艶声



 ざわざわと夜風に揺れる樹海の中、大の大人が5人寄っても抱えきれぬような巨木の太い枝を蹴り、悦は空に身を躍らせながらちらりと背後を見る。
 小波のような葉擦れの音に混じるのは、獣の荒い息使いと耳障りな唸り声。

「…しつっけぇ犬っころ」

 舌打ちと共に毒づき、悦は軽業師のように身軽な動きで前方の枝に飛び乗った。枝葉の合間から漏れる蒼い月光が、裾の乱れた着流しの腰から伸びるしなやかな尾をゆるりと照らす。


 あの人間の屋敷から頂いた鰹はなかなか美味かったが、喧しい番犬共の所為でゆっくり食べる暇も無かった。食べ残しの半身は森の入口の木の上だ。
 まぁいい。どうせ鈍い犬如きが木登りなど出来るわけも無いのだし、鳥目の人間では夜が明けぬ限り枝葉の区別もつかぬに違いないのだから、御馳走はこの煩わしい犬共を撒いてから獲りに戻ろう。


「…ん?」

 森の奥へ奥へと向かって枝を跳び渡っていた悦は、ふと目の前が明るくなったのを見て瑠璃色の瞳を眩しそうに細めた。拡張されていた瞳孔がきゅうと細まる。
 もう森の最奥近くであると言うのにそこには何故か木が無く、こじんまりとした庵のような小屋が巨木に囲まれてぽつんと建っていた。蒼い月光に冴え冴えと照らされたその屋根にすとんと着地し、訝しみながらも更に奥へと向かおうとした悦の三角の耳がぴくりと揺れる。

 振り返れば、先程まで散々喧しく吼え立てて己を追っていた犬共が1匹残らず立ち竦んでいた。
 月光に照らされた枝葉が落とす影から先、柔らかそうな叢に覆われた森と小屋との境界に結界でもあるかのように、一匹として暗がりから出て来ようとするものが無い。


「…なんだ?」

 屋根の上に立ち上がった悦が訝しげに首を傾げると同時。それまで見えない何かに怯えたように立ち竦んでいた十四匹の番犬は、先を争うようにくるりと来た道をとって返した。

 追う立場にある犬が獲物のように息せき切って逃げ惑う様はなかなかに面白かったが、一匹として吠え声一つ立てぬのがどうにも不気味だ。
 猫の身軽さで屋根から音も無く叢に降り立ち、犬共が逃げて行った方向を眺めながら、悦はぱんぱんと木屑や土に汚れた掌を払いつつ首を傾げた。

 締め縄結界の類は無いようだが、悦よりも犬共の方が鼻が効くのは確かだ。さては何かの神域かどこぞの妖の縄張りかと、足早に小屋から踵を返した悦の背後で、庵の引き戸がからりと開いた。


「どこの莫迦かと思えば…」
「っ……」

 薄く笑みを孕んだその声を聞いた瞬間、悦は逃げ出すのも忘れて立ち竦んだ。
 圧殺されそうな凄まじい妖気にそろりと振り返れば、開け放たれた庵の戸口に黒い着物を粋に着こなした男が、戸板に寄り掛りながらのんびりと悦を見ていた。


 息を飲む程の美貌。
 しかし、悦を驚愕させたのは彼の男のかんばせの美しさでは無い。

「きゅ、うび…?」

 瑠璃の瞳をまん丸に見開いて、悦は男のすらりとした体躯の横で揺れる豊かな尾を凝視した。震え掠れたその声を面白がるように、男の背後から覗く九本の狐の尾が揺れる。

 九尾の狐と言えば、化け狐は勿論化物の中でも別格の妖だ。齢千年を重ねた狐が変化したもので、その力は最早狐火を操る程度には留まらず、神仏のそれに近いと聞く。

 齢二百、妖としても若輩の、ただの猫又である悦とは同じ妖と言えども天と地ほどの開きだ。祠を壊された九尾狐が怒って地震いを起こし、祠を壊した樵の家を真っ二つにしたとか、はたまた雷を落として燃やしたとかの噂話を聞きはするが、当然目の当たりにしたのはこれが生まれて初めてだ。


「猫又か」
「ひ…っ…」

 底無しの井戸のように深い藍色の瞳に見据えられ、咄嗟に悦はその場にぺたりと伏せた。根元から二股に分かれたしなやかな黒い尾をくるりと足の間に丸め、悠然と笑う九尾を仰ぎ見る。

「ごめん…ここがあんたの縄張りだと、知らなくて…っ」
「ん?…あぁ、猫は鼻が効かねぇのか」

 僅かに頭を傾けて訝しげな顔をした九尾は、だが直ぐに得心がいったように呟くと戸板に預けていた背を離した。夜風に揺れる緑の叢を白い素足が踏むと、風すら遠慮したのか木々の葉擦れの音がぴたりと止まり、耳が痛いほどの静寂が降って来る。

「流れものか?」

 さくさくと草を踏みながら歩み寄って来る九尾にますます体を縮こまらせながら、悦はこくこくと頷いた。この辺りに棲みついてからまだ半月と経っていない。

「だろうな。此処等の連中で俺の塒を知らねぇのは人間くらいだ」

 淡々と言いながら、九尾はすっと悦の目の前にしゃがみ込んだ。押し潰されそうな妖気は形を潜めていたものの目の前の妖が強大であるのには変わりなく、さらりとした色の薄い髪の上にある耳がひくりと震える。


「俺の縄張りに土足で踏み込んだ事は、…まぁその面に免じて勘弁してやってもいいが」
「…っ…」

 自分の膝に肘を置いて頬杖を突きながら、九尾は直視出来ずに俯いた悦の頬を指先でするりと撫でた。びくりと丸めた背を跳ねさせる悦を面白そうに見ながら、あやす様に頬を撫でていた指で悦の着物の襟を捉えるとそれをぐいと引きながら立ち上がる。

「あッ…」
「お前が騒いだ所為で折角の文が台無しになった」
「ふ、文…?」

 引き摺られるように立ち上がった悦の襟を引いて戸を開け放たれたままの小屋に戻りながら、九尾は怒っている風でも無く頷く。
 猫又の悦は文など書いたことも読んだことも無いが、九尾ほど高位の妖ともなれば人間の真似ごとをして戯れることもあるのだろうか。

 読めぬことは無いが書くことなど出来る筈も無い己が、九尾の文を台無しにした償いに一体何をされるのかと思うと震える程怖ろしいが、かといって逃げられる筈も無く、悦は引き摺られるままに九尾の塒だと言う小屋の戸を潜った。


「そうびくつくな。命まで取るとは言わねぇよ」
「でも、俺…文なんて…、っ!」

 困ったように笑う九尾の横顔を覗いながら土間を抜け、上等そうな夜具や煙草盆、黒に金細工の長持ちを横目にしながら座敷に上がった悦は、明かりとりの窓の下に置かれた文机を見て思わず一歩後ずさった。
 螺鈿細工の筆に水差しと、硯。本来なら擦られた黒い墨が入っている筈のそこには何故か赤黒い血が溜まり、文鎮の下には何かの―――恐らくは人間の背中の、皮が置かれていたのだ。

