嗚呼美しき深淵の薔薇。
茨の毒を知りながら
到底触れずになど居れぬ
この愚か者に慈悲を。
不意に響いた凄まじい爆破音に、傑は煩そうに目を細めながらソファに寝転がっていた体を起こした。
「あ、悪ィ。起こした?」
「スゲー音だな…」
欠伸を噛み殺しながら傑はソファの下に敷かれたラグに座り、コントローラーとテレビのリモコンを持っている悦を見る。リモコンを操作してテレビの音量を下げ、ゲームのコントローラーを両手で握り直しながら、悦はもう一度ごめんと謝った。
「またゲーム?」
「あぁ。ゴシックが作ってくれた爆破ゲー」
「凄ぇなアイツ…キャラが随分陰気だけど」
画面の中では、全身を黒いローブですっぽりと覆い、顔には白い仮面をつけてローブの裾から骸骨の足を覗かせたキャラクターが、青いきらきらとした結晶を愛くるしい顔をした天使めがけてばら撒いている。まるで宝石のようなその結晶は、だが殺傷能力がほとんど無さそうなハート型の弓を持つ天使に当たると、凄まじい轟音を立てて彼等を吹き飛ばした。
「モデルがイザヤじゃしょうがねぇよ」
「イザヤ?」
「弐級の登録者の。知らねぇ?“美術商”って呼ばれてる爆弾魔」
「いや…こんな格好してンなら目立ちそうだけどな」
「見逃してンだろ。イザヤかなりのチビだし」
純白のローブを幾重にも巻きつけた女神に一際大きな結晶をぶつけ、発光する美しい腕を根元から吹き飛ばしながら、悦はそう言ってけらけらと笑う。
「チビで陰気な爆弾狂か。…キャラ濃いな」
画面の中でふよふよと浮いた黒い骸骨が天使を虐殺していくのを眺めながら、傑はふわぁと欠伸をしつつ自分の腕を枕に再びソファに寝転がった。
基本的に傑は、悦のように他の登録者と仕事で組むことが無い。大抵の登録者は怖がって近づきもしないので、日常での交流は更に無い。
同じフロアに住んでいる壱級の登録者でさえそうなのだ、2つも下のフロアに住む弐級のことなど傑が知る由も無い。
「晩飯まで寝る…」
「ん。おやすみ」
直後に先程とそう変わらない音量での爆発音と共に慈愛の微笑みを浮かべたまま女神が吹き飛んだが、傑の規則正しい寝息は乱れなかった。
硝子越しに人工太陽に照らされた街並みを眺めていた傑は、小さな電子音と共に開いたエレベーターの扉に背を預けていた巨大な窓硝子から身を離した。
ILL本部塔15フロア。一面が硝子張りになったエレベーター前フロアには傑以外にも数人の人影があったが、誰一人として到着したエレベーターに乗り込もうとする者はいない。
「どーも」
視線を合わせないようにしながらもちらちらとこちらを覗って来る登録者に軽く声を掛けつつ、傑は1人でエレベーターに乗り込んだ。
このエレベーターは定員50人を超える広さを備えているのだが、零級の肩書に遠慮してか単に怖がってか、傑が乗るエレベーターはいつも貸し切り状態になる。
今日もどうせ乗り込んでくる者はいないだろうと、エレベーターの扉を閉めようとした傑は、ふと視界の端を横切った黒い影に閉じかかっていた扉を足で押さえた。
「ありガとうゴザいまス」
「…いーえ」
傑の足を感知して開いた扉から中に乗り込んだ黒い影は、機械で変換された奇妙な声でそう言うと、真っ黒なローブにすっぽりと包んだ体を軽く屈める。
訝しげな表情でひっそりとこちらを覗う他の登録者を残して扉が閉まり、滑らかな上昇を始めたエレベーターの中で、傑は傍らの稀有な同乗者を覗った。
全身を黒いローブですっぽりと包んだその体は小柄で、傑の3分の2ほどの高さしか無い。声を変えている所を見るとまだ子供なのだろうか。それにしては挙動が妙に玄人然としていて気配も綺麗に消えているが、鬼利から特殊訓練を受けた若輩を受け入れたという話は聞いていない。
