飴色の冬



「…何だこれ」

 酒杯やら徳利やら水差しやらが綺麗に整頓された長持の最下部から、やたらと重たくて大きな陶器の其れを引っ張り出して、悦は首を傾げた。
 小判型のそれは鮮やかな飴色をしており、丁度大人の猫が丸まったのと同じ程の大きさが有る。片側に円筒の蓋があり、軽く叩いて見るとこんこんと音が響いた。どうやら中は空洞であるらしい。

 是も酒器の一つなのだろうか。ずしりと重いそれを持ち上げて悦はくんくんと鼻を鳴らしたが、長く使われて居ないのか酒の匂いはしなかった。
 傑が無造作にぽんぽんと物を放りこんでも、一度蓋をして開けて見れば綺麗に整頓されているこの不思議な長持が匂いを消したのかとも思ったが(傑は是が小姑のように几帳面な長持なのだと言っていた)、試しに特に傑に気に入られている瑠璃の酒杯を嗅いでみると、仄かにだが確りと昨夜傑が飲んでいた水のように透明な酒の香りがする。


 水筒にしては大きくて重すぎるし、何かを容れて保存して置くには少し不便な形のような気がした。試しに蓋を外して逆さまにしたそれを振ってみるが、矢張り砂糖も米も出て来ない。

「んー…」
「其れか?」
「み゛ッ!?」

 猫の貪欲な好奇心で以て、得体の知れない“其れ”を様々な角度から検分していた悦は、すぐ傍で不意に聞こえた声にびくりと体を跳ねさせて尻尾の毛を逆立てた。目線の高さにまで持ち上げていた重たい陶器のそれが、驚いた拍子に悦の手を離れる。

 畳に胡坐をかいた悦の足の上に落ちる筈だった其れは、だが寸前で横合いから差し出された傑の手に確りと受け止められていた。


「っ…気配消して近寄るなって言ってるだろ!」
「あぁ、悪ィ。癖で」

 己の素っ頓狂な声と情けない反応に頬を紅潮させながら、振り返って小さな牙を剥いた悦に、何時の間にやら悦の背後に座り込んでいた傑はくすくすと笑いながら言う。
 応えた傑の表情は常の通り飄々としていたが、悦はその言葉にはっとして顔を反らした。

 その背で揺れる九本の豊かな尾と頭上にある尖った三角の耳が示す通り、傑は強大な妖である九尾狐だ。彼が常にその力の全てを解き放っていれば、悦のような猫又等は気を抜いて目線を合わせた瞬間に心の臓が止まりかねない。
 誰とも話せず目も合わせられないまま、千年を過ごすのは退屈過ぎるだろう。ほんの少し瞳を細めていつか傑が言った言葉が、ふと脳裏を過った。


「…そんなにちゃんとしてくれなくても、平気だ。俺だって其処まで弱くない」
「そうだな。悪かった」
「…っ…別に、謝って欲しい訳じゃ…」


 苦笑混じりの謝罪に胸を締め付けられるような気がして、そんなつもりでは無いのに語気が荒くなる。傑はいつもいつも己の為に気を使ってくれているのに、斯うでは駄目だと頭では解って居るが思い通りに成らない。
 言い様の無い口惜しさを覚えて再び口を噤んだ悦を、傑は背後の九尾を揺らしながら少し見つめていたが、不意に全てを見通したようにくすりと笑うと、悦の肩にするりと腕を回してその体を己の胸板へと引き寄せた。


「わ、…っ」
「お前は可愛いな、悦」

 自然とその胸板に凭れ掛るようになった悦の耳元で、項に顔を埋めた傑が甘ったるい声で囁く。
 冬用の厚い着物の生地越しにも伝わるその体温に、ぴりぴりと産毛をざわめかせる傑という存在に、悦の背筋を甘いものがぞわりと這い上がった。今度は怒りでは無いもので赤く染まった頬を隠すようにそっぽを向きながら、悦はぽつりと呟く。

「…俺は雌じゃねーぞ」
「知ってるさ。…お前のことなら、何だって」
「あ、…こ、こらっ」

 マタタビよりも容易く官能を煽る声と共に、傑の掌が着物の袷に滑り込もうとするのを、悦はその手を上から押さえ付けて封じた。横目に軽く睨みつけてやると、傑はぴくりと頭上の耳を揺らして悦に抑えられた手を僅かに動かす。

「だからっ…あ、そうだ、これ!」
「うん?」

 悦が淫靡な空気に呑まれて手を離すのを促すように、鎖骨を辿る指の動きを押さえながら、悦はふと視界の端に映った飴色の陶器にぱっと傑の胸板から背を離した。
 獲物に逃げられて傑はほんの少しつまらなさそうな表情をしたが、執拗に追い縋ること無くあっさりと手を引いて、悦から離した腕を懐手にする。