 …まさか。

「…おっと」
「っあぐ!」


 脳裏を掠めた恐ろしい想像に、掴まれた襟が裂けるのも構わず脱兎の如く逃げ出そうとした悦の足を、九本の尾の内の二本が絡め取る。
 両足首に絡みついたふさふさとした尾の所為で無様に畳に膝をついた悦の首筋を、背後から傑の手が掴んだ。咄嗟に逃れようと藻掻くが、九尾の手はびくともせずに子猫でも摘まみ上げるように悦を立ち上がらせ、壁に押し付ける。

「なンか要事でも思い出したか?猫又」
「う…ぁ、あ゛…っ」

 文机に膝を突いた体勢で首根っこを掴まれたまま壁に押し遣られ、漆喰の壁に擦れる頬骨と掴まれた頸椎がみしりと嫌な音を立てて軋む。息さえ儘ならない激痛に喘ぐ悦に、九尾はその耳元で揶うように囁き、笑いながら首の代わりに壁に突っ張っていた悦の腕を取った。

 頭上に持ち上げられた手首が壁に押し当てられると、硬い筈の漆喰が何の妖術かどろりと泥のように緩み、悦の右腕の手首から先がずぶりと壁の中に埋まる。


「なっ…!」

 驚き慌てて引き出そうとするものの、九尾の手が離れた壁は元のように硬くなり、引こうが押そうがびくともしない。狼狽している内に左腕も同じように壁の中へと埋められ、悦は文机の上で膝立ちになったまま、壁を見て万歳をするような格好から動けなくなってしまった。

 …嗚呼、おしまいだ。

 膝下で人間の皮が捩れるのを感じながら、悦は背後から伸びた九尾の手が襟首を掴むのに思わず目を伏せる。
 屹度己はこれから台無しにしてしまった“文”の代わりに、この下のもののように背中の皮をべろりと剥がされてしまうのだ。九尾は命までは取らないと言ったが、例え死なないとしても生きたまま皮を剥がれるのはどれほどの苦痛だろう。

 其れに之ほどの森だ。山犬は勿論他の妖も、この九尾を恐れてこの塒には近づかぬだけでごまんと棲みついているだろう。用済みとなって解放されたとしても、皮を剥がれた猫又がそんな森をうろついて無事で済む筈が無い。


「へェ…綺麗な肌だな」
「ぁっ…!」

 袖から紙のように爪に裂かれ、一枚の布となって落ちた着物を足で退けながら、九尾は感心したように言いつつ剥き出しの悦の背中をすぅと撫で上げる。冷たくしなやかな九尾の指先に背骨を辿るようにされて、思わず上げ掛った声を悦は慌てて呑み込んだ。

 若輩とはいえ悦とて猫又、妖の端くれとしての矜持はある。
 そもそも犬共を撒くことに気をやって、この庵の主に気付きもしない己が未熟であったのだ。この上どうあっても助からないと言うのなら、せめて無様に怯えはするまいと、…そうは思うのだが、畜生の性は隠せず磔にされた体が震えてしまう。


「だから、そう怯えるな。何も皮を剥ごうってンじゃない」
「…え?」

 意外な言葉にちらと背後を覗えば、九尾はどこか困ったように笑って剥き出しの悦の背をあやすように撫でる。


「言ったろう?命まで取る気はねぇよ」
「で、でも…」

 典雅な螺鈿細工の筆を取りながら言う九尾に、悦は恐る恐る自分の膝下の皮を見る。まだ持ち主から剥がされて間もないのだろう、腐る様子も無く生々しい柔らかさを持つそれの表面には、赤黒い文字が書かれていた。恐らく、皮の持ち主の血で。

「なに、お前には天狗共の代わりもして貰おうってだけだ」
「て、天狗…?」

 話が読めずに目を白黒させる悦に、九尾は何かを検めるように悦の背を見ながら頷く。

「俺の文を背負って、天狗の代わりに北の森までひとッ走りしてくれりゃいい」
「じゃあ…俺が、その…文の相手に、背を見せれば…?」
「あぁ。晴れて自由の身って奴だ」

 軽い調子で頷く九尾に、悦は思わずほぅと息を吐いた。そう言う事ならば確かに、命までは取られずに済みそうだ。

「墨の代わりにちょっとばかり血を貰うが…大して長い文面でも無い。早く済ませたけりゃァ大人しくしてろよ?」
「わ、かった…」
「お利口さんだ」


 其れで縄張りに踏み込んだ無礼が許されるのならば、と頷く悦の頭を、九尾は童にするようによしよしと撫でる。その手がそのまま首筋を這い、太い血脈のすぐ傍を鋭い爪が小さく切り裂いた。


「いっ…」
「……」

 じわりと滲む血があの螺鈿細工の筆に吸いこまれて行くのに耐えながら、悦は跳ねそうになる身体を必死に押し留める。くるりと丸まったままの尻尾が、主の代わりにふるりと揺れた。
 考えて見れば九尾程の妖が、迷い込んだ猫又如きに構う道理も無い。このまま大人しく従っていれば助かるのだ。背に書かれた文を、北の森に居ると言う相手に見せさえすれば…

「…動くなよ」
「んっ…うん…」

 不意に囁かれた低い声にぞくりと背筋を凍らせながら頷くと、冷えた己の血を吸った筆がするりと背を這う感触がした。濡れた毛先に撫でられるのはどうにもくすぐったく、身を捩って逃げたくなるのを如何にか堪える。

 …そう言えば、九尾が文を出す相手とは誰なのだろう。


「な…なぁ…」
「ん?くすぐったいのは堪えろよ。皮を剥がされたくなけりゃぁな」
「そう、じゃなくて…文を届けるの、って…」
「…あぁ、言って無かったか」

 さらさらと悦の背に筆を這わせながら、九尾はその美貌を覗う悦を藍色の瞳でちらと一瞥した。小野小町も頬を染めるような美しいかんばせが、ゆるりとどこか暗い笑みを浮かべる。


「こいつの相手は鬼だよ。北の森の、双子の鬼の片割れだ」
「鬼…?」
「あぁ。俺より百ばかり年若の筈なんだが、狐使いの荒い偏屈でね。折角文を書いてやっても、土産が無けりゃ受け取りやしない」

 文の相手は、これから背に文を背負って向かわされるのは、齢玖百を超える鬼。
 今日何度目か知れない、尻尾が逆立つような感覚にその横顔を凝視する悦に、九尾は一度筆を背から離しながら、くすり、と笑う。

