のトラックで不発弾を運んでいたキュールの運転技術は素晴らしく、今日も後部座席に座った鬼利には殆ど振動が響かない。

「仮に、貴方の”被害妄想”が現実だったとしましょう。貴方の仮想敵の何方かが貴方と同じ手を思いつき、或いは自身に起こった不幸をそっくり返そうと思い立ち、金貨を握り締めた手で門を叩いて、私共がそれを開いた。……貴方が仰っているのはそういうことです」

 鬼利の体を極力揺らさぬよう、大きく膨らんで横付けされようとする車を見て、裏口から仁王とつなぎの作業着を着た一般職員が出てくる。巨漢の片手にはその肩を覆うにはとても足りない黒い傘。”街”に降っているのは霧のように細かい擬似雨だが、この気温だ。”空”では雪でも降っているのかもしれない。

「ですから申し上げたではありませんか、”身から出た錆”だと。……失礼します」

 裏口の正面ぴったりに停車されるのと同時に通信を切り、一拍置いて外側から開かれたドアから鬼利は車を降りた。ドアを開けた仁王が差し出してくれる傘を片手で制し、目元でありがとうと気遣いに礼を示しながら、車から1メートルと離れていない裏口を通って塔内に入る。


「こちらも上手く纏まったよ。朱雀で止めてくれて助かった、ありがとう」
「勿体なき。しかし、要らぬ手間を……申し訳御座いませぬ」
「この方が早い。結果的にはこれで良かった」

 スーツと同じく喪服のように黒いコートを左後ろに従う仁王に預けながら、鬼利は昇降機へ向かう足を止めずに右を振り返った。職員に車を任せて小走りに追いついてきたキュールが、持っていた鬼利の鞄から文庫本ほどのタブレットを取り出して手元に差し出す。

「ありがとう、キュール。……596、488、223はこれでいい。参謀から返答は?」
「半刻ほど前に大尉から一度」
「女性?」
「男です」

 キュールがボタンを押し、仁王が先に入って扉を押さえた幹部専用の昇降機に乗り込みながら、鬼利は依頼の通し番号とその”判例”となる過去の依頼番号のみが表示されたタブレットから顔を上げた。腕力を知力と引き換えた虚弱体質には解らない、何らかの確認をした部下2人がアイコンタクトをして扉を閉じる。秒速10メートルの上昇によるGを感じながら、金食器より重い物を持たない細い指がタブレットの側面をとん、と叩いた。


 ……男性の大尉を名乗る中尉。一昨日の空爆範囲は予定から5キロ外れた。側室の懐妊が報じられたのが5時間前。動きが鈍すぎる。それにしては摂政の影が薄い。”脳”が変わった。


「……待ちでいい。”滑走路”の承認待ちをする序でに焦らすつもりだ。3時間以上引き伸ばすようなら一度切って、再交渉は2回目から」
「はっ」
「”宝石屋”は安い。先月のトルマリンが”湖畔卿”に回せるなら1177と抱き合わせられるから、その方向で交渉を。ミールティの方は降りる。そろそろ貸しを作らないと青い方の”デザイナー”が臍を曲げそうだ」
「御意」
「他には?」
「御座いませぬ。”8”以上の案件が無い限り、定期報告は常の通りに」
「任せたよ、仁王。……キュール」


 パネルに49の数字が点滅し、扉が開く。承知、と頭を下げた仁王にタブレットを渡しつつキュールから鞄を受け取り、大柄な同僚の道を開けるべく先に昇降機を降りようとする気遣い上手な運転手を、鬼利はスーツの内ポケットを探りつつ呼び止めた。

 はい、と半身を開くようにして振り返ったその手に、取り出したタグ付きの鍵を差し出す。とにかく万事小器用に卒なく熟すキュールは、記憶端子1つ分でも重さが違えば持った瞬間に気づいて預けた鞄をひっくり返すか、窓の外に投げ捨てて自爆スイッチを押してしまうのだ。スーツの外観に響かせない為にリボンの1つも無いのは申し訳ないが、己が有能さの証左として許して貰うしかない。


「明後日まで、好きに使っていいよ」
「……えっ?」


 鬼利の護衛兼運転手として同行することが多い為に、鍵と認識した瞬間に躊躇なくそれを握ったキュールが、かちゃりと鳴った樹脂製のタグを二度見した。ドックタグを細くしたようなタグの色は、専用車の黒ではなく一般車の白。小さく彫り込まれた対応の車両ナンバーは下四桁だけだが、見開かれた鳶色の瞳は想定通り、その番号を覚えていたようだ。

「カードは刺したままにしてあるから、”陽光”のイルミネーションを見に行くといい」
「えっ、ぁ……ありがとうございます!」
「十六気筒に浮気して、茜さんを寂しがらせないようにね」

 分厚い掌に促されて慌てて昇降機を降りながら直角に頭を下げたキュールににこりと笑い、外側のボタンを押す仁王に目配せする。東国出身の戦闘民族は大陸側のイベント事には馴染みがない。例年通り、彼には靴下には入れられない長めの新年休みと、絶滅危惧種の野草がプレゼントの代わりだ。


「お疲れ様」


 午後7時に遅れること20秒、鬼利だけを乗せた昇降機の扉が音もなく閉まった。










 執務室がある49階から、更に上ること数十秒。登録者の居住区から5階上がった87階で停まった昇降機から降り、緩く弧を描く扇状のホールを進んで、壁面に等間隔で並んだ鍵穴の無い扉のうち一番左端のノブを掴む。

 触れるのと同時に、現代には遺っていない技術で指紋や静脈や拍動を読み取って解錠した扉を引き開けた鬼利は、ホールと違って明るく電気の灯った室内に僅かに目を細めて俯き―――どさ、とリビングの方から聞こえた物音に、ぱっと顔を上げた。

 鬼利にとっては聞き慣れた、受け身も禄に取れずに人間が床に転がる音だ。普段なら昇降機を降りた頃には玄関に駆けつけ、忠犬よろしく鬼利を出迎える幽利が出て来ない。


「鬼利っ、おかえンなさい!」
「……」

 何かあったのかと紐も緩めず、些か乱暴に靴を脱ごうとしたそのタイミングで、相変わらず姿を見せない幽利がリビングから声を上げた。焦りながらも元気そうなその声を聞いただけであらかたの状況に予想がつき、鬼利はやれやれと息を吐きながら紐を緩めて靴を脱ぐ。
 履き潰されたスニーカーの隣に黒光りする革靴を揃えて置き、リビングに向かうと、予想通りの姿をした幽利がフローリングの上から鬼利を見上げた。

「か、絡まっちまッて……」

 待ちきれなかったことと、鬼利以外に誰も来ないとはいえこんな格好で玄関先に出ようとしたことと、慌てて立とうとして思いっきり転んだことに耳を赤くしながらの弁解に、「そんなことだろうと思った」と鷹揚に頷く。すっかり脳内を見透かされてますます幽利は恥ずかしそうに顔を赤くしていたが、顔を上げた鬼利はさっさとその横を通り過ぎて書斎に向かった。

 小洒落た小物の1つもなく、四方を天井まで本に埋め尽くされた中にぽつんと置かれた黒壇のデスクに鞄を置き、外した腕時計を薄い引き出しに並べられた14本の中に戻して、鞄から出したノートパソコンを持ってリビングに戻る。まだ床の上でじたばたしている幽利の背中を一瞥しながらローテーブルにパソコンと端末を置き、片手でネクタイを緩めながら中で寝室と繋がっているクローゼットの扉を開けた。


 ちょっとしたワンルームほどの広さがあるクローゼットの壁面の半分には、”ILL最高幹部”の象徴である喪服のような黒や、渉外や会食用のグレーやネイビーのスーツが上下揃えてハンガーに掛けられて整然と並んでいる。左手の壁面の半分には小物類を収納する為の棚が作り付けられ、使いみちが無いので隅に追いやられた鞄用の棚には、丁寧に畳まれた幽利の作業着が申し訳無さそうに押し込められていた。

「……」

 来年の頭にでも、いい生地をみつけて作り直そう。素材だけでなく、いっそ夏と冬でデザインから変えてもいいかもしれない。少し解れた作業着の袖を見ながらそう考えつつ、鬼利は脱いだジャケットとベストを中央のスツールに置いた。
 スラックスは折り目に合わせて軽く畳んでこれもスツールに置き、隣のテーブルに置かれていた暗いグレーのシャツとチノパン、内側にボアのついた靴下に着替えて、ネクタイやピンやカフスボタンはテーブルに、脱いだシャツと靴下はこれも軽く畳んでスーツの横に置く。

 料理以外の一切の家事は幽利の担当だ。赴く場所や会う人間に合わせてスーツや小物を選ぶのは鬼利だが、脱いだ後は幽利が洗濯や手入れをして適切な位置に戻す。従順でありながら過激な下僕は、主人が家内の雑務に手を出すと「鬼利はそんなことしなくていい」と拗ねるので、今日も鬼利は脱いだ衣服をそのままにクローゼットを出た。


「サイズはどう?」


 二度通り過ぎたソファにようやく腰掛けながら尋ねた鬼利の横、三人掛けのソファの隣ではなくその足元に寄り添った幽利が、ラグの上に伸ばした自分の足を見ながらうーんと首を捻る。

「ちょっと緩ィ、かも……」

 やや言い難そうに、上目遣いでこちらの表情を伺う幽利に、鬼利は包み込むような心地のソファに背を預けたまま無言で手を伸ばした。半歩寄って差し出された手首を掴み、照明を鈍く反射する黒革に包まれた指先から二の腕までに視線を滑らせる。


 冬らしい装いの鬼利に対して、今の幽利はほぼ半裸だ。手足はそれぞれ根本近くから指先までが覆われているが、鉄の塊である銃火器を扱う為に相応の筋肉がついた上半身を隠すものは何も無い。

 五指は纏めて袋状に包まれ、肘に丸いクッションが当てられ、手首と肘の下、袖口の内側にベルトが、肘の上と二の腕の半ばにベルトを通す金具が垂れている。両足も同じように、長さと形状だけはニーハイソックスのように柔らかく鞣された革が覆い、膝にこれも丸く薄いクッションが、ベルトと金具が各関節の上についている。唯一服らしい形状をしているのは一部丈ほどの、殆ど下着に等しい革のショートパンツだけだ。こちらにはベルトも金具も無い代わりに銀色のファスナーが体の中心に沿ってぐるりと臍下から尾てい骨まで走り、両開きの2つのスライダーがついている。

