それは唐突に躊躇なく訪れる。
日陰から闇へと引きずり落とした魔の手は純白。
麗しき紅蓮の微笑。
それは暴力的なまでに圧倒的に訪れる。
そう。落下に順ずるとされる物は、全て。
小さな炎がゆらりと揺れ、蜜蝋とほぼ同じ融点の蝋が零れる。
「…小指。当たったわ」
「んん゛ンッ…!も、しわけ…ありませ…っ」
背中にどぼどぼと降ってきた70℃近い蝋に思わず震えた途端、冷静な声と共に舌を絡めていた美しい造形の爪先に喉を突かれた。えづきそうになるのを堪えて足からそっと口を放し、毛足の長いラグに額がつくほど下げた涅槃の頭の上で、雑誌を捲る音が響く。
「相変わらず耐性がつかないわね。困ったものだわ」
「ッふ、…く…!」
組んだ足の上に乗せた雑誌を捲りながら溜め息交じりに言い、カルヴァは手にした黒い蝋燭から更に大量の蝋を涅槃の背中に零した。
軽い火傷を負うほど熱い蝋にも震える涅槃の肌は、蝋から溶けだしてくる揮発性の媚薬によってすっかり敏感になり、冷え固まった蝋が割れる感触ですら甘い快感にすり替えてしまう。
「涅槃。あなた、ちゃんと練習したの?」
「は、い…っ」
「それじゃあどうしてこんなに敏感になってるのかしら、この体は」
「あぁ、あッ…!」
「困った子ね」
ふう、と物憂げに溜め息を吐き、カルヴァは読み終わった雑誌を膝の上から滑り落とした。ばさり、とすぐ横に落ちた雑誌にふらふらと顔をあげた涅槃が、自らの唾液で卑猥に濡れた主人の足先を蕩けた目で見つめる。
「ご主人様…」
「薬が苦手なら、せめて演技力を付けなさいって前にも言ったでしょう。お客の前でもそうやって鳴くつもりなの?」
「…は、ぁ…っは…」
「だらしの無い顔をして…」
「っあ……」
それまでとは声音を変えて呟かれた声に顔を上げた涅槃は、美しい主人が汚らわしいモノでも見るような表情で自分を見下ろしていることに気がついた。
再びその御足に触れさせて欲しいと、そればかりを期待していた思考の中に残った理性を掻き集めて醜い欲を抑え込み、乱れる呼吸を無理矢理整えて再び深く頭を下げる。
「申し訳ありません、でした。…っどうか、この駄犬に、罰を…」
謝罪の言葉を言い終える頃には、体の中に燻っていた熱は波のように引いていた。甘い熱に変わって背筋を震わせるのは、主人の機嫌を損ね呆れさせてしまったのではという、恐怖。
前に一度、何か酷い粗相をした柳一が打たれも蔑まれもせず、ただ一言「もう要らないわ、貴方」と言われている所を涅槃は見たことがある。
勿論、カルヴァが本当に柳一を見捨てるわけも無い。そんなことはその時にも十分に解っていたが、それでも涅槃はその一言に、その静かで残酷な麗しい声に、震えるほど恐怖したのだ。
スピードを重視した、カルヴァ自身をして「手段を選ばなかった」と言わしめたひと月の、あの地獄のように甘美で苦痛に塗れた調教にも涅槃は耐え抜いたが、きっとその精神もあれにはとても耐えられない。
自らが敬愛し盲信する女神に見捨てられる、あの恐怖には。
「お許しください…お許しを…っ」
「…拭いて」
「え…」
「拭いて、と言ったのよ。いつまで貴方の唾液で私の足を汚しているつもり?」
「っ!…今すぐに」
弾かれたように顔を上げ、涅槃は純白のバスタオルでカルヴァの足を包んだ。片手で踵を支えながら、硝子を扱うよりも慎重にその足に絡む汚れを拭い落としていく。
震える涅槃の手がタオル越しに自らの足を清めるのを、カルヴァはしばらく面白くもなさそうな表情で眺め―――やがて、興味を失ったようにそれを振りほどいてソファから立ち上がった。
「イチ」
呼び止めるわけにも行かず、縋るような涅槃の視線を背中に感じながら、カルヴァは寝室の扉を軽く指先で叩くと、中で“待て”をしている筈の柳一を呼ぶ。
「…はい」
「コートを頂戴。出かけるわ」
カルヴァの言葉に無言で頷き、ちらりとカルヴァの姿を見てから一度寝室に戻った柳一は、すぐに寝室の奥にある衣裳部屋からカルヴァが思った通りの黒いコートを持ってきた。
他のことは覚えが悪いが、よくカルヴァの“娘”のルディアにモデルをさせられている為か、柳一は服のセンスだけは一級品だ。
「お帰りは…」
「朝までには帰るわ」
「…ロイド様のお宅、ですか…?」
「そうよ」
コートに袖を通しながら頷くと、柳一は背後に持って来ていた2足のヒールのうち、高さは同じだがより歩き易い方を無言で差し出す。
「ありがとう。イイ子にしてるのよ、イチ」
「はい。…ご主人様」
三つ指を突いてお辞儀をした柳一のグレーの瞳が、ちらりとカルヴァの背後にいる涅槃を見た。あれはどうするのか、という無言の問いに、カルヴァは肩越しに涅槃を振り返り、
「…アレは放っておいていいわ」
「……」
緩やかに微笑んだ主人に再び三つ指を突き、見送りの意味を込めて深く頭を下げた柳一の視界の端で、深く俯いた涅槃の肩が微かに震えた。