 九尾の、狐の鋭く残忍な笑みだった。


「鬼の好物は人間だが…まァ、猫でも文句は言わねぇだろう」
「っ…そ、んな…!」

 ぞっと血の気が引いた。
 嗚呼、一度でも安堵した己が莫迦だった。九尾が鬼に宛てた文に添える土産、人間の皮と血文字代わりの其れが、悦だったのだ。
 皮を剥がされずに済むと言う事は、背の皮どころかこの身全てを、北の森に棲むという鬼の腹の足しにされてしまうという事だったのだ。

「い、命までは、取らないって…!」
「あぁ、取らねぇさ」

 ―――俺はな。

「ッ…や、嫌だ…っ!離せ…離せっ」
「ったく…暴れるなっつったのに、仕様のねぇ奴だな」

 口調こそ呆れた風だが、九尾の瞳は壁に呑まれた腕をばたつかせて足掻く悦の姿を見て明らかに愉しんでいた。びくともしない漆喰の壁に噛みつかんばかりに暴れる悦を横目に、手にしていた筆をかたりと文机の上に置く。

「これじゃ書くに書けねぇ。…ほら、甘い砂糖菓子をやるからお利口にしてろ」
「はなっ…んぐ!」

 くすくすと嗤いながら、九尾は喚く悦の唇に細い木の枝を横咥えにさせて塞ぐ。舌先で押し返そうとするが、九尾の指先に確りと抑え込まれてしまい、猿轡でも噛まされたようにさせられてしまった。


「んぅうッ!んッ…ん、ぅ…?」

 咄嗟に首を振って逃れようとした悦の視界が、くらりと揺れる。
 気付けば、腕が千切れんばかりに足掻いていた体にはすっかり力が入らなくなっていた。どうして、と思う頭の芯がぼうっと霞みがかったようにぼやけ、ぴんと毛を逆立てていた耳がぺしょりと垂れる。

「へぇ…こりゃ面白い」
「ふ、ぅ…んんっ…は…っ」

 嗤う九尾の指先が押し込めていた枝が唇から離れていくのを、悦は咄嗟に舌で追っていた。蜜のように蕩けた瑠璃色で恍惚と枝を見つめながら、端にマタタビの葉をつけた枝に唇を寄せる。
 枝を持つ九尾の指ごとしゃぶりつくと、頭を蕩けさせる甘い香りが更に強くなった気がした。本物の砂糖菓子にするように舌を這わせ、甘えるように頬を摺り寄せる悦の黒い尻尾を、九尾がするりと撫でる。


「ふにゃ…ぁ…ッ」
「そうそう…そのままイイ子に、な?」


 嗚呼、逃げ…なきゃ…殺され…鬼、に…喰われ…て…

 マタタビによって蕩かされてしまった頭の中、辛うじて平静を保っていた部分があやす様な九尾の声にいやいやと首を振らせるも、腕を呑んだ壁はぴくりとも動かず自由が効かない。
 それでも何とか逃れようと、力の入らない体を捩ろうとした悦の背に、ひやりとした筆が這った。


「ひっ…ぁ、…にゃ…ぁあ…ッ」

 ぞくぞくと体を震わせる悦に構わず、九尾はさらさらと悦の血を吸った筆先を肌に這わせていく。首筋の傷口に筆が宛がわれ毛先に血を吸われると僅かな痛みが走ったが、マタタビに浸された体にそれは却って毒となった。
 戦慄く悦の唇からことりと枝が落ちる。とろとろと体の芯を溶かされて行くような感覚はゆっくりと下肢に集まり、淡々と進む筆が背骨の真上に至った途端、ぼんやりとしていた愉悦がはっきりとした輪郭を持って悦の脳裏を染める。


「あっ、ふ…筆、やめ…ぁあ、あッ…!」
「筆が嫌なら…爪で彫ってやろうか?」

 どこか呆れたような声の九尾が、びくびくと跳ねる悦の背に筆の代わりに己の鋭い爪を宛がう。針のようなそれに皮膚を削られ刺すような痛みが走るが、九尾の思惑を外れて悦の体はその刺激すら悦ぶように尾を揺らす。

「あぅっ…う、ぅ…い、痛ぁ…っぁあ…ッ」
「…どっちでも同じじゃねぇか」

 ふぅ、と息を吐き、九尾は悦の血に濡れた己の爪先をちろりと舐めた。
 大人しくさせようとマタタビを与えたが、これでは却って逆効果だ。触れる度にこうも動かれたのでは文どころでは無い。

 面倒だ、矢張り皮を剥いでしまおうか。藍染めの瞳の奥で思案しながら、九尾は差し込む月光に照らされた、猫又の白い背を眺め―――剥いだ着物が纏わりついたその腰が、悩ましげに揺れているのを認めて双眸を細める。


「枝を相手に発情か?」
「あ…っ」
「…節操のねぇ化け猫だ」

 首筋に顔を埋め、発情期特有の匂いを吸い込みながら喉の奥で笑ってやれば、悔しいのか小さな牙の覗く唇をきゅっと噤んだ。しかしそれも長くは続かず、九尾の見ている前で濡れた唇がゆるりと熱を孕んだ吐息を零す。

「ん、ん…ぅ、あ…っ?」

 抵抗するのも忘れてぼうと潤んでいた悦の瑠璃の瞳が、ずぶりと漆喰の壁がぬかるむ感触に軽く見開かれた。背後から九尾に掴まれた腕がずるりと壁から抜け、壁に向き合うようにされていた体がぐるりと反転させられる。


「な、何…ふぁ、あ…っ」
「文の代わりにしようかと思ったが…気が変わった」

 頭上で掴まれた腕を再びずぶずぶと壁に埋められ、冷たい泥のような漆喰の中に指先が呑まれる感触に身を震わせる悦を正面から見据えながら、九尾が笑みを孕んだ声で言う。

「お前は三味の代わりだ」
「は…?…、あッ」


 どういう意味だと問う前に九尾の指先が閃き、裂かれた着物を腰で留めていた帯がするりと解ける。文机の上にばさりと落ちた着物を九尾は足で脇に退け、下帯一枚にされた悦にすっと目も眩むような美貌を近づけた。
 残忍で狡猾な狐の藍色の瞳が、魅入られたようにそのかんばせを見上げる悦を見据えてゆるりと細まる。


「猫なら謡うのは得意だろ?…精々良い声で頼むぜ」










 焦らすように周囲をくるくると撫でた筆先が、つんと赤く膨れた胸の先端を上からそっと撫でる。

「ぁ…はぁ、あ…っ」

 触れるか触れないかの絶妙な位置で何度かくしゅくしゅと頂点を弄ばれた後、寝かされた柔らかい筆にそこを包むようにされ、悦は自由の効かぬ体をもどかしげに捩った。

 九尾の狐に見えるのはこれが初めてだが、例え尾が何本あろうと、狐というものは総じて残忍で狡猾なものであると決まっている。
 だが。屹度、皮を剥がされ肉を削がれ、眼を抜かれるような苦痛に咽び泣かされるのだろうと、熱に浮かされた体を震わせていた悦を、九尾はその爪でも牙でもなく悦の血を吸った筆で弄んでいた。唇からは血を吐くような絶叫では無く、盛った体をゆるゆると嬲られる愉悦への嬌声が漏れてゆく。