 その、部屋着にはあらゆる意味で不適切などこからどう見てもSM仕様の拘束具一揃いを、寸法から素材まで指定してSMグッズ専門店に特注した鬼利は発注時と同じく涼しい顔で一通り検分して、双子の弟が”緩い”と表現した二の腕の袖口に人差し指を引っ掛けた。
 長いベルトに引かれて弛んだそこに指一本が苦もなく入るのを確認して、手を離す。


「これでいい」
「……あァ、そっか」

 拡張性に富んだ作りの手足部分は伸ばしたままの拘束も可能だが、肘と膝のクッションが示す通り、この拘束具は両手足を畳んだまま伸ばせないようにする為に作られたものだ。このくらいの緩みが無ければ血が止まる。
 思考を”見た”幽利が納得して半歩下がるのを横目に、鬼利はローテーブルの端末に手を伸ばした。置いたままロックを解除して緊急の連絡が無いことを確認し、ノートパソコンを持ち上げて膝の上で開く。


「なンか飲む?」
「いらない」

 腰を浮かしかける割には指がほぼ動かせない”手袋”を脱ごうとしない幽利に短く答え、鬼利は車内で読めなかったメールに目を通していく。判で押したようなクリスマスの挨拶が上得意から15件、各部署からの報告が24件、最高幹部の承認を要する申請の通知が11件。
 指先に注がれる視線を感じながらそれ等を確認し、必要なものには返信をして幾つかをフォルダに振り分け、次にネットブラウザを立ち上げる。主要8国のニューストピックスと株為替相場にざっと目を通し、「うわぁ」という顔をした幽利が天井を向くのを視野の端に捉えながら必要な情報を選り分け、記憶し、結びつけ、今この場で必要なだけの思考をして、パソコンを閉じた。

「……鬼利、」

 多種多様な依頼に対応する為に多岐に渡る最高幹部としての思考が一段落したのを見て、濁流のような情報量から意図的に反らされていた幽利の目が鬼利を見上げる。パソコンをテーブルに戻しながら視線だけを向けると、熾火が燻る橙色は足元まで垂れた袖口のベルトをちらりと見て、再度燃えない橙色を見上げた。

 出迎えに跳ね起きようとした幽利の手足を絡め取った長い4本のベルトは、他と違ってそれぞれの先端に金具を持っている。四肢を包む拘束具から1本ずつ伸びて背中でX字に接続されるそのベルトだけは、腕の関節を外さない限り幽利自身の手では緩みなく締められないし、締めるべきでは無い。


「ちょッとだけ……」

 余程待ち切れないらしく、そっと手元に差し出された右腕のベルトに、この世で唯一それを締める権利を持った鬼利はゆるりと目を細めた。
 プレゼントをこんなにも気に入ってくれるのは嬉しいが、優秀な部下達が捻出してくれたクリスマス休暇はまだ始まったばかりだ。

「”犬”に玉ねぎはあげられないよ」
「あ、」
「服を着ていない人間には……譲歩して、ライスまでだね」
「ッ……着ます!」

 きちんと畳んで置かれていた部屋着に飛び付く幽利の勢いにくすくすと笑いながら、鬼利はソファから立ち上がった。










 仁王に贈呈された極東の食への探究心の結晶である炊飯器で炊いたライスはバターでさっと炒め、彩りとして細かく刻んだパセリを混ぜ込んで、まっとうな服に着替えた幽利にフライパンごと渡す。

 頭に想像する完成図通り皿にバターライスを盛り付ける幽利を横目に、ボールに卵を5つ割り入れて溶き、熱してあったもう1つのフライパンにも薄くバターを引いて、鬼利はちらりとカウンター奥のダイニングテーブルを見た。木のボウルに盛ったベビーリーフとトマトのサラダと、スープ皿ではなくカップに注がれたコンソメスープ、カトラリーは既に幽利の手で並べられている。

「座って」

 後はメインだけだ。ココット鍋を陶器の鍋敷きと一緒に持たせた幽利を先に席につかせ、熱したフライパンに溶き卵を半分よりやや少なめに流し入れる。揺すりながらヘラで掻き混ぜ、外側だけを適度に固めた所で火から離しながら手早く整形し、焦げ1つない黄金色のオムレツをライスの上に。
 残りの卵を全て使って同じように作った柔らかい半月を、そわそわと椅子で待っている双子の弟の分のライスの上にも乗せて、プリンのように揺れるそれが滑り落ちないように純白のクロスを敷いたテーブルに配膳する。きらきらと見上げてくる幽利の視線が痛いくらいだ。

 お預けをしてやりたいが、予熱が過ぎては台無しになってしまう。きちんと背中を椅子につけている幽利にくすりと微笑み、鬼利はカトラリーボックスから出したナイフをオムレツの端に入れた。

 辛うじて形を保っていた薄皮一枚がよく磨かれた銀色によって裂かれ、すぅっと刃が滑るのに合わせて、空白の方が多かった皿の上に予熱で程よく火の通った半熟の卵が花開く。

「わ、……!」

 小さな感嘆の声と共に、行儀よく座っていた幽利は僅かに椅子から背を浮かせた。クロスが影になっていて見えないが、その下で膝に揃えて置かれた両手までもが、きゅっと握り締められているのが鬼利には解る。

 必要だった何もかもを削り落としてただ一人想う片割れのことだ。画面や紙面越しではない、温度と香りをもった黄金色を見つめる表情からその感動が如何ばかりかを知るのに、千里眼など必要ない。


「き、鬼利……っ」
「まだだよ」


 催促などでは勿論無く、これで十分だと震える声を上げる幽利に人差し指を立てて見せて、重い鋳物の蓋を上げる。蓋との隙間に差し込まれていた横口レードルでたっぷり掬いあげたそれを、ココット鍋で崩れるほどトロトロに煮込まれたビーフシチューを、鬼利はそっとデミグラスソースの代わりに半熟オムライスの上にかけた。

「っ……!」

 旨味を吸った人参とペコロスは見目よく配置し、メインであるスネ肉は見た目を気にせず、形のいいものと煮崩れたものをごろごろと多めに盛り付ける。幽利の半分の量で自らの皿にもシチューを注ぎ、最後に小さなミルクピッチャーから生クリームを回しかければ、双子の弟が「美味しそう」と羨んでいたビーフシチューオムライスの完成だ。

 鬼利の目から見ればメイン2つをワンプレートに詰め込んだ非常に大雑把な料理に見えるが、コントラストが美しいし、不味い筈がないだろうな、とも思う。情緒やストーリーも重要な味付けの1つだが、見た目のインパクトでそれ等を蹴散らしてしまえるのが、お行儀の良いコース料理には真似できない長所だ。

 よく躾けられた下僕は主より先に食べようとはしないので、脱いだエプロンは取り敢えずカウンターに置き、席に着いて早々に右手を胸に当てて目を伏せる。

「いただきます」
「いただきますっ」

 祈る神は居ないので祖国での最敬礼を以て糧とする命に頭を下げ、早速スプーンを握っている幽利に目元を緩めながら、鬼利はレモンドレッシングで和えたサラダにフォークを伸ばした。瑞々しい食物繊維を唇を汚さず食べるのに一拍遅れて、対面の片割れがシチューとオムライスを大きく掬ったスプーンを口に含む。

「んっ……!」
「……」

 口にものが入っている時は喋らない、という基本的な行儀を知っている幽利の喉から、思わずといった調子で声が漏れた。咀嚼すら一瞬止めて見つめてくる双眸が、美味しい、凄い、すごく美味しい、と視線だけで煩いほど感動を鬼利に伝える。

「……ゆっくりね」

 口の中のものが無くならない内からスネ肉にスプーンを伸ばし、ほろりと崩れる柔らかさにまた称賛と感動と歓喜を視線で訴える幽利に一応釘を刺して、鬼利はくし切りにされたトマトを口に運んだ。早く脂質とタンパク質と炭水化物の冒涜的な組み合わせを分かち合いたい弟の気持ちは痛いほど伝わっているが、いきなり重いものを食べてしまうと後が続かない。


「なんか、全部……全部とろッとろで………美味しい」
「……」
「……美味しい」
「わかったよ」

 味見をしているのを知っているだろうに、なんとか感動を伝えようと一口ごとに神妙な顔で訴える幽利に苦笑しながら淡々とサラダを消費し、消化器系と食欲は健全な弟に遅れることオムライス換算で3分の1、ようやく鬼利もメインに口をつける。
 赤ワインを一本使い、2日掛けて煮込んだビーフシチューは素人にしてはまあまあの出来だ。炊飯器が良いのでライスも美味しい。卵の半熟具合も、見様見真似にしては上手くいった方だろう。

 やはり鬼利の口には少し重いが、体を動かす幽利にはこのくらいの方が食べごたえがある。イベントディナーとしては簡単ではあるが、他でもない幽利がこんなにも喜んでいるのなら総評としては及第点だ。

「……そうだね」
「美味しい?」

 伺うように首を傾げた橙色の双眸は、熾火の色に燃えている。幽利の口に合わせた食事の好悪を心配しているような素振りだが、及第点をつけた思考は勿論筒抜けだ。
 仕事上、双子の兄が自作の料理を自賛出来るような舌では無いことも、生い立ちと体質上、摂食を手放しに楽しめる性質では無いのも知っていて、それでも言葉を欲しがっている。

「まぁ……悪くは無いかな」
「いンや、そんなオッサンより鬼利の方が美味しい。絶対ェ美味しい」

 最大限譲歩した発言の裏で思い浮かべた、鬼利が知る限り一番幽利の好みに合う本物を作れる一流シェフを食い気味に全否定して、幽利はスプーンを握ったまま身を乗り出した。

「肉と一緒に食ってみて。その半分溶けたトコと一緒に」
「……」
「そォじゃなくって、オムライスとシチューとまとめて、ガバっと」
「こんなに一度に入らないよ」
「半分だけ」
「……」