「…お会イできてコウエイです」
「…ん?」
「オ顔を存じ上ゲテおりマす。“純血種”」
黒いフードに半ば隠れてにぃ、と吊り上がった唇は黒く染まっていた。機械によって老人と少女が同時に話しているような奇妙な声音に変換された言葉は滑らかだったが、その中に墓場のような嫌な暗さを孕んでいる。
「そりゃどうも。…弐級のイザヤってお前?」
「これハこレは…小生をゴ存知でスか」
どこかわざとらしく驚きながら、黒服―――イザヤは顔を上げて傑を見上げた。
黒いローブの合間から唯一露出した顔は顔料によって真っ白に染められ、赤黒い目の左側にだけピエロのような十字の模様がペインティングされている。小さな唇も黒く、まるでモノクロの世界から抜け出してきたような出で立ちからは年齢は愚か性別さえ判断するのは難しい。
「名前だけだけどな」
「そウですカ…そレはよカった」
何が嬉しいのか、絵本から抜け出した死神のような姿の爆弾魔はくつくつと陰鬱に笑った。聞いただけで寒気の来るような嫌な笑みだ。
一人で何やら楽しそうな不審者に傑は訝しげに眉を顰めたが、直後に指定フロアへの到着を知らせる電子音が響き、ゆっくりと開いていく扉へと視線を戻す。
側面にあるパネルには、傑が指定したのより5階上のフロアの階数が次の到着場所として示されていた。恐らくイザヤはそこで降りるのだろうと先に扉をくぐろうとした傑の目の前に、丁度扉との境界線を挟んでイザヤがするするとローブを引き摺りながら歩み出てくる。
そのまま降りるのかと思いきや、イザヤは傑の目の前、進路を塞いだように立ちはだかったまま動かなかった。迂回しようと左に動くと、足音すら立てずにするすると平行について来る。
「ンだよ」
「本日ハ日差しガ些か強イようでス」
「…あ?」
「少シ暑そうにしてイらっしャいマしたのデ」
黒い唇を三日月型に吊上げながら、イザヤは矢鱈と楽しげに言いつつローブの下でもぞもぞと腕を蠢かせた。
「如何に純血シュと言エども暑さハ堪えましょウ。これハ心ばかリのお見舞イでございマす」
「ッ……」
ローブの合間から覗いた白い腕が言葉と共に傑の足元に青い球体を放る。咄嗟に床を蹴ってその場から後ろに下がった傑の目の前で、青い球体はバチリと小さな音を立てて弾けた。
それは癇癪玉のように小さな爆発だったが、コンピューター管理されたエレベーターが危機を感知するのには十分な破壊活動だった。甲高い電子音と共に、被害を最小限に抑えようと金属の扉が傑を中に呑み込んだまま素早く閉まる。
ドン。
「…ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
扉が閉まりきるのとほぼ同時。密室となった箱の中で響いたくぐもった爆発音に、三日月に割れた黒い唇が嗤う。
通りがかった登録者が何事かと一瞬足を止めかけたが、エレベーターの前に立つ陰気な道化の姿を見ると興味を失ったように通り過ぎて行った。
過去に「殉教者」と名乗り、世界各国で爆破テロを繰り返した爆弾狂が気紛れに破壊活動に出るのは壱、弐級登録者の間では特に目新しくも無いからだ。
「皮膚も肉モ無くなレばさゾ涼しくなりマしょう」
機械変換された声でそう呟き、イザヤはもう一度くつくつと汚泥が煮立つような声音で嗤うと黒い唇を三日月に割ったまま、くるりと踵を返す。
希少な血と肉片を撒き散らして内臓を露出させた麗しい化け物の姿を見ることが出来ないのは残念だが、あの程度では純血種は死なない。彼にならば殺されてもいいとイザヤは思っていたが、あのように粗末な爆弾で傷ついた彼の手に掛るのは余りに勿体なかった。