「ふ、ぅっ…く…ぅんん…っぁ、あぅ…!」
「隠すなよ。…聞かせろ、全部」

 声を殺そうと唇を噛み締めた途端、九尾のしなやかな指先に前髪を引き上げられ低く囁かれた。腰をぞわりと疼かせるその声に従えば、髪を引いていた手に頭上で震える耳をくにくにと撫でられ、鼻にかかった甘い声を上げさせられる。

「あぁッ…ぁ、ああ…っ」

 散々右を嬲ってから、戯れのように鎖骨を擽り、今度は左へ。
 浅ましい期待にその毛先を目で追ってしまう悦を嗤うように空を踊った筆は、先程まで悦の血を吸って赤く染まっていた筈なのに今はもうすっかりと乾いていた。雪のように白く滑らかな筆の毛先がゆるりと肌を滑り、はあはあと荒い息と共に上下する乳首にひたりと宛がわれる。


「はあぁっ…!」
「…随分気に入ったみたいだな、この筆が」

 するりするりと筆で上下に悦の乳首を撫でながら、藍の瞳を愉快げに細めた九尾が低く喉の奥で笑う。

「是はさっき言った鬼の寄越した筆でね。齢伍百かそこらの銀狼の毛を遣ってる」
「あっ、ぁっあ…、あ…!」
「其処等じゃお目に掛れない上等の筆ってわけだ。こいつに目をつけるとは…鼻と違って肌の感度は良好らしいな」
「だ、だま…ひぅッ…!」

 業とらしく感心したように言って揶う九尾を咄嗟に睨めつけようとするものの、潤み蕩けた瞳では猫又の眼力も効果が無い。胸板を離れた筆に傷の残る首筋を撫で上げられ、怯えだけでは無い声と共に首を竦める様をまた嗤われる。

 口惜しさに壁に呑まれた腕を動かすが、九尾が触れていないそれは矢張りただの漆喰で、悦の両の腕を肘近くまで喰い締めたまま動かなかった。


「なんだ、此処だけじゃ物足りなくなって来たか?」
「あっ…ぁ、あぁ…!」

 文机に膝をついた悦の脚の内側を、筆よりも滑らかな九尾の尾の一本がゆるりと撫でる。足首を撫で太股を這い、唯一纏った下帯の傍まで迫る筆よりも柔らかく滑らかな尾に、文机についた膝が戦慄いた。

「何とか言えよ。黙ってちゃ解らねぇだろ?」
「っ…ん、ぁ…!」


 笑みを含んだ声で問う間も、九尾の柔らかな尾は器用に動いて皮膚の薄い悦の内腿を擽るように撫でていく。ふさふさとした柔らかな毛に唯一纏った下帯を、その下で熱を孕んで張り詰めた下肢を羽が触れるようにそっとなぞられると、もう眼先の甘美な快楽から目を反らす事は出来なかった。

「そ、そこ…っ」
「うん?」
「さ…わ、って…ッ」

 口惜しさと羞恥、そしてそれを上回る浅ましい期待に頬を染めながらねだれば、ゆらりと尾を揺らした九尾がその藍色の瞳を面白そうに細め、つぅと唇の端を吊上げ笑う。
 それは己の手管にいとも容易く陥落していく猫又を嘲ける笑みでは無く、まるで童が新たな遊戯を見つけたような、心底楽しげなそれだった。


「随分苦しそうだな。雌みたいに胸を弄られるのがそんなに好かったか?」
「あ…だ、だって…っにぅ…!」

 それはお前がマタタビを嗅がせ、筆で厭らしく嬲ったからだ。
 下帯を取り払い、硬く張り詰めて蜜を零すそれを見ながらの揶揄うような声に言い訳じみた言葉が口をつくが、震える声での恨み言は最初の僅かばかりしか言葉にならず、乾いた筆に先端で玉になった蜜を掬い取るようにされて代わりに甘い悲鳴が上がる。

「ああぁッ…あ、ふ…はぁ、あぁ…っ!」

 生きた年相応に色事には慣れていると思っていたが、千年を生きた九尾の手管は悦の想像以上だった。
 筆をまるで舐めるように先端に這わせ、悦の体液を吸って僅かに湿った筆先で、雁首の下の敏感な箇所をこしょこしょと擽られる。今まで経験した事の無い種類の刺激にひくつく裏筋を筆全体でつぅと撫で下ろし、根元近くで折り返して撫で上げながら先端に。濡れて纏まった毛先で次々と蜜を溢れさせる小さな穴をつつかれ、縁をなぞるようにされて、悦は堪らず自由の利かぬ体を捩った。


「ひにゃっあ…ッぁあ、あっあぁあ…っ!」
「此処が好きみたいだな」

 弐百年を生きた猫又の自分が、筆を相手にまるで子猫のように鳴かされている。これ以上に口惜しく屈辱的な事も無い筈だが、最初からそうと解っているかのように的確な九尾の愛撫の前では、半端な矜持など意味をなさ無かった。
 やや低く、耳朶を溶かされてしまいそうに甘く響く声に囁かれながら、特に堪らない先端の一つ目をくしゅくしゅと筆に犯され、それだけで達してしまいそうな快感に文机に膝をついた足がびくびくと震える。

「あッ…そ、そこ…あぅうっ!」
「…猫にしても良い声してるよな、お前」
「は、ぁあっ…みゃッ!?」

 それまでの笑みを消した静かな声と共にちろりと頬に濡れた感触が這い、蜜口を筆に掻き乱される愉悦に夢中になっていた悦は素っ頓狂な声を上げて首を竦ませた。目を丸くしていつの間にか顔を寄せていた九尾を覗えば、藍色の瞳を持つ狐は桃色の舌でちろりと己の唇を舐め、見せつけるようにゆっくりと身動きの取れない悦の首筋に顔を寄せる。


「な、なにっ…は、ぁふ…!」
「俺好みだ。…鬼の餌にくれてやるには惜しい」

 急所の首に牙が近づく事に本能は恐怖を感じて鳥肌を立てるが、筋を辿るように舐められた其処を啄ばむように唇にちゅくり、と食まれると、快楽の余韻に弛緩していた体が強張った。
 元より九尾のような神に近い力を持つ高等な妖の思惑など悦には解るべくも無いが、この言動は輪を掛けて不可解だ。九尾の狐がこんな、大した力も持たない猫又に少なからず興味を抱いたような言動は。


「…っ…」
「だからそう怯えるな。お前が気に入ったと言ってるんだぜ?」

 狐は残忍なものだが、それ以上に狡猾だ。何を考え、何をされるのかと怯えながらも腕を捉えられた体では、いやそもそも九尾が相手では五体満足であっても悦に逃れる術など無く、身を縮こまらせる猫又に、九尾は鼻先が触れるような距離でそう甘く囁いた。