 傑に愛されるのが嫌な訳では決して無いが、未だ陽が有るこんな刻限から流されて仕舞ったのでは身が持たない。上手く傑の興を削げた事に安堵すると同時に、あの儘足腰立たぬ程に責められ、夜具の中で一日中甘やかされるのも良いかもしれない、と考えた己の腹の内を、悦は精一杯表に出さぬよう仕舞い込んで畳から持ち上げた飴色の“其れ”を傑に差し出した。


「…そんなに寒いか?」
「寒い?」
「ん……嗚呼、成る程」

 怪訝そうな傑の言葉にどういう意味かと悦が首を傾げると、傑はちらと視線を虚空に飛ばし、直ぐに納得したように呟いて悦の手から重たい陶器の其れを持ち上げた。

「是は湯たんぽって言う。中に湯を容れて、寝床を温める道具だよ」
「へぇ…酒器か何かだと思った。濡れないのか?」
「ちゃんと栓をすればな」
「ふーん…」

 傑が持つ飴色の湯たんぽを見つめながら、生返事をする悦の二股の尻尾がぱたぱたと大きく揺れる。好奇心に溢れた瑠璃の瞳の上で、黒い耳までがぴくぴくと動いていた。


「…そんなに気になるなら使ってみるか?」
「うん」

 余りに素直なその反応に小さく笑いながら問えば、悦は一も二も無く頷いて傑の手から湯たんぽを持ち上げた。今夜、寝床で使って見るかという意味で聞いたのだが、瑠璃の双眸と忙しなく畳を擦る黒い尾は今直ぐに其れを見たいようだ。

「水を容れといで、溢れない程度に」
「水?湯じゃないのか」

 ちらと土間の水甕を一瞥して言えば、悦は怪訝そうな顔をしながらもすっくと立ち上がって言われた通り、湯たんぽの中に適当な量の水を汲んだ。陶器の其れは空でも重い。水を容れると更にずんと増した重みに、是ならば確かに余程寝相が悪くない限り、ひっくり返して夜具を濡らす事も無さそうだと悦は納得した。

「この位?」
「ああ、充分だ。ちょっと寄越しな、火傷するといけない」
「…ん」

 近くに川や井戸が有る訳でも無いのに、常に冷たく澄んだ水で満たされた水甕から持ち上げた湯たんぽを傑に見せると、傑は懐から出した手を伸ばして悦から水の滴る冷たい飴色のそれを受け取った。
 出来るだけ水には触れぬようにしたのだが、冬の水を入れられた湯たんぽは手がじんと痺れる程冷たく、とても火傷等はしそうに無い。狐火で炙るのだろうか、急に火を当てて割れて仕舞いやしないかと其の手元を覗きこむ悦をちらと一瞥して、傑は蓋をしていない湯たんぽの円筒の口に人差し指を差し入れた。

「傑、何して……ん?」

 呆、と湯たんぽの狭い口から漏れた淡い光に真上からその手の内を覗き込むと、揺れる水の中に差し入れられた傑の爪先に、いつも傑が灯す青い火では無く赤い小さな炎が燈っていた。水中に在って消えないその火に、悦は目を丸くして傑を仰ぎ見た。
 其れに、傑は悦の聞きたい事等全て解っていると言う表情で薄く笑う。


「狐が出す火が水で消えるなら、寺の坊主より火消しの方が適任だ」
「便利だな、狐って…」

 素直に感嘆を言葉にして呟くと、傑は驕った風も無く笑って白く湯気を立て始めた水の、いや、今は湯となった水面から指を引き出した。

「抱いて暖を取るならこの程度か。余り熱いと肌に悪い」
「有難う」

 きゅ、と栓のされた湯たんぽは人肌より少し暖かい程度だったが、膝に乗せられたそれを腹に抱き込んでみると、じんわりと暖かさが染みて心地良かった。囲炉裏や火鉢に当たるのとは違う、柔らかい熱にほぅと吐息が漏れる。

「暖かい…」
「それで一刻は持つ。冷めたら言えよ、温め直すから」
「ん…」

 湯たんぽを抱えたまま、ころりと畳に横たわった悦の頭をくしゃりと撫でてそう言い、傑は柔らかく目を細めた。畳に丸まった悦の傍らから音も無く立ち上がると、長持の対面の壁に寄せられている文机の前に坐る。