どうせならば腕によりを掛けた最高傑作の爆弾であの神の造形物を芸術品へと変え、その姿を目に焼きつけてから死にたい。最期の時は1度しか無いのだ。
足音すら立てず、少し長いローブの裾で磨き抜かれたエレベーター前フロアを横切ろうとしたイザヤは、不意に奇妙な浮遊感を覚えた。
見れば、足が地面から離れ床がいつもより遠い場所にある。
「…どこ行くんだよ」
「……」
背後からの声―――イザヤを魅了して止まない現存する最高にして最悪の化け物を、イザヤは笑みを消して振り返った。
浮遊感があるのも当然だ。イザヤは今、ローブの首根っこを掴まれて傑の片手一本で彼と目線がそう変わらない位置まで持ち上げられている。ご丁寧にも顔と同じく白く染められた裸足の足が、ローブの裾からはみ出てぶらりと揺れた。
「お前、爆弾魔だったんだってな。さっき思い出した」
「…素晴らシい」
頬についた煤を手の甲で拭いながら傑がどこか呆れたように言うが、イザヤは傑の話しなどこれっぽっちも聞いていなかった。瞠目した赤黒い瞳は、裾が焼け焦げたシャツの合間から覗く滑らかな肌に開いた火傷の痕が、異常な速度で治癒されていくのを凝視している。
「あのな、そうじゃねぇだろ」
「是こソが神の御業、失ワれタ過去の遺産ノ最高傑作…」
「聞けよ」
「嗚呼ナンと言う奇跡…何ト美しく禍々しイ…」
「…おーい」
「斯様ナものが現世ニ存在していイハずが無い…こレは冒涜に他ならナい。起こってはナラぬ奇跡でアり嘗ての、―――」
焦点の飛んだどう見てもアブない目で危ない事を喋り続けるイザヤに、傑はやれやれと溜息を吐くと同時に持ち上げていたその体から手を離した。
「おい変質者。お前が真性なのはよーく解った」
完全に自分の世界にトリップしていた所為で受け身もロクに取れず、そのままべしゃりと床に落下したイザヤの横にしゃがみ込みながら、傑は淡々とそう言うとのろのろと顔を上げたイザヤの目の前に先の爆発で焼け焦げた通信端末を放った。
「お前が何だろうとどうでもいいけど、これは弁償しろよ」
「…こノ血液が背徳の、」
「それはもういいって」
通信端末の端を赤く染める傑の血を見て再びトリップを始めたイザヤに溜息を吐きながら、傑は爆風で乱れた髪をかき上げる。
「それじゃ、よろしく」
「……」
軽い、先程殺されかけたにしては余りにも軽い調子でそう言って床に這いつくばったままのイザヤの頭をぽんと叩くと、立ち上がった傑は自室へと歩いて行ってしまった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、イザヤはそのままの体制でその背中を見つめ続け、
「…ふふふ」
黒い唇から漏れた小さな笑声は、まるで墓場の底から響いているかのように陰気だった。
「―――で、ホテル行ったらその女がさ、女じゃなくて男だったんだって」
「キッツいなそれ。っつーか解るだろ」
「モテねぇからなセピア。久しぶりにヤれると思って浮かれてたんじゃねぇの?」
「だったら尚更―――」
コン、コン、コン。
鍵の掛っていない扉をノックする控え目な音が響き、ソファに座った傑の膝の間に埋まるようにしてラグに座り込んでいた悦は素早く身を起こした。
「もう居ない」
ローテーブルの裏に張りつけられたナイフに手を伸ばす悦にそう告げ、傑は途端に気が抜けた様にソファに凭れた悦を跨がないようにしながらソファから立ち上がる。