「当面はお前を誰に喰わせる気も無くなった。余計な事は考えずに子猫みたいに鳴いてりゃァ、生きたまま極楽に連れて行ってやるよ」

 数多の種族の雌が軒並み腰砕けになるような殺し文句を平然と吐いて、九尾は筆を持たぬ方の掌で悦の下肢をゆるく握った。
 ひんやりとした彼の手には術でも掛っているのか、萎え掛けたそれを数度軽く扱かれただけで悦の下肢は血が逆流したように張り詰め、息を詰めていた唇から吐息が漏れる。至近距離でそれを聞かれることに今更ながらに羞恥を感じたが、九尾は機嫌良さそうに暗い髪色の上の耳をぴくりと揺らし、指の腹で散々筆に弄られた先端を撫でた。


「あッぁああっ…ん、んン…っ?」
「お前の体はこの筆が好きらしいからな」

 くるくると長い二本指で撫でられていた箇所に不意に力を掛けられ、不安そうに潤んだ瑠璃色で美しい横顔を覗った悦に、九尾は宥めるようにそう言って遊んでいた筆を持ち直した。

「っひぁあ!?」

 九尾の指先にぐっと力を掛けて押し開かれ、露出させられたとろとろと蜜を溢れさせる小さな穴を寝かされた筆にくちゅりと舐められ、今まで経験した事の無い箇所への、だが快感には違いない感覚に悦はびくりと白い肢体を跳ねさせた。

「や、やめっそれ…ッふあ、あっあぁああ!」

 未知の感覚を恐れて悲鳴のような声を上げるも、筆の動きは一度では止まらなかった。どっと蜜を溢れさせた特別敏感なそこを、立たせた筆の毛先でゆっくりと前後に撫で擦る。

 筆と指に可愛がられ、その度に少しずつ皮膚を削られ神経を剥き出しにされたように敏感になった粘膜。僅かの間肌から離れる内に、体液が冷えてひんやりとした筆。そして感じている様を先程よりもずっと近くで見られ、聞かれているという羞恥。それ等の要素が全て悦の情欲を煽りたて、身悶える程の愉悦へと帰結していた。
 痛む腕も忘れて身を捩るが蜜口を嬲る筆の動きは止まらず、緩慢だが確実に快感を引き出すその愛撫に、次第に体中の力が吸い取られるように抜けて行く。


「あぁっあぁあ…!はぁッ、あぁぁ…っ!」

 くったりと力が抜けた体を震わせながら、筆にそこを嬲られる快感をただ享受する以外に無くなった悦を、九尾は筆の動きを変化させて更に溺れさせた。引っ切り無しに溢れる蜜を掻き乱すように激しく動かせば、今度は慰めるように優しく。広げられ赤く充血した周囲をゆるゆるとなぞり、悦がもどかしさに身を捩り、寸前で生殺しにされる辛さに涙を浮かべるまで焦らしてから、また思い出したように激しく蜜口を掻き回す。


「ひぁあッあ!あぁあっッ…あ、…や…やぁあ…っ」

 三か四度目のお預けの頃には、目に見えて緩んだ責め手にまた延々焦らされると気付いた悦は最初から涙を流して哀願するようになっていた。規則的な変化を繰り返される度、どんどん長く伸ばされているように感じる生殺しの間は、悦にとっては永劫とも思える程に甘く切ない苦しみの時間だ。

「や、やだ…っまた、…ぁあぁ…ッ」


 最早恥も外聞も無く、聞きわけの無い童のように泣きじゃくって嫌々と首を振るも、悦が刺激を望んで哀願すればする程に、九尾は筆を動かす手つきを緩慢なものにしてしまう。
 滴った蜜に濡れた裏筋をゆっくりと撫で下ろされ、その下でぱんぱんになった左右の袋を羽が触れるように緩く擽られる。一切の刺激を止められれば気を反らす事も出来るというのに、九尾はそんな一時の逃避すら許してはくれず、確実に情欲を煽りつつも決して望みを満たすことの無い絶妙な刺激を与えて悦を苛むのだ。


「あっぁ…も、やだ…それ、嫌っ…ひぅんンッ…」
「その割には随分嬉しそうだけどな?」

 頬を涙で濡らしながら切なげに喘ぐ悦を見て愉しげに双眸を細めながら、九尾は更に下へと下ろした筆でぐりぐりと会陰を押し上げる。そのまま出してしまいそうな感覚に陥るのに達する事は出来ず、目の前に極上の一瞬をちらつかされながらも解放させて貰えない辛さに、悦はぎゅっと目を瞑ってか細い悲鳴を上げた。
 喘ぎ声の合間に悦がいくら憐憫を誘う仕草や声音で懇願しても、それまでと同じように九尾がそれに応じてくれることは無かった。その手管に囚われた悦に抗う術など有る筈も無く、意地の悪い狐が満足してくれるまで、無駄と知りつつ涙混じりの悲鳴を上げなければいけない。


「っ…もう…おねがい、だからぁ…!」
「何が」
「も、と…つよ、く…触、って…っ」
「ふぅん?…強く、がいいのか」

 繰り返す九尾の口調は意味深だったが、初めて己の懇願を聞いて貰えたと思いこんでいる悦にその真意を推し量る余裕など有る筈も無かった。
 藍色の瞳がどこか意地悪く細められたのにも気付かず、夢中で頷く。

「成る程。…それなら、」
「ぁっ…え、…?」

 得心がいったように頷いた九尾が筆を持ち直し、会陰に宛がわれていた筆が前ではなく後ろに滑る。
 何を、と考える暇は悦には無かった。

「ひに゛ゃ!?」
「是で満足か?」

 奥の窄まりに押し当てられた筆がそのままずるりと中に入り込み、濡れた無数の柔らかい毛に体内を撫でられ押し広げられる、異様な感覚に悦は尻尾の先まで毛を総毛立たせて悲鳴を上げた。
 笑みを含んだ九尾の言葉も耳に入らない。はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら、まんまるに見開いた目を白黒させる悦をくつくつと喉の奥で笑い、九尾は先端のほんの僅かな分だけを中に埋めた筆をくり、と捻る。


「ほら、力抜け」
「っぬ、抜い…は、ぁ…く、るし…!」
「…仕様のねぇ奴だな」

 九尾の無茶な注文を聞いている余裕など無く、臓腑を押し上げられるような酷い圧迫感に浅く息を吐きながら掠れた声で訴えれば、困ったように笑った九尾にちろりと唇を舐められた。

「な、…んっ…ん、ふ…んぅう…!?」
「……」

 戸惑い声を上げようと開いた唇の合間から、するりと入り込んだ九尾の舌先が悦のそれをあっと言う間に絡め取る。接吻をされているのだと気付いて見開いた目が、至近距離で九尾の藍色とかち合った。
 淡い月夜を閉じ込めたように深い双眸に真正面から射抜かれ、それと同時に囚われた舌を根元からしゃぶるように吸われて、触れた箇所を蕩かされていくような心地よさに一瞬、脳裏を占めていた圧迫感から意識が反れる。