 強引な勧め方とは裏腹に眉を下げながらお願い、と視線で懇願されて、鬼利はやれやれと息をつく。双子の兄の食の細さも、既に血肉になったマナーも知っている幽利がここまで食い下がるのだ。オムライスとビーフシチューのハーモニーがどうとか、一口のカロリーの総量がどうとか言う話では無い。
 一回だけだよ、とこちらも視線で告げてから、鬼利は幽利が言う通りに一杯にオムライスとビーフシチューと溶け崩れたスネ肉を盛ったスプーンを、半分に減らさずに大きく開けた口に頬張った。

「……」
「……」
「……美味しい?」

 鬼利より多い量を咀嚼していた口を一足先に空にした幽利が、おずおずと首を傾げる。

 千里眼を持たない鬼利に、その感覚は解らない。他人の心が読める感覚も、そうであるからこそ言葉を欲する感覚も。幽利が致死量を超えた毒の味やその作用を知らないように、きっと真に理解出来ることは無いだろう。
 けれど、幽利が望んでいることは解る。

「美味しいね」
「うン」

 ナプキンで口元を拭いながら声に出した本心に、幽利は嬉しそうに大きく頷く。


「しあわせの味がする」


 大袈裟な、と苦笑する鬼利に、幽利はもう一口オムライスを頬張って、ふにゃりと笑った。










 15分早い定期連絡から「早急にクリスマス休暇を開始しろ」という無言の圧力を感じたので、優秀な部下に感謝しつつ鬼利はパソコンを閉じた。
 膝に乗せていたそれをテーブルに置くついでに端末を持ち上げ、シャワーを浴びる前から少なくとも2時間は放置していたにも関わらず、相変わらず1つの通知も無い画面を一瞥する。クリスマスだろうが正月だろうが世界から戦争が絶える事はなく、争いがある限りILLが機能を停止することは無いので、ゴシックの仕業だ。恐らく泪からの命令で、情報を鬼利まで上げずに止めている。

「……」

 鬼利に対しては素直な少年を脅してパイプを開けさせるのは簡単だが、15分なら許容範囲だ。仕事の大半を取り上げられた端末をひと撫でしてパソコンの上に置き、鬼利は約1時間15分ぶりにソファから立ち上がった。

 水滴の1つも残さず片付けられたキッチンに寄り、”夜更し”に備えて水を飲むついでに冷蔵庫の中の経口補水液のボトル数を確認してから、寝室の扉を開ける。


「んっ……!」
「お待たせ、幽利」


 枕から跳ねるように頭を持ち上げたお揃いの橙色に微笑んで、鬼利は後手に扉を閉めた。袖口のボタンを外しながらベッドに乗り、名前を呼ぶことも早く構ってと駆け寄る事もなく、熾火の色に燃える視線で鬼利を追っていた幽利の傍らに座る。

「いい子にしてたみたいだね」
「っ……!」

 口枷もテープも無い口を閉じたまま、必死で頷く幽利に柔らかく目を細めて、鬼利はしっとり汗ばんだその額を撫でた。
 特注の”プレゼント”によって手足を曲げたまま、指先まで黒革に包まれて仰向けに転がっていても腰くらいは振れる筈だが、シーツは殆ど乱れていない。命じた通りに嬌声を堪え、蓄積していく快感に身を捩りたいのを我慢し、放置される切なさを受け入れてお利口に待っていた証拠だ。

「少しは馴染んだ?」
「ふ……ぅ……!」
「そう」

 鬼利の手を振り払わないよう頭を固定したまま、撫でられただけで僅かに背を反らせて小さく達した幽利の頬をするりと撫でて、鬼利は腰を浮かせた。肩のすぐ横でぎゅっと握られていた幽利の手を袋状に指を包む黒革の上から握って、血流が滞って体温が下がっていないか、おかしな強張りが無いかを確認する。
 両手を確認して荒い息に上下する胸板を撫で下ろし、内側から押し上げられて僅かに隙間の空いたショートパンツには触らず、膝を曲げて大きく広げられた右足の内腿を撫でる。元から力が入っていたそこは鬼利が触れると更に強張ったが、これは拘束の所為では無く、待たせている間寂しくないようにと与えたエネマグラの所為だ。

「……良さそうだね」
「……ぁ、は……ッ」
「上手に作って貰って良かったね、幽利」
「っ―――!!」

 全身の確認を終えた所で、あやすような声を掛けながらショートパンツ越しにエネマグラを軽く揺らすと、がちんと歯を食いしばった幽利の背が弓なりに仰け反る。
 無理もない。奥まで咥え込ませた上からきちんとチャックを閉めておいたので、押さえつけられていたエネマグラは禄に動いていなかった。腰を揺らしてシーツを乱す事もなく、ただ前立腺を抉られ続けるのに耐えていた幽利にとっては、待ちに待った刺激だろう。

「っぅ、……ッっ!」
「……」

 両手足を無様に広げて転がったまま、嬌声を必死に噛み殺して絶頂の快感に震えるその姿は、とても尊厳のある人間とは思えない。


 よく躾けられた、鬼利好みの可愛い”犬”の姿だ。


「……あぁ、でも」
「…ぁっ……―――ッ!」
「お漏らしはしたみたいだね」
「……ん゛っ………んぅッ……!」
「酷い音がする」
「ふぅう゛……っ!!」

 反った背がシーツに戻る前に、吸水性の無い革の中に溜まったローションと体液をエネマグラで掻き回す。背中側に押さえつけて前立腺を滑らかな先端で突き上げ、握りしめられた革がぎちりと鳴る音を聞きながら今度は会陰を押し潰すと、丸められていた足先が爪先立ちをするようにぴんと伸びた。
 その瞳から一瞬熾火が消える程の深い絶頂を迎えた合図だが、食い縛った口から漏れた嬌声は粘着質な水音とそう変わらない程に小さい。

「……栓もしてないし、仕方がないか」
「っふ……ふぅっ……」

 鬼利自身のように、一定の生理現象まで抑制するような躾は幽利にはしていないし、するつもりも無かった。声を我慢出来たことに免じて手を離し、元通りに幽利の傍らに、ふぅふぅと荒い息を吐いている顔の横に座り直して、鬼利はやっと熾火が戻ってきた瞳と視線を合わせる。

「幽利、”伏せ”」
「ん……っ」

 わんと鳴く代わりに嬉しそうに何度も頷き、イかされている間も無抵抗に開かれ続けていた手足を閉じた幽利が、慣れない拘束にもたつきながらも四つん這いになる。腕が普段の半分の長さになっている所為でより肘に負担のかかる重心になっているが、クッションで保護している上にベッドの上だ。
 そこで上半身を支えることには慣れていないとしても4、5時間は問題ないだろうと判断して、鬼利は姿勢良く座っていた足を、間に幽利の頭が入れる程度に崩す。


「いいよ」
「……!」

 髪を掻き上げるように撫でながら許可を出すと、声以外の全てで歓喜を示した幽利は、頭突きするような勢いの良さで頭を鬼利の足の間に埋めた。必死に閉じていた口をあっさり開いてパンツの上から形をなぞるように唇で撫で上げ、頬ずりし、スムーズに頭を下げられない所為でぎこちない動きでチャックを下ろす。
 下着の中から舌で引き出したモノに夢中でしゃぶりつく様がご馳走を前にした犬そのもので、ああ、可愛いな、と思う。オムライスを頬張って無邪気に綻んでいた唇が、しあわせだと屈託もなく笑った瞳が、一皮剥けばこの有様だ。


 本当に酷い成りにしてしまったと思うが、後悔は無い。清く正しい双子の兄としての在り方を変えられたのは鬼利も同じだ。
 ふたり一緒に、こんな様になった。


「いい子だね」

 美味しいね、と返した時と同じ顔の中で瞳の奥だけをどうしようもなく変質させて、鬼利は期待を込めて見上げてくる幽利の頭を、手櫛で梳いた髪を絡めて鷲掴んだ。

 そのまま強く押さえつけ、上顎を擦りながら喉奥まで突き上げる。

「ン゛ぅう……っ!」

 気道を塞がれて苦しげな声が漏れるが、髪を掴んだままの鬼利の手には僅かの抵抗も無く、ごく、と幽利の喉が鳴った。酸欠に喘ぐ自分の体を無視して喉奥で鬼利のモノを締め付け、どっと溢れた唾液を絡めた舌が裏筋をなぞる。
 最近は根本まで挿れても嘔吐くことは殆ど無いので、突くよりも塞ぐことを意識したやり方だ。満足に吸うことも吐くことも出来ない舌が酸欠で動かなくなったら少し頭を引き上げて、呼吸の合間に喉奥の性感帯をカリで数回擦ってから、また根本まで飲み込ませる。

「ぐ、ぅ……んン゛……!」

 始めの数回は、5秒に満たないインターバルでも十分回復して舌が動く。ここまでは前戯だ。

「ぇあ゛っ……は、……んぶっぅう……っ」

 置いているだけだった掌に抵抗が伝わるようになり、それを押さえつけるのに両手を使わなければならなくなってからが、嗜虐趣味と被虐趣味のふたりにとっての本番。

「ぁ゛、がっ……おぇ゛、う゛っ……ぅう゛、ううッ!」

 普段、幽利が鬼利に抵抗することは殆ど無い。ただ普通に首を締めたって白目を剥いても爪すら立てて来ないが、こうして咥えさせている時は別だ。徐々に血中の酸素濃度を減らして、髪の毛一本にも不快感を覚える敏感な口内を擦ってやれば、削り取られた理性の裏から生き物としての生存本能が顔を出す。

「ん゛ぅううっ……んぇ゛っ、ぉぐ、ぅっ……!」
「苦しそうだね」

 酸欠の苦しさは鬼利もよく知っている。鬼利自身がかつて”教育”に使われたそれと比べれば随分温いが、可愛い双子の弟が記憶のそれに近い苦しみに喘ぎながら、生き物としての本能に反した被虐の悦びに身悶えている姿は、何度繰り返しても新鮮に愛おしい。


「締めて」
「う゛ぇ、えっ……ごぉっお゛、ぅう゛っ!」

 お互いに限界を感じたので一度息を吸わせてから、ごり、と抉じ開ける感触と共に閉めさせた喉を突き上げると、暖かく湿った喉が不随意な動きで痙攣する。
 一番苦しいやり方をされた途端にイくとは、つくづく酷い体だ。鮮烈な愛しさのままにふ、と笑って、鬼利は震える喉奥に射精した。