主に壱級登録者が暮らす居住フロアの中で、角にある傑の部屋の前に訪れるのは悦か、家主の傑か、極々稀に幹部の誰かくらいのものだ。傑の部屋には鍵が掛けられることが無いが、一時期壱級の登録者の部屋を荒らし回った元・盗賊も綺麗に傑の部屋だけは避けていった。
「…それで?」
「ん?…あぁ、セピア?バックでなら何とかなるかと思ったけどショックで勃ちそうになかったから逃げたって」
「随分お上品な性格してンだな、アイツの下半身」
「元は軍警のエリートだからな。…なにそれ?」
傑の体温が残るソファに後頭部をぽふぽふと打ちつけながら、悦は玄関から戻って来た傑の片手に握られた黒い箱を見て眉を潜める。
タールに突っ込んだように真っ黒な箱にはご丁寧にもリボンが掛けられていたが、綺麗に蝶々結びにされたそのリボンも真っ黒だった。姿は絵に描いたようなプレゼントだが、一分の隙も無い黒さが何とも禍々しい。
「…“親愛なる麗しき毒薔薇へ”」
「イザヤだな」
黒い箱に直接書かれた、恐らくは本物の血で書かれたのであろう赤黒い字を読み上げた傑に即答しながら、悦はソファから体を起こした。先程と同じ位置に傑が座るのを待って、その膝の間に埋まりながら、傑の膝の上に置かれた黒い箱を体を反らせて持ち上げる。
「血文字って…どんなセンスだよ」
「しょうがねぇよ、アイツ真性の変態だから。傑とは別の方向の」
「薔薇でもねぇし毒も持ってねぇんだけど」
「まだマトモだろ。俺なんて“緋の淫魔”とか呼ばれてンだぜ?セピアは“脆き戦車”だし。…なぁ、中身は?」
持ち上げた箱をかたりと揺らしつつ促す悦に、傑は心底気乗りしない様子でリボンを解いた。黒い箱の中には同じく黒い緩衝材が詰め込まれており、その中央に先日イザヤに爆破されておしゃかになったものと同じ型の通信端末が埋められている。
「何だった?爆弾?」
「いや、端末。この前爆破されたやつ」
「だから言ったろ?ホントに弁償するって。根は律義なんだよアイツ」
「…そうみたいだな」
薄く笑いながらそう言った傑は、箱から端末を取り出そうとはせずに黒い箱をそのまま悦へと手渡した。
「…うわ」
何の気無しに箱の中を覗きこんだ箱の中には、確かに傑が使っていたのと同じ型の端末が丁寧に安置されていた。確か、傑の使っていた端末は偶々買った時期限定の特別なものだった筈で今手に入れるのは難しいのだが、全て寸分違わず同じだった。
端末本体には問題は無い。完璧と言っていい。
問題は、その端末が傷つかないようにと周りに敷き詰められた緩衝材だった。
「マジで真性だなアイツ」
「あぁ。ここまで来るといっそ清々しい」
少しも感情の籠らない声で言いながら、傑は箱の中から真新しい通信端末を持ち上げた。緩衝材―――ぎっしりと詰め込まれた、誰かの黒い髪に触れないようにしながら。
「どうする?これ」
「送り返してやるよ。鬘に作り直して」
「…やっぱイザヤのかな、この髪」
「それ以上言うなよ。夢に見そうだから」
悦の手から取りあげた箱をゴミ箱に放り込み、傑はソファに背を預けると、彼にしては珍しく心底疲れた様子で深い溜息を吐いた。
「…あいつこそ零級指定掛けられるべきだろ。軍警に直訴して来ようかな」
「直後にお前が捕まるけどな」
「ですよね」
Fin.
No.153「瞬」様より
『イザヤが傑を爆破しかけるとか、傑がイザヤを殺しかけるとか、とにかくイザヤの変態っぷりを見たい』
より、人外とビッチに真性と呼ばれる究極の変態・イザヤ初登場です。
嫌がらせとしか思えないことばかりしてますが、イザヤは決して傑が憎いわけでも嫌いなわけでもなく、敬愛する純血種に彼なりの親愛を示しているのです。
その結果が末期的なのは偏に彼が真性の変質者だからです。
瞬様、リクエストありがとうございました!