「ん、ん…ぅんんッ…ん、は…ぅ…っ」

 気を反らした隙に体内に留まる筆が僅かに押し込まれ咄嗟に息を詰めるも、一度解かれた舌を再び絡められ、薄い肉の隅々までを柔らかい舌に愛撫されて知らず知らずの内に強張る体から力が抜ける。九尾の言った通りに出来ている所為か、心持圧迫感も先程よりはましになったようだった。

 巧みな接吻で悦の気を反らさせながら、九尾は筆が含んだ水分を馴染ませるようにしながら体内に潜り込んだそれをゆるゆると奥へ進めてくる。捩れた筆の穂先が全て身の内へと入り込み、何かを探るように少し角度をつけて内壁を押すようにされると、異物に鳥肌を立てていた体を奇妙な感覚が襲った。


「んっん…んッ、は、んぅう…っ?」
「…此処か」

 得体の知れぬ感覚に眉を顰める悦を余所に、舌先で互いの唇を繋ぐ銀糸を舐め取った九尾はどこか楽しげに呟いた。長く舌を愛されて上がった悦の息も整わぬ内に、狭い箇所に無理に押し込まれた所為で逆毛になった筆の毛先を、先程押し上げた箇所に擦りつけるようにして捻る。

「は、ぁっ…あ、あぁうっ!?」

 筆で体内の一点を擦られた瞬間、悦の体を貫いたのは紛れも無い快楽だった。しかしいつものそれとは少し種類が違うし、何より今筆に擦られたのは己でも触れた事の無い身の内側。

「息を止めるなよ?余計な事は考えるな、何も怖いことなんてしちゃいない」

 悦が自身の体の反応を訝しみ不安に思うより早く、九尾が先手を打ってそう言った。言いながらぐるりと筆を捻られて、会陰を押し潰された時にも似た、しかしそれよりもずっと確かで強い愉悦に知らず身が跳ねる。


「はぁあっ…あ、あッそ、それ…変、に…なる…!」
「変じゃなくて気持ち良いんだろう?こんな処を、雄の癖に雌みてぇに犯されて」
「ち、違っ…あぁっあ、あぁあ…っ!」

 内心の混乱を映してぴくぴくと震える頭上の耳に厭らしく囁かれて、咄嗟に首を振るも甘い喘ぎ声が上がるのを止められない。陥落は心よりも散々焦らされて快楽に飢えていた体の方が早く、僅かに引き抜かれて先よりも深くまで突き入れられても、殆ど不快さは感じなかった。寧ろ、


「それも、指でも一物でも無い筆にな。…言えよ、好いんだろ?」
「んぁあっ!あ、あぁっ…はぁうぅっ…!」

 驚くほど大胆に動くようになった筆が、狭いそこを内から押し広げるようにしながら出し入れされ、上下に動く間にも絶妙に一点を擽っていく。緩やかなその抽挿が殊更に悦に犯されている、という意識を強くさせ羞恥を煽るが、解放を望む体はそれすら淫靡な熱へとすり替え、艶のある九尾の甘い囁きに頷いた。

「い、好い…っき、もち…は、ぁあ…っ!」
「良い子だ」
「あっあ、ぁんンッ…ぁ、ふあぁ…っ」

 満足そうに笑んだ九尾は、だが優しい声音で悦を褒めながら筆を抜いてしまった。如何して、と戸惑う悦の文机についた膝の傍へ、銀狼の毛を使った典雅な螺鈿細工の筆がことりと落ちてくる。

「猫又、お前名は何て言う?」
「え、悦…」
「俺は傑だ。悦」

 甘い声に呼び掛けられてじわりと熱が上がると同時に、悦は九尾が事も無げに口にした名に軽く目を見開いた。まさか己より遥かに高位な存在である九尾狐に、その真名を教えて貰えるとは夢にも思っていなかったからだ。

「お利口に俺を愉しませてくれたお前には、相応のご褒美をやらなきゃな」
「ごほう、び…?」

 長い爪を有した九尾の指先が、するりと手櫛で悦の髪を梳いていく。その手つきがあまりにも優しく、まるで愛しい者にするようであった為か、こめかみに有る爪の鋭さを怖いとは思わなかった。
 斯うして囚われているのは縄張りを荒らした見返りであった筈なのに。訝しみながらも問い返せば、九尾は、傑はくすりと笑って自らの帯を解いた。

 畳の上に解けた帯が音も無く流れ、するりと開いた袷から夜気の中に美しい肢体が晒される。不要な物など何一つ無いような、貧弱な己の其れと比べて余りにも完成された体に見惚れていた悦は、自らが膝下にしていた文机が何時の間にか消え失せて足裏を畳に着けていた事にも気付かなかった。


「あっ…」

 すっと傑の身が寄せられ、膝裏に手を差し入れられた片足が腰の高さまで持ち上げられる。漸く彼の真意に気付いて思わず傑の腰を見やった悦は、其処で硬くそそり立つものに生娘のように顔を熱くした。

「…言ったろう?良い子に鳴いてりゃァ、極楽に連れて行ってやると」
「っ…あ、ぁあぅ!」

 筆に濡らされ解された奥にひたりと熱く硬いものが押し当てられ、ずぐり、と狭い肉を押し開く。
 筆等とは比べ物にならない質量のそれは、ほんの先端が入り込んだだけで酷い息苦しさを感じさせたが、同時にそれから流れ込む触れた粘膜をぴりぴりと痺れさせる程の強い妖力に歓喜した猫又の身は、もっと深くまで受け入れようとする。


「っは、…はぁっ…あ、く…ぅ…っ!」
「…さすがに、狭いな」

 他に無いほど純粋で強力な力を貪欲に求め、自然と体は受け入れるように脈打ってそれを奥へ奥へと誘い込むが、矢張り其処は雌のようにはなっていない。体を串刺しにされたような酷い圧迫感に白い喉を晒して喘ぐ悦の首元で、傑が苦笑混じりに呟いた。

「あっぁア!…っは、…はぁあ…ッ」
「そんなに喰い締めるなよ。加減無しに犯したくなる」
「ひぐっ…んぁ、あっ…、はぁぅうっ」


 慣らす様に軽く揺すられただけで腹を突き破られそうだった。痛みと苦しさと火傷してしまうのではないかと思う程の熱さに、瑠璃の瞳に薄らと涙の膜が張り焦点の合わない視界が更にぼやける。

「少し堪えろよ」
「ッま、待っ…んんぅっ!」
「なに、直ぐに慣れるさ。お前なら」

 律動の気配に慌てて悦は声を上げるが、そんな悦を余所に傑はどこか愉しげにそう言うと、余りと言えば余りに立派なものを軽く引き抜いて突き上げる。
 こんなものに慣れることなど無理だ。畳についた片足をがくがくと震わせながら悦は恨めしげに傑を睨みつけるが、直後にゆるゆると出し入れされていたものの先端があの一点に触れ、その途端に雷にでも打たれたように体を貫いた愉悦に、とろりと潤んだ瑠璃が蕩ける。