「は……」
「ぉ゛あぁ……っ」

 駆け上がった快感に素直に息を吐いて、ぼたぼたと注いだものを零す口内から引き抜く。唾液より粘度の高い精液が上手く飲み込めなかったらしく、ゲホ、と咳き込んだ拍子に白濁が鬼利の太腿に飛んだ。
 生ぬるい感触に目を細めた鬼利の顔を俯いたまま”見た”幽利の背が跳ね、黒革の内側で指先が震えるが、ベルトで固定された両手は禄に動かない。

「が、ひゅっ……んぶ、ぅっ……!」
「いい」

 口内に残ったものを慌てて飲み下し、酸欠で不安定に揺れる頭を寄せようとするのを一言で止めて、鬼利は押しやるようにして幽利の頭を足の間から退かした。踏ん張りが聞かずにあっさり横倒れになった幽利の視線を無視して残滓を適当に拭い、服を整えてベッドから降りる。

「き、……っ」

 鬼利、と呼びかけようとして口を噤んだ幽利は泣きそうな顔をしていた。千里眼の中でも思考を読むのはかなり繊細らしく、更に鬼利の思考は常人と違って多少複雑なので、少し揺らしてやるだけでピントが絞れなくなる。普段使う”領域”では無い所を咄嗟に”見て”、機嫌を損ねて置いていかれるとでも思ったのだろう。
 言葉で許しを請うことも出来ずに視線で縋らせるのもいいが、今日はこれ以上放置する気分では無かったので、鬼利は振り返る代わりにヘッドボードの側にある小さなスイッチを押した。

「っ……ぁ、……」

 やっと意図を察して顔色を戻した幽利が、もぞもぞとシーツの上を這って天井から降りてくるフックの真下に移動するのを後目に、クローゼット横の収納を開ける。互いの嗜好上どうしても大掛かりな道具が多くなるので、ベッドに合わせたデザインのサイドボードではとても収まりきらないのだ。

 壁にかけられた皮膚を破らない種類の鞭は視線で撫でるに留めて、作り付けの棚に収められていたハンドタオルを3枚ほど左腕にかける。引き出しから出した細々としたものはステンレスのバットに入れ、念の為に消毒液を含ませた医療用ガーゼのパックも出して、ベッドに戻った。


「何をされるのか、解るね」
「っ……」

 期待を隠さず何度も頷いて見せる幽利に微笑んで、鬼利は丸めた厚手のハンカチをいつもより頭一つ分低い位置にある口元に近づける。

「いい子でいられる?」
「……!」
「だといいけどね」

 奥歯を噛み砕かない為の布をしっかりと咥えて、離さない、ともう一度頷く幽利の頭を撫で、鬼利は熾火を持たない橙色の瞳を細めた。


 思考を読む方は簡単に焦点を失うが、全方位最大距離5000キロの”視界”の方はよほど追い詰めなければ機能を続ける。そして、その能力と性癖上幽利は見られる事に敏感だ。

 前は30分と保たなかった。

 今日はどのくらい藻掻いて、何を切っ掛けにして心が折れるのか。その時の有様を心底愉しみにしながら、鬼利はシャツの袖を捲くった。










 こういう”遊び”の定番であるクスコは、あまり好きでは無い。

 特注するまでもなく、既に十分に考えつくされたこういう器具が出回っている所を見るに、きっとこう考える者は少なく無いのだろう。秘された所を奥まで暴き、嘴のような金属に邪魔されることなく、曝け出された全てを余す所無く責め抜いてやりたいと考える愛情深いサディストが。

 ―――そう考えると、”外界”から学べる所もまだあるのかもしれない。丁度カルヴァからもお誘いを受けていることだし、今度幽利を伴ってそちらの社交場にも顔を出してみようか。


 その能力と性格上、学ぶことについては徹底して真摯で誠実な鬼利は、そんなことを考えながら右手に持っていたマドラーのような金属の棒の先端を空気に晒された幽利の前立腺に押し当て、持ち手についたスイッチを押した。

「ん゛―――ッ!」

 ジジジ、とローションを飛び散らせる程の振動をピンポイントで浴びせられた幽利の背がぐっと反り、爪先まで強張った体からかくんと力が抜ける。強すぎる快感に失神したのだ。
 声を我慢させている所為で限界が早い。休憩にはまだ早すぎるので、鬼利はスイッチを切った極細のバイブをバットに戻し、代わりに先端の3センチほどが緩く曲がったチタンの棒を持ち上げた。

 背中にX字に接続されたベルトをフックに吊られている所為で、意識を失っても腰を下げる事も出来ず、薄い金属の板と針金で出来た筒のような拡張器の所為で何を隠すことも出来ない幽利の内側、辛うじて拡張を逃れているS字結腸の入り口に、丸い凹凸が連なった冷たい金属を埋める。

「ッっ……あ゛あああっ!?」
「……静かに」

 男の子宮とまで言われる性感帯を、他の所には決して触れずにそこだけを細い金属棒で犯しながら、鬼利は重い絶頂に叩き起こされた幽利の絶叫に眉を顰めた。罰として跳ねる腰を片手で押さえて小刻みに曲がり角を嬲ってやると、強制的に四つん這いの姿勢を取らされ続けている幽利ががつがつとマットレスに額を打ち付ける。

「ぁぎっ、ぃ、いぅ゛うッ……ぅううう゛うう゛っッ」

 なんとか口は閉じられたようだが、静かとは言い難い。口で言っても解らないのなら体で解らせるしか無いので、鬼利は溜息を吐いて棒を抜き、代わりに残像が見えるほど強力に振動するパチンコ玉ほどのバイブでそこを抜いた。

「うぅあ゛ぁあああッ!あ゛ぁあっ、あ゛ぁぁ―――っ!!」
「静かに、と言ったんだよ」
「ごっ、なざッぁあ゛あっ、ごめ、んなざいぃ゛いいっッ!」
「犬が喋るな」
「ふぐぅうっ、ふうぅ゛うう!!」

 射精のように不能期の無い暴力的な快感に晒されたまま、まだ鬼利の声が理解出来る程度の頭が残っていたらしい幽利がばふ、と勢いよく顔をマットレスに押し付ける。連続した絶頂の所為で体中の筋肉が強張ってまともに呼吸が出来ていない体で、止められない嬌声を少しでも”静か”にする為に。

 幽利自身の唾液と涙で濡れたシーツは通気性をほぼ失っている。声を抑えるためだけでなく、窒息によって叩き起こされ続けている意識を無理矢理飛ばそうとしているのだろうか。気絶してしまえば確かに、正気を守ろうとする本能が働かない分だけ声量は落ちるが、果たしてどこまで考えての行動なのやら。

 意図は解らないが反省の色は見えたので、残った意識を掻き集めてシーツに顔を押し付け続ける幽利が窒息しない内に、鬼利はバイブを抜いた。こんな序盤から気付け薬を使っていては後が保たない。


「幽利、息をして」
「んぐ……っぅ、……う゛……っッ」
「わかったよ、大丈夫。ちゃんと反省したね」
「……はぁ゛ッ……が、はぁっ……!」


 背後に座った鬼利に項垂れた幽利の顔は見えないが、微かに動いたその頭を見れば、顔をぐしゃぐしゃにした幽利が懸命に頷こうとしているのは解った。ぜぇぜぇと濁った音と共に酸素を取り込んでいる唇が、声には出さずに何度も「ごめんなさい」と動いているのも。
 哀れなほど健気なその姿にふふ、と優しく笑って、鬼利は限界まで幽利の後孔を開かせていた拡張器を目盛り1つ分緩めた。緩めた所でまだ筒の直径は鬼利のモノよりも大きいが、実際はどうあれ「緩めてもらった」と幽利に感じさせるのが肝要なので、これで十分事足りる。


「ハンカチは届く?」
「ぅ……っ……」
「歯が欠けるといけないから、ちゃんと噛むんだよ」
「ふっ……ふぅ……っ」


 腰を浮かせないと届かない頭の代わりに太腿の横で震えている右足を包むように撫でると、畳まれたまま動かない腕を更に折って突っ伏していた幽利は頭を支えに肩を持ち上げ、足と同じように震える両腕を立たせた。両手足を深く折り曲げたまま拘束され、肉球代わりのクッションを両肘と膝に当てられた、今日の拘束具に相応しい体勢だ。
 どうせすぐにまた突っ伏すことになるだろうが、精神というものは意外と肉体に引きずられる。ふさわしい姿勢というのは許容量を超えた責めに耐える為に、そして抵抗を許されずに”耐えさせられている”悦びをちゃんと味わう為に大切だ。鬼利にとっても、どの程度体力と気力が残っているのか判断する材料になる。


「もう一度、始めからやってあげるから、今度は頑張ろうね」
「んぅ、う……っ」

 会陰から先はまだショートパンツに押し込められたままの幽利の裏筋をかりかりと爪で掻いて、鬼利はバットに並んだ道具の中から、楕円形のブラシを持ち上げた。
 形状は少し大きめの歯ブラシのようだが、一般的な歯ブラシよりも長い持ち手の先には、ナイロンよりもずっと柔らかいシリコンの毛が楕円形にびっしりと植えられている。まだ先の名残が乾ききっていないそれに追加のローションをたっぷり含ませて、鬼利はじっとりと粘液がしたたる毛先を充血して膨らんだ前立腺の上に乗せた。


「いくよ」
「っ……ふ、……!」


 声をかけて心構えと集中をさせてから、空気と視線に晒されてひくひくと震える性感帯を、細かなシリコンのブラシでぞりゅ、と擦る。

「ひッ……ぃい゛ぃ……っッ」

 胡桃大の凝りを奥から手前に一度擦っただけで、幽利は露出した部分全てを鳥肌立てて足先を丸めた。ここを指で撫でただけでイかせるのが今日の鬼利の目標だが、流石にまだそこまでの感度には達していない。

 柄のしなりを使って適度に圧をかけながら、感じる所をピンポイントで責めるのに適した小さなブラシで、前立腺をくちゅくちゅと磨く。ローションが泡立つほど早くしたり、逆に蛞蝓が這うように遅くしたり。毛先に慣れてきたら裏返したヘッドでこりこりと転がして刺激の種類を変えながら、他には感覚を散らさないよう細心の注意を払って、そこだけを。