純白の側面に蔦のように金色の筋が絡んだ猫足のバスタブから溢れた、きめ細かい泡。傍らの一本足の丸テーブルに置かれた燭台に灯る蝋燭。
ふわり、と仄かに漂う香に混じる甘ったるい薫り。
「…まだ震えてるのね」
高く結い上げた髪の束から零れ落ちた後れ毛を指先で払いながら、何気なくかけられた声に、涅磐は丁寧に整えられた彼女の爪から視線を上げた。
「っ、…申し訳ありません」
「過ぎたことはもういいわ」
「…はい」
言外に先程の失態を今取り戻せと言われて、涅槃は元々伸びている姿勢を改めて正すと、カルヴァの爪を赤く染めるマニキュアを丁寧にコットンで拭き取り始めた。
いつもなら主を退屈させないため、他愛ない話で場を繋ぐのだが、今日はそんな余裕も無い。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
最後に濡れた爪を丁寧にタオルで拭い、涅槃はカルヴァの白い手を壊れ物でも扱うようにバスタブの淵に導いた。ちゃぷん、と音を立てて細い指が泡の合間に沈み、綺麗になった爪をカルヴァは満足げに眺めるが、汚れたコットンをポケットに押し込んだ涅槃の表情は晴れない。
「…いつまでそうしてるつもりなの?」
「ッ…はい…」
「相変わらず臆病ね、貴方は」
お湯の中で足を組みかえながら、カルヴァは上目づかいに自分を見上げる涅槃の、捨てられることを怖がる子犬のような目を見てくすりと微笑む。
「使い方も解らないのに知識ばかりつけるから持て余すのよ。可哀そうな子」
「…っ…呆れて、おいでですか…?」
密やかに、今にも消え入りそうな声で呟かれたその言葉に、カルヴァは俯いた涅槃を眺めながら軽く目を細めた。
それは慈愛に満ちた、そう、俗に語られる女神のような。
「…呆れている、と言ったらどうするの?」
「認められるよう、最大の努力を…します」
「私が造り変えた体に一週間で慣れて、私が用意した“世界”に半月で慣れて、これ以上まだ頑張れるのかしら」
「出来ます。ご主人様、貴女に、」
貴女に認めて頂けるのなら、何だって。
…これは純粋な忠誠ではない。
柳一を見る度に、涅槃は自分がカルヴァに抱いている感情がいかに汚いものなのかを思い知らされる。自分が主に従っているのは忠誠心などではなく、ましてや命を救われた恩義を感じているわけでもない。
子どもが勉強をして、100点の答案を親に見せるのと同じだ。褒められたい、認められたいという、純粋だが無垢ではない欲求。
あの白い白い腕に牢獄から引きずり出され、体だけを別物のように狂わされて、日陰から完全な闇に堕とされて、あの日から涅槃の世界には神様が生まれてしまった。
でもカルヴァは涅槃の中で“全て”ではなく絶対の“神”だった。認められる為の努力は出来ても、柳一のように全てを捨てることは出来ない。
「すぐに嘘を吐くのは昔のクセかしらね」
くすくすと笑いながら、女神は柔らかい声で囁く。
神を騙すほど完璧な詭弁など、涅槃のような落ちぶれた詐欺師などには操れる筈も無いのに。
「弱いのに背負い込んでも潰れるだけよ。教えられないと甘え方もろくに解らないなんて、本当に可哀そうな子」
言葉とは裏腹にカルヴァの声音はとても優しく、憐れむような気配など欠片も滲ませなかった。
…憐れだろうが愚かだろうが何でも構わない。完璧では貴女は興味すら抱いてくれないし、平凡ではあしらわれてしまう。少しの、それでいてどうしようもない欠陥が無いと、気まぐれな女神は見向きもしてくれないのだ。
「…貴女の、せいです」
差し出された濡れた手がぽたり、と目の前で雫を滴らせるのを魅入られたように見つめながら、思わず涅槃は呟いていた。
それに愉しげに微笑んだ女神の、綺麗な指が少しだけ、ほんの少しだけ濡れた感触を残す程度に微かに、涅槃の唇に触れる。
「知ってるわ」
いつかこの鍵の無い檻から出て、他の“娘”や“息子”達のように、そして他の“娘”や“息子”の誰よりも貴女の役に立ちたいと。
…そう思いながら、今は辛うじて取り上げられている片方の翼を返されて、飛び立ってもいいと言われるのに何より恐怖していると言ったら、貴女はまた哀れだと言って笑うだろうか。
何よりも美しいその横顔を見つめながら、涅槃はそろりと舌先で濡れた唇に触れる。
石鹸が混ざった水は檻を造る蜜と同じ、毒の甘さがした。
Fin.
涅槃がカルヴァに抱いているのは行き過ぎた親愛で、柳一がカルヴァに抱いているのは行き過ぎた敬愛。
どちらもとりあえずカルヴァを崇め奉る感じですが、違うのはカルヴァが死んでも涅槃は生きていけるけど、柳一は後を追いたがるということ。
柳一と双子が違うのは、柳一はカルヴァに「死ぬな」と言われればちゃんと生きていけるけど、双子は何を言われようがどちらかが死ねば後を追うということ。
…みたいな定義は一応してるけど、書き分けは難しい…
取り敢えず私はずぶずぶに依存するのが大好きみたいです。