「あぁああっ…!は、ひぁっ…な、で…あうぅっ」
「…ほら見ろ」

 苦痛に違い無いと思っていた行為に快楽を感じる己の体に戸惑う悦を余所に、傑はしたり顔で囁くと、先程よりも強くその熱いもので悦の内壁を突き上げた。弱い一点を見ているかのように的確に狙われて、痺れるような快感が腰を蕩けさせる。

「あっあぁ、あ!は、ぁあ…あっ…!」

 突き上げられるのに合わせて切れ切れの嬌声を上げながら、悦は漆喰の壁に戒められたままの両の腕をもどかしげに動かした。腰から下が溶けていくような浮遊感が不安で、無性に何かに縋りつきたかった。

「ひにゃぁ、あッ…きゅ、九尾、ぃ…っ」
「傑」
「っ…す、すぐる…あぁッう、腕…!」
「痛むか?」

 即座に訂正されて、最早強大な九尾狐の真名を呼ぶのに抵抗を覚える事も無く掠れた声で呼ばえば、頬を撫でていた傑が壁と腕との境目を心配そうに撫でてくれた。擦れて僅かに赤くなった肌を撫でられるだけでも、それをしているのが彼の指だというだけで悦にはむず痒いような心地よさだったが、違う、そうじゃないと首を横に振る。

「さ、わり…あッ…おれ、も…っ」
「うん?」
「っはぁ、あぁあッ…に、げな…から…あぁっ!」

 止まぬ律動に揺さぶられながらの声は途切れがちで上手く伝えられず、傑は怪訝そうな顔をしていたが、其れでも賢い狐は悦が何やら必死であるのは察してくれたらしい。冷たい壁に触れると、途端にどろりと泥のようにぬかるんだそこから悦の腕を引き出してくれる。

 長く頭上に上げていた所為か、それとも与えられる夢心地の快楽の所為か、壁から出された掌は微かに震えて感覚が鈍かったが、悦はそれを気に留める事無く両の腕を傑の背中に回して縋りついた。


「はぅ、うっ…こ、した…か…った…ッ」
「…そうか。気付いてやれ無くて悪かったな」
「あぁあっ!ひぁ、あっ、あぁあっッ」

 首筋近くに顔を寄せた傑が僅かに低くなった声でそう言い、其れに何を返す間も無く一層に強く突き上げられて、悦は手放しに鳴きながらぎゅうと傑の肩口にしがみ付く。
 貫かれる苦しさも痛みも、目の前が白くなるような愉悦の前に嘘のように掻き消えていた。深く浅く、柔らかい中を突かれる度に巧みに一点を擦られて、悦の下肢からもとろとろと蜜が溢れる。

「びしょ濡れだな」

 繋がった箇所に流れ込む程、しどとに濡れそぼった悦のものに気付いた傑が、するりと脇腹を指先で撫で下ろしながらくすりと笑った。腰骨をゆるりと伝った指が、がくがくと頼り無げに震える足の内側をつぅと撫で上げていく。
 焦らすように肌を滑った指先が、ひくひくと苦しげに震える下肢をやんわりと握り込み、―――先程より体温の上がった、暖かい其の手の感触を感じると同時に、悦の視界を真っ白な閃光が焼いた。


「あッ…―――っッ!」

 声も上げられなかった。
 暴力的な快楽は一瞬にして悦の意識を嵐に揉まれる木の葉のように吹き飛ばし、そうと意識する暇もなく悦の下肢は傑と己の腹の合間に精を放っていた。傑の背中に爪を立てて縋りついたまま一瞬意識を飛ばした瑠璃色を、どくりという脈動と共に身の内に注ぎ込まれた熱が現へ引き戻す。


「っ…は、」
「ぁ…ひ、ぁ…っ!」

 耳を熱く掠れた傑の吐息が掠め、自身が達した事にすら気付かぬまま、体中が蜜となって蕩けてしまったような法悦に浸る悦の喉が掠れた声を漏らした。

「今のはやられたな。…全く、愉しませてくれる」
「は…はぁっ…ぁ、…!」


 ずるり、と達したものを引き抜きながら苦笑混じりに呟く傑の言葉も、今の悦の意識には届いていなかった。半ば伏せられた瑠璃の瞳は弱々しく瞬きを繰り返しながら、焦点を結ばずに虚空を見つめ、ずるり、と力を無くした腕が傑の着流しを乱しながら肩を滑る。
 縋るものを無くして倒れ込もうとする体を、伸ばされた腕が寸での所で引き留めた。

「っ…ぁ…」

 触れた肌に薄い瞼が微かに震え、
 そして柔らかくも確りと抱きとめてくれるその腕に、漸く安堵したように伏せられた。










 滑らかなものが畳を擦る音に、文机の前に坐した傑は瑠璃の酒杯を手にしたまま、藍色の瞳だけを動かして座敷に敷かれた白い夜具を一瞥する。


「…ん、……」
「……」

 布団を膨らませている猫又が小さな声と共に寝返りを打ち、傑の方を向いた寝顔の目元を蜂蜜色の髪がさらりと流れて覆った。布団からはみ出た黒い二股の尾が、畳の上をゆらゆらと動く。
 頬杖を突いて手酌で酒杯を傾けながらそれを眺めている九尾狐の尾が伸び、その目元を覆い隠す絹糸のような髪を器用に払う。ふさふさとした尾の毛先が触れると眠る猫はくすぐったそうに顔を半ばまで布団に埋めたが、寝苦しいのは解消されたのか直ぐに穏やかな寝息を立て始めた。


「…良く眠るな」

 …流石は猫だ。

 一息に干された酒杯の中に、尾の一本が畳から徳利を持ち上げて透き通るような酒を注ぐ。悦の前髪を払ってやった尾は、しばらく寝息にそよぐようにその傍らでゆらゆらと揺れていたが、細められた藍の瞳が反らされると同時に、他の六本と同じように傑の背に戻った。

「さて…」

 頬を支えるのと酒杯を持つのとで塞がった両の手の代わりに尾が持つ筆が、主の内心を映すように思案げに虚空を撫でる。
 まるで先に吸っていたものの存在など無かったように、銀狼の毛を使った筆先はたっぷりと黒い墨を吸っていたが、いくら揺らされてもその毛先から、文机に広げられた半紙の上に黒い雫が垂れることは無かった。

 帯を巻かず軽く着物の袷を合わせただけの、遊里に遊ぶ大名の御曹司のような姿のまま、傑は更に二度ほど酒杯を空け、瑠璃の杯が三度満たされた処で、ふとその視線を文机の端へとやった。