「んぃ゛い……ッ……ひっ、ひぃい……っ!」
「少しは我慢しないと、後が辛いよ」

 声を出さないように喉を絞っている所為で、泣いているように細い幽利の声が一際高くなる。そんなことは幽利自身が一番解っているだろうが、かと言ってそうそう長く我慢出来るようなものでもない。気絶も出来ないほど散々に結腸でイかされた直後では尚更だ。

「んぐッ……!」

 結局、忠告から一分と保たずに幽利はまたドライでイった。まあそうなるだろうな、と想定通りの結果を眺めながら、鬼利は再度裏返したブラシでびくびくと痙攣している前立腺を磨く。
 柄を伝わせてローションを補充する間も休まず研磨を続けていると、ひ、ひ、と過呼吸のような音を立てていた幽利の息が止まり、ガクガク震えていた上半身がシーツの上に突っ伏した。これも鬼利の想定通りだ。

「ぐぅっ、ぅ、ぅう……ううぅう……ッ!!」

 意識的にか無意識的にか、吊り下げられた腰を前後に揺らして微かな抵抗をし始めた下半身を太腿を片手で掴んで固定し、別の生き物のようにうねる内壁にブラシを押し当てる。自身の蠕動で擦り付けさせて少し休憩させてから、拡張器が無ければ自分の内圧だけで達せる程敏感になった粘膜をこしゅこしゅと柔らかく磨いてやると、めり込ませるような勢いでマットレスに顔を埋めた幽利がくぐもった悲鳴を上げた。
 拘束具がいつもの鎖や枷の類なら、きっと手首や足首に血が滲むまで滅茶苦茶に引っ張ってのたうっていただろう。そういう声と痙攣だ。いくら藻掻いた所で今日の拘束では擦過傷1つ出来ないし、暴れられないならせめて耐える為に体を丸めようとする動きは、天井に太いワイヤーで繋がったフックが阻む。頭が沸騰するような快感を少しでも逃がす為の声は、鬼利の命令と過去の躾と折檻の記憶が封じている。

 そんな状態で絶えず性感帯を繊細なブラシで磨かれ続けている幽利の逃げ道は、ひとつだ。


「ぅぶッ……ぅっ……」

 がくん、と一際大きく全身を跳ね上げた幽利が、マットレスに顔を埋めたまま失神してぐにゃりと弛緩する。落とす音が聞こえなかったので、恐らく濡れたハンカチを咥えたまま。

「またか……」

 このままでは本当に窒息してしまうので、鬼利はブラシを置いてその場に立ち上がった。特に急ぐでもない歩幅で幽利の頭側に回り込み、汗で濡れた髪を掴んで突っ伏した頭を持ち上げる。
 案の定中途半端に咥えたままだったハンカチを引っ張り出し、幽利の涙や鼻水や涎で想像以上に惨憺たる有様だったシーツをちらりと見て、少しだけ眉を顰めた鬼利は離しかけていた髪を指に絡めて持ち直した。胸ポケットのリモコンで天井裏に隠されたウィンチを操作して、辛うじて肘がシーツにつく高さにあったフックを膝が浮かないギリギリまで巻き上げる。腕部分の拘束具とベルトが繋がっているのが外側ではなく内側で、こうしてベルトを利用して吊るしても腕が開いてしまわない辺り、本当によく考えられた素晴らしい職人技だ。

 手を離されてがくりと項垂れた幽利の、鬼利より長い毛先がびしょびしょのシーツに着かないのを確認してよし、と1つ頷き、引き上げた所為で乱れた髪を軽く整える。汗は仕方がないとしても、この滑らかさが涎まみれになってしまうのは少し惜しい。

「……本当に、上手になったね」

 ちゃんと教えた通りの手入れをされていると解る、さらさらと指通りのいい髪を柔らかく梳くこと、約20秒。
 幽利が意識を失ってからぴったり3分が経った所で、鬼利は愛しい双子の弟が今日も健康である確たる証拠を優しく撫で付けていたその指で、お揃いのピアスが通った幽利の乳首をぎちりと捻り上げた。


「休憩にはまだ早いよ」













 基本的に、幽利はとても我慢強い。

 ”耐える”という行為そのものに興奮する性質であるから、というのもあるが、一番の理由は見えているからだ。この後何が起こってどうなるのか、その予測が正確であればあるほど精神的な余裕が生まれる。そして思考さえ見透かす千里眼を持つ幽利の予測は、人の言動に関して言えば未来予知と言える精度を誇る。

 そこに加えて、忠犬よりも忠犬らしいあの性格だ。体の方がついていかずに粗相をすることは多いが、どんな難題を突きつけても投げ出すことのない精神面の忍耐強さは、純血種である傑をして「なにもそんなに強くなくても」と言わしめた鬼利でさえも、身内の欲目なく認める所である。

 なので、現在の状況はとても珍しい。


「やぁあ゛ああッ!もう、もう無理、無理ですッ!ゆるっ、ひて、ゆるしてぇえ゛えっ!!」


 無駄吠えをしないお利口な犬として嬌声を止められ、更には人の言葉を喋るなと命じられた幽利が、そのどちらも無視して泣き喚きながら鬼利から逃れようとするなど、滅多に無いことだ。

 数ヶ月前に一週間寸止めを続けた時も5日目辺りからは「もう嫌だ」と泣き喚いていたが、それでも4日間は保っている。下準備といえば一時間余りの放置だけで、前立腺を指で撫でるだけでイくようになってから数えてもまだ2時間と経っていないのにここまで心が折れるのは、本当に珍しい。余程新しい拘束具と視姦が効いているのだろう。


「静かに、と何度言わせるつもり?」
「で、きなッ……とけぅっ、やけちゃう゛ぅう……!」
「溶けても焼けてもいいけど、静かに出来ないならずっとこのままだよ」
「ひッ……そ、それやだぁっ、こりこりもうやだぁあっッ」

 拡張器で開かれっぱなしの粘膜に保湿クリームを塗り込んでいた指を抜き、変わりに鬼利が握った細い金属棒の二股に分かれた先端を見て、幽利の泣き声が一層大きくなる。
 唯一シーツについている膝をじたばたと藻掻かせて背中のフックに繋がったワイヤーを軋ませ、弱点を曝け出させる拡張器を精一杯締め付けているが、車も吊るせるワイヤーはその程度ではびくともしないし、奥までしっかり嵌まり込んだ拡張器もその口を閉じることは無い。肉が裂けるような鞭打ちで射精できる幽利とそっくり同じ程度でサディストな鬼利相手には、無駄な抵抗どころか火に油を注いでいるようなものだ。


「そんなに嫌なの?」
「い……やぁ……ッ」
「そう。どこが一番嫌?」
「……っ……」
「……教えてくれないなら仕方ない。自分で探すよ」

 溶けて焼け付きそうな頭でも言った場所を責められるのは解るらしく、押し黙った幽利にくすくすと笑いながら、鬼利は粘膜を傷つけないよう滑らかに磨かれた器具で、白状させるまでもなく知り尽くした幽利の泣き所の1つをかり、と引っ掻く。

 特に大好きな所はご多分に漏れず前立腺だが、それ以外にも幽利をそこの刺激だけでイかせられるポイントはたくさんある。
 例えば前立腺の少し手前の粘膜が引っ張られた辺り、精嚢の左裏側、膀胱の真上、背中側のひだの合間、奥まった曲がり角の右上。どこもかしこも、そこが他より弱いことを発見したのも鬼利ならより敏感になるよう開発したのも鬼利だ。実際に内部の状態を視認している今、正直反応を見るまでもない。


「ここかな?」
「ひゅぐッ!」
「それともここ?」
「あ゛あぁっ!やめでっ、やだぁあッ!」
「ああ、ここを忘れてたよ」
「ひぃい゛いッっ」
「……どこも同じ反応で解らないな。どこが一番なの?」
「じぇんぶっ、ぜんぶですぅうッ!もうやめでぇええっッ!」
「違う。この形が一番”効く”のはここ」
「やあ゛ぁあああっっ!」
「嘘はいけないよ、幽利」


 雨に振られたように汗に濡れた髪を振り乱して喚く幽利をたしなめながら、一番いい反応をする背中側のひだの合間を一番嫌がっていたやり方でこりこりと引っ掻く。ぐっと緊張して反った背中の肌が粟立ったり収まったり、角度を少し変えると少しでも刺激から逃れようとして反対方向に捻れたりと、煩い口以外の反応も忙しない。

 物理的にも精神的にも、組み敷かれるのが吐くほど嫌いな鬼利の知的好奇心が実体験を求めることは恐らく一生無いが、あの幽利が逃れようと暴れるくらいだ。否応なく注がれ続ける受動的な快感というのは―――それも人としての尊厳を剥ぎ取られ、数十回の大小の絶頂によって脳内麻薬に侵され尽くした体で味わう青天井の快感は、きっと凄まじいのだろう。
 千里眼を持たない鬼利に思考は見えないが、見えているような精度で読むことは出来る。ましてや全てを分かち合って奪い合った片割れのことが解らない筈もなく、みしり、と背中の接続金具に危うい悲鳴を上げさせながら短い両腕がぴんと伸び、そして弛緩したそのタイミングに合わせて、鬼利は中程をこりこりと搔く右手はそのままに、左手にしたバイブの細い先端を開いたままの皮膚と粘膜の境目に宛てがった。


「いぁあ゛あッ!?や゛めっ、きりッ、くる、きりぃっ、きちゃう゛ぅう!」
「……処女じゃあるまいし」

 数度引っ掻かれる度に襲い来るそれよりも更に重い絶頂の予感に、手足を引き攣らせる幽利の絶叫を、鬼利は冷酷な失笑で流す。

「メスイキの一度や二度で、大袈裟な」
「ッぁ゛、……~~~~~っ!」

 服も乱さず、汗の一筋も流すこと無く、涼しい顔の中の理知的な舌で、どこまでも流暢で滑らかな発音で紡がれた下品なスラングに、痙攣する背中に隠れていた幽利の頭がガクンと跳ねるように仰け反った。