 そう言えば昨晩は天狗が文を届けに来たのだった。赤ら顔に一本下駄の彼等は誇り高く、猫又等とは口も利いてくれぬのだが、九尾狐である傑と、其の傑に宛てた文を出した何処ぞの何某には、飛脚のような雑事を受け入れる程に敬意を払っているらしい。
 湯たんぽの心地よさに伏せていた瞼を片方だけ開いて見て見れば、傑は矢張り昨日届いた文を読んでいるようだった。内容と書き手に些か興味が沸いたが、染み込む暖かさにはさしもの猫の好奇心も勝てずに、悦は再び目を伏せると湯たんぽを抱き込んだ儘ごろりと寝返りを打つ。


「…っ…」

 畳に温められていた肩を冷気が撫で、それにふるりと尾を震わせながら悦は湯たんぽを抱いてくるりと丸まった。暫くそうして居ると寒さは気にならなくなり、腹と太股を柔らかく温める湯たんぽに眠気が誘われる。

「…ん…」

 逆らわずにうとうとと転寝をしようとしていた悦の唇から、どこか不満そうな声が漏れた。抱き込んでいる所為で湯たんぽの下敷きになっていた腕が鈍く痛み出したのだ。
 陶器で出来ている上、湯の入ったそれはかなり重い。畳に置いてそこに身を寄せてみたが、是では折角の暖かさが畳の方に行くような気がする。置いた湯たんぽの上に蹲ってみると、先程よりは暖かさが伝わるもののどうもごつごつと硬くて居心地が悪い。

 其れからも何度か体勢を変えてみたものの、如何にも満足の行く格好が見当たらずに悦はとうとう畳の上に身を起こした。湯たんぽに温められていた所為でひんやりと腹が冷え、ふるりと体が震える。


「もう冷めたか?」

 もぞもぞと落ちつき無く蠢く気配に気づいたのだろう、振り返った傑が軽く首を傾げて問うのに、悦は裸足の両足を湯たんぽに乗せながら首を横に振った。

「暖かいけど、重くて硬い」
「あぁ…まぁ、本当なら寝床の中で使う物だからな」

 不満そうな悦の顔に小さく苦笑しながら、傑はすっと文机の前から立ち上がるとその傍らに腰を下ろす。
 横に置くだけでも暖が取れるだけ温めてやろうかと湯たんぽに伸ばされた腕は、だが飴色のそれに触れる前に引き返し、腕の中に入り込んで来たしなやかな体を受け止めた。


「悦?」
「傑、腕」

 するりと胡坐をかいて坐った傑の足の間に収まった悦に言われるがまま両腕を差し出すと、胸板に凭れて座り込んだ悦はその腕を己の腰を抱くようにして巻き付けた。
 小さく身じろぎをして頭を傑の肩口に預けると、やっと満足がいく格好になったのかゆるりと傑に預けた体から力を抜く。

「…もう飽きたのか?」
「んー…」

 全く猫とは移り気なものだ。傑の腕の中に収まった悦は髪を梳く手に心地良さそうに目を伏せながら、湯たんぽで温めていた足もとうとう胸元に抱えるようにして離してしまった。
 首筋を擽る指先に、もっと、と言うように喉を晒すその姿を心底愛おしげに双眸を細めて眺めながら、傑は畳にぽつんと置かれた湯たんぽを二本の尾で器用に持ち上げる。蓋の開いたままの長持に放り込まれようとしていた其れに、薄く片目を開けた悦が小さくあ、と声を漏らした。


「…其れ、さ」
「うん?」
「今度、何処か遠出する時にまた使わせてくれよ」
「構わねぇが…それなら行火の方がいいんじゃねぇのか?」
「莫迦、俺じゃねぇよ」

 首を振る悦の二股の尾が、湯たんぽを持つ傑の尾をするりと撫でる。

「傑が居ない時に、斯うやって抱かれる代わりに其れを使いたいんだ。確かに勝手は悪ィけど、一人よりは暖かい」
「…ふぅん」

 だから一人の時はこれで我慢する、と眠たげに目を半分伏せながら言う悦に、傑はその蜜色の髪を梳きながら小さく笑った。

 …ああ、本当に。この猫と来たら。


「何だよ?」
「いや、…何でもない」
「…邪魔、だったら…離してもいいからな」

 とろんとした双眸をゆっくりと瞬かせながら言う悦にああと頷けば、漸く安心したのか一度小さく欠伸をして、こてんと傑の肩に頭を預けたまま目を伏せる。


「……」

 直ぐに気持ち良さそうな寝息を立て始めたその横顔を、傑は陽が落ちて月が高く昇る頃に悦が目を覚ますまで、静かに見つめ続けていた。



 終。



2011年新年企画「艶声」より、
九尾狐傑と猫又悦の後日談。

Anniversary