 一頻り声にならない絶叫を虚空に叫び、そしてがっくりと項垂れてからは言葉を忘れたように濁った母音ばかりを垂れ流す幽利は、この舌が品のない言葉を紡ぐのが好きらしい。
 鬼利自身は品も情緒も遊びもない言葉遣いは嫌いなので早々応えてやりはしないが、こんなに喜んで貰えるのなら甲斐もあるというものだ。何しろ、サディストの頭文字であるSはサービスの頭文字でもある。


「あ゛ぁあ――――……ンはぁあ゛あぁぁ……!」
「慣れてきたね。今度はここを苛めてあげようか」
「ぅあぁあ゛――……ッ!」
「吐いてばかりだから苦しいんだよ。ほら、吸って」
「ひッ、はひっ、っひ!」
「吐いて」
「んぁああぁぁぁ……!」
「そう、撫でられてる時に吸って、抉られたら吐く。……はい、もう一度」
「ひはぁあ゛ぁぁっ……ゆぅし、てえ゛ぇぇっ……!」
「大丈夫だよ。覚えられるまで、何度でもやってあげるからね」


 気付け薬は30分前に使い切ってしまっていたので、可愛い弟がまた腫れた乳首を潰されたり、だらだらと潮とも先走りともつかない体液を垂れ流すモノを引っ掻かれる激痛に飛び起きる羽目にならないよう、鬼利は適宜両手の器具を持ち替えて、慎重に既に折れたその心を甚振った。

 被虐の陶酔に耽溺している幽利も魅力的だが、今は味わっている生き地獄の鮮烈さを薄めてしまう。元々の閾値を超えないようにコントロールしつつ、その閾値を少しずつ伸ばして、一番気持ち良くて苦しい一瞬を出来るだけ長く維持できるように。極めて繊細で面倒な行為だが、知性の欠片も無く泣き喘ぎながびくびくと震える幽利の一番愛らしい姿を見る為なら何でも無い。
 幸いにして集中力は天才と呼ばれる程度にはある方だし、4時間近くも精密作業を続ける手指が引き攣る程度の痛みは感じない体だ。


 幽利にとって幸いなのかは知らないが、そこはまあ、お互い様というものだろう。





「――――……ヒッ!」


 人の言葉を思い出してから幾度目かの、始めの頃と比べれば二倍以上にもなった地獄の底から息継ぎが出来る程度に浮上した幽利の喉が、それまでとは種類の違う悲鳴を上げた。
 鬼利、震える声で呼ばれた名に、ローションとクリームに濡れそぼった器具をバットに投げる。

「鬼利、鬼利、く、くらい、見えない、どこ、きり、鬼利ッ!」
「幽利」

 既にがらがらに枯れた声を、極限まで悲痛に引き絞って禄に持ち上がらない頭を振る幽利の背中を撫で、鬼利は素早く腰を上げてその傍らに寄り添った。今日の拘束ではそうそう腕や足を壊すことは無いが、今の状態で無理に千里眼を使わせると視神経が焼き切れる。

「ここだよ、幽利」
「鬼利ッ、……きりぃ……っ」

 汗で張り付く髪を梳きながら頬を包んで振り返らせると、熾火の消えた両目を零れそうな程に見開いて不安定に瞳孔を彷徨わせていた幽利は、一世紀も迷子だったような顔で手を伸ばし、長さが足りずベルトに引かれて鬼利に掠りもせずに空を切った自分の腕に、うぅ、と静かに泣き始めた。

 宿主の精神状態に大きく依存した千里眼は、少なくとも一時間以上前にその視野の大半を失っていた筈なので、恐らく記憶の混乱が起きている。鬼利など及びもつかない容量と精度を持つ幽利の記憶が乱れることなどそうは無い。少し遊び過ぎてしまったようだ。


「少しじっとして。フックを外すからね」
「ぅっ……うぅ……っ」

 届かない手をぱたぱたと力なく藻掻かせる幽利を宥めながらフックを外し、支えが無くなった途端にべしゃりと濡れたシーツに崩れた体を、脇の下に腕を回して仰向けにする。重力に引かれるがままに開いた足の間に膝をついて覆い被さるように抱きしめると、矢張り殆ど力の入っていない、普段の半分の長さになった両腕と両足が、それでもひしと健気に鬼利の体を挟んだ。


 ああ、こういうのも悪くない―――千里眼が働いている時は絶対に表層に上げられない仄暗い想像をしながら、優しく濡れた髪を掻き上げて泣き腫らした瞼に口付ける。


「まだ暗い?」
「くらい……っ」
「僕が見える?」
「……み、ぇる」
「それなら大丈夫。沢山暴れたから、疲れて範囲が狭くなったんだね」
「うん、……うん」

 狭くなったと言ったって凡人並の視野はあるだろうが、幽利は120度しか無い視野角に慣れていない。不安から強引に残りの240度を確保しないよう暫く密着したまま頭を撫でていると、痙攣するようだった瞳孔がゆっくりとその焦点を、定まったと言うには多少語弊があるが落ち着けた。
 頭皮に掠る指にひくんと足が跳ねさせたのを感じて、顔を上げる。念の為頬に血の気が戻っているのを目で見て確認してから、鬼利は呆れたように目を細めて見せた。


「言いつけを破って、いい子にしないからだよ」
「っご……ごめんなさい……」
「口を開けて。歯は……欠けてないね」
「ぁが、ぁ……っ」

 頬を強く掴んで強引に開かせた口内を確認して銀色のバットを振り返る鬼利に、幽利の目から溢れるように涙が溢れ、鬼利を挟んだままの体ががたがたと震えだす。疲労と過ぎた快感に狭まったままの視界ではなく、数分前の生き地獄を恐れている反応だ。記憶の混乱の方もちゃんと収まっている。
 そろそろ絶叫ではない哀願が聞きたかったので手を離して上体を起こすと、一秒前まで鬼利がいた空間をきゅっと抱きしめた可愛い弟は、期待通りに泣きながら小さく首を横に振った。

「むり、もう無理です……っこ、壊れ……」
「それを決められるのはお前なの?」
「きり、鬼利です、でもっ……あ、ぁっ……まって、鬼利、ほんとに、ほんとにもう……!」

 わざと乱暴に引き寄せたバットの中でざらりと器具が鳴り、期待も陶酔も無く、ただ怯えきった仕草で幽利がびくりと首を竦める。愛おしさに胸中が暖かく満たされるのを感じながら、度を越して鍛えられた表情筋によってそれをおくびにも出さず、鬼利は粘液をまとって卑猥に光る器具の1つを持ち上げた。
 脆い粘膜を少しも傷つけない柔らかいブラシが、これで散々に前立腺を磨かれた幽利の目には恐ろしい拷問器具に見えている筈だ。動かない体を僅かに丸め、黒革に包まれた両腕で出来る限り頭を抱えて、懸命にシーツの合間に隠れようとしている。両足が鬼利の腰を挟んだままだから、鬼利の影に隠れようとしているのだろうか。可愛いのには違いないのでどちらでも構わないが。

 子犬のように震える幽利の怯えようを一通り楽しんでから、鬼利は興を削がれたように溜息を吐いてブラシを投げ出した。痛みは感じないが、流石に指が重い。


「……わかったよ。今から吊るすのも手間だ。お仕置きは別の方法にしてあげる」
「っあ、りがとう、ございます……!」
「足を開いて」


 何に対してなのかも不明確なお仕置きを宣言されたにも関わらず、救われたような顔をした幽利の心からの感謝を聞き流して、おずおずと開かれようとしていた膝に手を掛けて大きく開かせる。ショートパンツは履かせたままだが、二連式のジッパーを大きく開かれたそれは最早服ではなく、恥辱と奪われた尊厳を強調する為の小道具の1つだ。思った通りとてもよく似合うので、今度洗い替えを注文しておこう。

「ん、んん……ッ」

 ぱっくりと開いた黒革の間、この体が鬼利の所有物であることを改めて幽利に認識させていた拡張器を緩め、人肌に温くなった金属を引き抜く。ローションとクリームで卑猥に濡れ光るそれをバットに投げ込み、ざらりと音を立てる器具ごと遠ざけると、シーツを手繰ることも出来ない足先が革の中でほっと力を抜いた。
 わざわざ開いて固定したのはマッピングの為などではなく、鬼利の目標は当に達成されているというのに。

「きり……?」

 戸惑って僅かに頭を持ち上げた幽利を見ること無く、鬼利は適当にシーツで拭った手でシャツのボタンを1つ外した。体温を逃がす為に襟元を軽く開いた手をそのまま下ろし、ベルトを通していないパンツの前をくつろげる。
 革の内側で伸びたばかりの足先がまたきゅっと丸められるのを横目に、いくら深層筋が鍛えられているとはいえ流石に閉じきらない所にひたりと先端をあてがい、思考も意図も見えない幽利が何を聞く暇も与えず、一気に奥まで突き上げた。


「ひぃ゛ッ、……!?」
「……緩い」

 あれだけ拡げておいて、しかもその抵抗の無さを利用して行き止まりに容赦なくぶち当てておいて、僅かに眉を顰めての傍若無人な呟きに、幽利からの反射的な謝罪は返らない。
 そんな余裕は無いからだ。
 突き上げられたその衝撃のままに顎を跳ね上げ、今は前足となった両肘を天井に向かってぴんと伸ばした幽利の頭は、時間を掛けて丁寧に弄り尽くされた粘膜が拾う鋭い快感に埋め尽くされている。嬌声を不自然に途切れさせたっきり、呼吸すら止めて硬直している今の幽利には、鬼利の声であろうとそう簡単には通らない。

 そんなことは百も承知だが、かと言って気持ち良く浸らせていては仕置きにならないので、鬼利は縋るように胴体を締め付けてくる膝を無造作に押し開いて更に腰を進めた。
 ぐぽ、と漸く満足の行く窮屈さを得られた先端だけが激しく収縮する粘膜に締め上げられ、腰から頭の先までざわりと肌が粟立つ。そう言えば、鬼利自身は数時間前に咥えさせたっきりだった。


「ぇう゛ッ!」

 腹の中を貫いたモノに喉元まで串刺しにされたような、潰れた悲鳴と共にぎくんと跳ね上がった膝を片手に受け止めて、もう片方の手で仰け反ったまま戻らない幽利の前髪を掴んで強引にこちらを向かせてから、ぐっぽりと嵌まり込んだ先端を乱暴に引き抜く。

「んぐぅうッっ!……あ、ぁ゛ッ、……ゃあ゛ぁぁ……っ」

 被虐の陶酔だの、服従の悦びだのといった精神的な要素はまるで関係なく、今の幽利の体は前立腺を指に撫でられただけでイくような状態だ。挿れてからこちら、ようやく拘束を解かれた粘膜がモノにしがみついては僅かな身動ぎを拾って痙攣しているので、かちかちと奥歯を鳴らしながら見開かれたままの瞳の奥は恐らく、絶頂の高みから一瞬たりとも降りられていない。
 しかし、それにしては随分とか弱い悲鳴だ。兄として大切な双子の弟にはいついかなる時でも元気でいて貰いたいので、鬼利は力なく空を泳ぐ幽利の右腕をシーツに押さえつけ、前屈みに上体を倒してぐちゅぐちゅと最奥を、曲がり角を抜けてしまう寸前で掻き回す。

「あ゛ぁあああ―――ッ!!」
「……ふふっ」

 やっと元気な声が聞けた、と。
 今ばかりは度を越して鍛えられた表情筋を一切制御することなく、心の底からの愛おしさと悦びをありのまま反映させて笑い、前髪を掴んだままの指先でびっしょり汗に濡れた額をそっと撫でる。

「ほら、幽利。ごめんなさいは?」
「うごっ、かないでッ!とま゛って、とまっでぇええッ!あ゛ぁーーッ!」
「こんな状態で止まれるほど、僕も不感症じゃないよ」

 顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚く幽利に苦笑さえして見せて、いよいよおかしな痙攣の仕方をしている結腸を抜く。もう体力も底をつきかけているだろうに、両足がバタバタとシーツを叩くのに合わせて絶妙に捻りまで加わるものだから、鬼利の方も射精を堪えるのが大変だ。

「ひい゛ぃいぃぃっっ!やだッ、やらぁあ゛ああっ!」
「どうして?幽利はこうされるのが大好きなのに」
「い、きたぐ、なぃい……っ!もう、いぎたくっ……ぃい゛いいぃい……!!」
「それならもっと締めないと。こんなに緩くちゃ終わるものも終わらないよ」
「あぐっ、ぅ……ぅあ゛ー……っ……あぁあ゛ーー……!」
「……」

 ぐぽ、と腰を引くのと同時に橙色の瞳が半ば以上裏返るのを見て、鬼利は髪が抜けないよう生え際近くで掴んでいた幽利の前髪を離した。頬にかかる自分の髪を耳に掛けながら、ちらりとサイドボードの時計を見る。2時46分。背中に張り付くシャツが不快だ。さっき脱いでおけばよかった。


「幽利、締めて」
「はひ……ッ!」
「ん、……」


 最初から、それこそ挿れた瞬間から言葉が通じていないのは解っているので、もう満足に勃っていない幽利のモノを握って強引に締めさせる。痛みと快感、そして壊される恐怖と本能を裏切る陶酔が作用して幾らかマシになった粘膜を強く突き上げて、一番奥深くを叩きつけるように汚した。

 目眩にも似た一瞬の浮遊感。

 散々幽利のことを犬扱いしてきたしこれからもするつもりではあるが、滅茶苦茶に暴れる腰を押し潰すように抑え込んで吐精の快感に身を震わせる己の方だって、十分に獣じみている。同じように一皮剥けばこの有様だ。精々薄いか厚いかの違いでしか無い。
 ふ、と止めていた息を吐くついでに唇の端で自嘲して、鬼利は俯かせていた顔を上げた。


「あ゛っ……ぁー……っ」
「……ゆうり」


 熱に浮かされた思考を何一つ隠さない声音で甘ったるく名前を呼んで、刻一刻と歪になっていく肉の器の中にあって滑稽なほどにお揃いの、左胸にある小さな傷痕をそっと撫でる。
 日頃から鬼利が散々弄ぶ上に、今日は気付け薬の節約の為に時折その代役まで務めさせられたものだから、リング状のピアスが通った小さな穴は血を滲ませていた。曇った銀色の端には、おままごとのようにちかりと光る小さな黒い石。

 シーツに擦れる内に左に寄ってしまったそれを恭しくすらある手付きでそっと中心に戻して―――鬼利は邪魔者を退かした赤紫に腫れたお揃いの傷跡を、ぎちりと指の間に押し潰した。

「おはよう、幽利」

 ぎぃっ、と短く濁った悲鳴を上げて戻ってきた橙色ににこりと微笑んで、汗で張り付くシャツを頭から脱いでベッドの外に捨てる。ついでにそのまま伸ばした手で飾り枕を1つ取り、20回以上繰り返してもまだ新鮮に慣れない拘束に藻掻いている右足の下に押し込んだ。鬼利の腕力では股関節を入れるのは大変なのだ。
 ひとしきじたばたと藻掻いて漸く、現状を思い出して大人しくなった幽利の喉が、ひゅう、と今際の際のような音を鳴らす。熾火は相変わらず戻っていないが、その能力上、幽利は視線に敏感だ。


「……り、きり、……きり゛……!」
「どうしたの」
「も……もぉ、いじめ、ないで……おねが、ぁ……っ」
「あぁ……駄目だよ幽利、そんな風に煽ったら」


 届かない手を精一杯伸ばして懇願する愛しい片割れを、冷厳な化けの皮を根こそぎ剥ぎ取った瞳を柔らかく細めた鬼利は、いつものように、声色だけは優しくたしなめた。


「勢い余って殺しそうだ」










 定刻の12時にコンマ一秒遅れることなく届いた定期報告のタイムスタンプと一分の隙もない文面から、「いいからクリスマス休暇を継続しろ」という圧力を感じて、己の信用のなさに苦笑しながら鬼利はパソコンを閉じた。

 薄い機械をローテーブルの中程まで押しやり、相変わらず静まり返った端末を一瞥して、その隣に置かれていた分厚い総革装丁本を持ち上げる。膝ではなく幅広なソファの手摺の上に乗せ、黄ばんで脆くなった紙を両手で捲って388ページを開いて、右手で頁を押さえながら左手を下ろした。

 膝の上を占領する幽利の頭をひと撫でして、ブランケットの合間から覗いた右手を指を絡めて握りながら、活字ではなく手書きの文字が印刷された頁を捲る。五世紀前に生きた歌劇の狂人の直筆は味と言うにはあまりに癖が強く、てにをはが狂った文体も相まって唯でさえ読み辛いのに、ゆったりした3人掛けのソファに寝転んだ甘えたの弟がぐりぐりと腹に頭を押し付けてくるので、気を抜くと目が滑りそうだ。


「また頭が痛くなるよ」


 膝に幽利を乗せたまま前屈みになってパソコンを見たことへの抗議だろうが、薄い腹筋と太腿に押し潰されて逃げるどころか嬉しそうに震えていたのを鬼利は知っている。とはいえ、翻訳と狂人の思考分析を並行している脳内をあまり凝視させるわけにもいかないので、平淡な注意と共に絡めた指の谷間をそっと擦ってやった。

「あ、ぁっ……きりぃ……っ」
「……」

 肌触りのいいブランケットに足先まで包まった体を小さく震わせて、今のもっとして、と強請る幽利に左手だけで応えてやりながら、また頁を捲る。



 虚弱な体を気遣いつつも根深い愛情と欲望に従った結果、年に一度有るか無いかの抜かずの三発を達成した鬼利は、やはり軟弱な体を気遣っていつもより一時間遅く起きた。
 昏々と隣で眠っていた幽利が起きてきたのはそれから更に3時間後の、昼の11時だ。昨夜はどこもかしこも過敏で出来なかった幽利の後始末を済ませ、シャワーを浴びて、よけておいた湿ったシーツと給水マットを入れた洗濯機を回し、珈琲を飲みながら積んでいた本に取り掛かっていた鬼利が一息つこうとした頃に、頭からシーツを被ったハロウィンのような格好でのたのたとリビングに現れて、ごろんと鬼利の膝の上に寝転がった。

 ―――常人の一年分を超える回数を一晩でイかされた所為で、体も心もまだ絶頂の余韻から冷められず、けれども肉体的にも精神的にも疲れ切っているのでむずがっている。

 常に一段低い所に自分を置きたがる下僕がソファに乗り、あろうことか主人の膝を枕にし始めた時点で、鬼利はそんな幽利の状態を全て察した。
 ある程度予想出来ていたことでもあったので、懐いてくる火照った体を蹴り落とすことなく、薄いシーツを剥ぎとり、自身は涙を飲みながら美味しくないと嫌がる幽利をソファに押さえつけて経口補水液を1リットル飲ませ、温かいブランケットに包んでやり、苦しかったとしくしく泣く頭をまた膝の上に乗せて、10冊ずつ5列になって床に積まれた本の読了作業に戻った。

 現状は、構われても熱が煽られて辛いけれども離れたく無いし2人の基準の中でも割と酷い目にあったので甘えたい幽利と、折角のオフなので本を読みたい鬼利の、双方の意見を折衷した結果だ。本を読むのには邪魔極まりないのに手を繋いでいるのは、確かに割と酷い目に合わせた自覚のある鬼利からの、最大限の譲歩である。


 札付き共に冷血漢だの魔王だのと呼ばれてはいるが、鬼利だって肉体の構造上は血の通った人間なので、珍しく素直に甘えてくる可愛い弟を素直に甘やかしてやりたいことだってあるのだ。その前後のプレイの過激さを鑑みた上で、年に二度くらいは。



「……おなかすいた」

 気を紛らわせるために映画を流していたテレビに背を向けたまま、ぼんやりとそれを見ていた幽利が、鬼利が全6巻からなる狂人の自叙伝を読了したタイミングでぽつりと呟く。
 最終巻の半ばからは助詞だけでなく言語すら狂った殴り書きだったので、鬼利もそろそろ糖分が欲しいと思っていた所だ。きゅっと握られた手を振り解き、相変わらず乗ったままの幽利の頭の下に手を差し入れて立ち上がって、急角度に頭を持ち上げられた呻き声を聞きながらキッチンに向かう。


 ビーフシチューの残りは冷蔵庫にあるが、昼食に食べたい重さでは無い。余り物でパスタを作ってしまうのが簡単だが、湯を沸かして茹でる短縮しようのない20分を幽利は待てないだろう。鬼利は知っている味なのでおやつとして与えるつもりだったが、仕方ない。多少糖分が多くなるが、他の栄養素はキッシュと卵で補える。

 考えながらキッチンに入り冷蔵庫を通り過ぎた鬼利は、幽利以外の目には最初からそれ目当てだったように見える迷いの無さで、キッチンの作業台の隅に置かれていた紙箱を開いた。二段になって詰められている内の幾つかを適当な皿に並べ、オーブンレンジに入れて適当な時間温めつつ、コンロに掛けたミルクパンで湯を沸かす。
 それぞれが温まる間に紅茶の用意を済ませ、長方形のトレイに紙箱と茶器、もう1つの丸盆にレンジから出した皿を並べ、大きなポットに沸騰前のお湯をたっぷり注いで、鬼利はトレイと丸盆を両手にしてリビングに戻った。


 ローテーブルの上は片付けられていたが、片付け主の方は一切の無駄を省いた10分足らずの準備がご不満であるらしく、すっぽり頭までブランケットを被って背もたれの方を向いている。

「……幽利」
「……」

 どうやら今日は徹底して”悪い子”になるつもりのようだ。意識があるのに主人の言葉を無視するなど、下僕ならば決して許さない振る舞いだが、躾のなっていない犬が相手ならばそれも仕方がない。賢く従順な犬が言うことを聞かないのは偏に飼い主の至らなさが故だ。

「幽利」

 パソコンと端末とリモコンがきちんと隅に避けられたテーブルに昼食を置き、膝を抱えるように丸まった足元に腰掛ける。ぽんぽん、と腰を叩く掌にも敏感に震えるものの、拗ねているのをアピールしたいのか顔を出そうとしない。幾ら熱に浮かされているとはいえ、千里眼の方はとっくに平常運転で鬼利の思考を見透かしているのだろうに。


「お腹が空いたんでしょ。食べよう」
「……」
「アップルパイが冷めるよ」
「……」
「……」


 平凡な眼球を持つ鬼利にブランケットの下は見えないが、「こんな生意気をして怒られたらどうしよう」と鼓動を早めながら籠城を続ける幽利が、怒らせたくは無いけどこんな機会そうは無いから少し困らせたい、拗ねた子犬の機嫌を取るように優しくなだめられるか、いい加減にしろと呆れながら美味しい焼き菓子を味わう暇もなく乱暴に捩じ込んで欲しい、と思っているのは呼吸の間隔や布越しの僅かな動きや兄としての勘で解った。
 解ったが、拙い期待は裏切ってやらなければ支配者としての甲斐が無い。湯が冷める前にポットの中に適量の茶葉を入れながら、鬼利は一番幽利が見やすい表層の思考の中でだけ、その頭を髪を掴んで引きずり起こした。


「あまり聞き分けが無いと、踏み潰してから床で食べさせるよ」


 最新鋭のオーブンレンジのお陰で焼き立てのように香ばしいアップルパイ、口直しも兼ねて少しベーコンの多いキッシュ、ヨーグルトのお陰で驚くほど口当たりの軽いブルーベリーマフィン。茶葉を蒸らしつつそれらを順に眺めながら、想像の中でだけ、見た目にも美しいそれらをぼとぼとと無残に床に落とす。
 まとめて素足で踏み躙り、ぐちゃぐちゃに混じり合った頃合いで、髪を鷲掴んでその様を眼前に見せつけていた頭を今度は床に踏みつける。食べ物を粗末にするのは嫌いだ。フローリングの隙間に入り込んだ一欠片、足裏に張り付いた一滴まで残さず綺麗に完食させてから、跪かせたままの背を足置きに、何事も無かったかのように読書に戻る。

 ―――あくまでも、全て想像の中でだけ。


「った、食べます……!」
「キッシュは少し味が濃い。先にマフィンを食べるといいよ」

 見事に期待を裏切られた挙げ句、息遣いさえ聞こえそうなほど鮮やかな”想像”を見せられて跳ね起きた幽利に、鬼利は片手で茶葉を蒸らしつつ親切にナプキンを差し出した。いそいそと座り直し、ブランケットで腰から下を覆ってその膝の上にナプキンを広げる幽利を、つい今しがたその頭を踏みつけて犬にも劣る扱いを想像したのと同一人物とは思えない、まるで真っ当に弟を愛する健全な兄のように穏やかな微笑で見守る。


「ミルクティーにするからね」
「うン」
「手掴みでいいよ。フォークだと零す」
「え、」
「いいよ。そんな格好で、今更マナーも何も無い。……ゆっくりね」
「う、うん……っ」


 フォークに伸ばした手を弾かれたように引っ込め、ちらちらと不安げに表情を伺ってくる幽利にくすりと笑いながら、鬼利は皿にも移さず直接マフィンをその手に握らせた。ブランケット以外は下着の一枚も身につけていない幽利の首筋に赤く残る歯型を横目に、ドライフルーツと胡桃を混ぜ込んだパウンドケーキを一切れ、自らもフォークを使わず手掴みにして一口食べる。
 鬼利はそれほど甘味が好きなわけではないが、それでも取引先で食べたここのマドレーヌは美味しかった。基本があのレベルならば他も良い出来だろうと、幽利の為に少し伝手を頼って一番人気のボックスをクリスマス真っ只中に取り寄せた期待通り、リキュールの効いたスポンジはしっとりと上品に甘い。

 切り分けていないので常よりも少し大きく開き、咀嚼する口元に注がれる視線の元をちらと一瞥すると、ぺりぺりと所在無さげに紙カップを剥がしていた幽利は一度肩を跳ねさせてから、慌てて少し前屈みになってマフィンに齧りついた。早く食べなくちゃ、という義務感の方が大きかったその横顔は、口を閉じた瞬間に子供のように純真な感動へと変わる。

「っ……!」
「そうだね」

 美味しい、と振り返って感動を伝えてくる幽利に頷いて、鬼利はミルクを入れたカップを引き寄せた。ブルーベリーとプレーン生地のコントラストも美しいマフィンは見た目にも柔らかく、幽利がぱくぱくと食い付いてもそれほど崩れはしないが、構造上多少は口内の水分を奪ってしまう。喉を詰まらせないようにね、と視線で言い置いて、幽利が拳大のマフィンを食べ終える間に鬼利もパウンドケーキを食べ終えた。

「おいしい……!」
「そうだね」

 幽利の口には少し渋いストレートの紅茶に口をつけながら、頷く。一見冷淡なその言葉の裏で、鬼利の目元が確かに柔らかく微笑んでいるのを見て、幽利は嬉しそうにほんの少しソファの上で身を寄せつつ、暖められたアップルパイに手を伸ばした。
 林檎がたくさん入ってる、カスタードが美味しい、といちいち振り返る幽利に笑いながら、鬼利もほうれん草とベーコンのキッシュに手を伸ばす。

 口元を汚しながら夢中で齧り付いている幸せそうな横顔はかつて屋根裏で初めてクッキーを与えた時と少しも変わらず、今はもうわざわざ振り返らずとも鬼利の表情も頭の中さえも見えるのに、それでも振り返って美味しいね、と笑う顔が愛おしい。食の細い鬼利が早々に手を止めたのを見て寂しそうにしながらも、まだ食べていいかな、次はどれにしようかな、と期待と迷いを隠さず彷徨う視線も、頬についたパイ生地の欠片を払われて恥ずかしそうに縮こまる仕草も、大きく身を乗り出した拍子にブランケットから覗いた腰の爪痕も、それを鬼利に見られたと即座に気づいて上気した頬も、全部。


 あの頃から何一つ変わらず、全部。


「……食べ終わったら」

 ゆったりとソファに背を預けて飽かずに幽利の顔を見ていた鬼利は、流石にその手が伸びるペースが緩まったのを見て取って、括られていない首元の毛先をさらりと撫でた。
 濡らしたタオルで幾度か拭いただけの髪は、べたつきこそしていないものの普段の指通りとは言い難い。鬼利の方は先にシャワーを浴びてしまったが、クリスマス休暇はまだ十分に残っているし、毛並みの手入れは飼い主の大切な仕事だ。

「シャワーを浴びようね」
「っ……」

 3つ目のマドレーヌに夢中になっていた幽利が、ぱっと顔を上げて鬼利を振り仰ぐ。
 即座に頷かないのは可愛らしい反抗期を演じる為ではなく、声には出さずにいた部分を”見た”からだ。ごくん、とマフィンを飲み込んだ喉が、ひくりと期待と逡巡に震える。

「でも、鬼利……」

 鬼利はもうシャワーを浴びてるのに、と昨日の残滓の欠片もない肌を視線でなぞって、おずおずと声を上げる幽利に、鬼利は軽く首を傾げて見せた。

 主人に二度手間をかけさせることへの引け目と、その手で優しく隅々まで洗い上げられる期待と、多少落ち着いたとはいえまだ燻る熱と回復しきっていない体力への不安、それに何時になく構われる幸福への少しの怯え。
 それ等を全て、それぞれがどの程度の割合で幽利の心を占めているのかまで読み取って、鬼利は燃えない瞳をゆるりと細めた。指の間を流れた毛先を、首筋に幾つも残る赤く浅い傷跡にかからぬように優しく撫で付けながら、クッキーよりも文字よりも先に与えた名を呼ぶ。

「幽利」

 過ぎた幸福を怖がる幽利の逡巡を慮るつもりは無い。ふたりに関する全ての決定権は、かつて幽利から他の全てと一緒に譲り渡された時から鬼利が持っている。
 こくりとマフィンも無いのに喉を鳴らした幽利の瞳は、熾火の色に燃えていた。

「……はィな」

 鬼利の何もかもを見透かしながら、それでも従順に頷いた幽利の頭をそっと髪を梳くように撫でて、何もかも見透かされていることを知っている鬼利は微笑む。


「いい子」


 拙い反抗をして見せたとしても、言いつけを破って粗相をしたとしても。
 幽利が鬼利にとっていい子で無かったことは、未だ嘗て一瞬たりとも無かった。



 Fin.




 偶にははしゃいで(当社比)みたりもする。

2020クリスマス企画

Anniversary