 そこに転がるものを、九尾狐は詩歌を練る貴族のような面持ちで暫く見つめ、

「……」

 藍色の双眸が、ふっと笑みを浮かべた。










 …暖かい。

 昔、ずっと昔、まだ尾も分かれずにいた、本当にただの子猫だった頃。
 棲みついていた屋敷の縁側、親とも兄弟とも逸れ死にかけていた己を拾ってくれた人間の膝の上で、お天道様に照らされながらとろとろと昼寝をしていた時のようだった。

 時折撫でてくれる手が心地よくて、まどろみの中で尾がゆらゆらと揺れる。腹は満たされていて、塀の内で飼われた子猫に敵など傍に居る筈も無く、何もかもが穏やかだ。


 そう、嘗ては毎日が斯うだった。
 親も後ろ盾も無く、化け猫になる前までは、性悪な人間がばら撒く妖封じの札に怯えることも、他の妖の気配に跳び起きることも、一夜でも落ちつける場所を探して足を棒にする事も無かった。得た物は勿論大きく、今更ただの猫に戻るなど嫌だったし何より不可能だが、失った物とて無いでは無かった。
 だが、其れも直ぐに取り戻せると。こんな落ちつかない暮らしは、もう少し生きて力を蓄えるまでだと、それまでの辛抱だと思っていた。

 明日消え失せるやも知れぬ己の頼り無さに、必死に目を反らしながら。


 ゆらりと大きく揺れた尾が、板張りの縁側には無い筈の畳に触れる。
 嗚呼、敷居を跨いだのか。其れとも気付かぬ内に抱き上げられて屋敷の中へと入れられたのだろうか。其れにしては体中がぽかぽかと日向ぼっこをしているように暖かい。違う。今の己は餌付された子猫ではなくて、今は。


 目が覚めた。


「ん…、…」

 瞼を開いたと思ったのに、相変わらず視界は暗いままだった。ぼんやりとした頭で数度瞬きをしてみると、それは暗いのではなく、目の前に黒い布がある所為だと知れた。
 久しぶりに深く深く寝入っていた所為か、未だ頭がはっきりとしない。そのはっきりとしない頭のまま、悦は特に何を考えるでもなく視線を上へと上げた。


 其処に有ったのはもう思い出せない人間の平凡な顔では無く、稀代の名人が画いた錦絵も霞むような、麗しい九尾狐の美貌だった。

「起きたか?」
「…あ、」

 その鼻先が触れ合うような距離が呼び水となり、意識を失うより前の事を悦ははっきりと思いだした。そうだ、己は昨夜この九尾の狐の縄張りに踏み込んで、壁に腕を囚われ、筆に、彼に嬲られて、何が何やら解らなくなるような快楽の中で意識を。
 …然し、それでは如何して己はこんな処で寝ているのだろう。枕元に肘を突いて軽く身を起こした九尾の胸元に顔を埋め、彼に背中を撫でられて、それも柔らかな布団の中でだ。


「良く眠れただろ?此処は静かだからな」
「はぁ…」

 寝乱れた髪を手櫛で梳かれながら、薄く笑う九尾に言われて、悦は気の抜けた声を出した。確かに此処は、こんなに深い山の最奥に有るとは思えぬ程に静かであるのに違いなかったからだ。

「…なんで…」
「うん?」

 問うてみたはいいものの、その先を何と繋げるべきか解らずに結局悦は口を噤んだ。不思議な事も、問いたい事も山のようにあったが、多すぎて今更どれを尋ねたものか解らない。
 そもそも己が斯うして今も息をしている事が不可解だ。初めて見えたその時から、この九尾の狐の挙動は一つたりとも悦の思う通りになってはくれない。


 其れでも九尾狐が相変わらず不思議そうに此方を見ている以上、このままだんまりを決め込む訳にもいかず、悦は取り敢えずそろりと布団の中で彼から身を離しながら、一番の不思議を口にした。

「鬼に…北の森の鬼に喰わせるんじゃ無かったのか、俺の事」
「あぁ、それは止めにした」
「…如何して」

 余りにもあっさりと寄越された返答に思わず問い返せば、九尾の狐は如何して?と悦の言葉を繰り返して呆れたような顔をした。

「如何も斯うもあるかよ。昨日言ったろう?」
「何、を…」
「俺はお前が気に入ったんだ、悦」


 九尾の狐の声音は深く甘く、他のどんな音よりも耳に心地よかった。マタタビで酔った所為かと思っていたが、素面で聞いてもそれは変わらない。
 その極上の声で、千年を生きる強大な妖である九尾狐は、高々弐百年生きただけの猫又に向かって、揶うでもなく嬲るでもない至って真面目な調子で臆面も無くそう言った。

「折角のお気に入りを、如何して鬼の餌なんぞにくれてやると思う?」
「だって、俺はあんたの縄張りを…犬共を連れ込んで喧しくした所為で、文が」
「まぁ確かにきゃんきゃんと五月蠅かったが、其のお陰で斯うしてお前を知れたんだ。そう思えば腹も立たねぇよ」
「……」

 此の狐の言っている事は本当だろうか。
 …否、本当である筈が無い。暖かい布団と自分の物では無い体温から離れるのを嫌がる体を、無理矢理引き剥がすようにして悦は布団から抜け出した。

 体が重く、腰が鈍く痛んだが走れぬ程では無い。油断無く彼の様子を覗いながら畳から腰を浮かす悦を、九尾の狐は止めるでも無く、藍色の瞳を柔らかく細めながら黙って見ていた。


「流れものだと言ってたな。行く宛てはあるのか?」
「…無いけど、此処より良い」

 微かに声が震えはしたものの、悦はきっぱりと言い切る。
 そうだ。例え何処であろうとも、この九尾の狐の塒よりはマシな筈なのだ。何を考えているかさっぱり読めない、この強くて狡猾で残忍な狐の傍に居るよりは。


「そうか。…まぁ、お前がそうしたいと言うなら止めはしねぇが」
「……」
「人里に下りるにしても、ここを越えるにしても、一度山からは下りた方が良い。此の辺りはお前には少し物騒だ」

 悦の無礼な物言いに機嫌を悪くした風も無く、狐は布団にゆったりと横たわったままそう言って、己の豊かな九本の尾をするりと撫でた。

「あぁ、あと今日は少し風が強い。枝の上を渡るなら、あおられて落ちねぇように気をつけて行けよ」
「…何考えてるんだ、あんた」

 考えるより早く、ずっと胸の内を渦巻いていた問いが口をついて出ていた。
 ん、という顔をして見返してくる藍色の瞳は深く呑まれそうで、幾ら相手が残忍で狡猾である事が当然の狐であると己に言い聞かせて見ても真摯に見えてしまう其れに、悦は堪らなくなってぐっと眉を顰める。


「俺の事を気に入ってる、なんて戯言を吐いてみたり、その癖逃げ出そうとしてる俺を捕えもせずに、案じているような素振りをしてみたり」
「さすが猫だな。疑り深い」

 楽しげな声と共に、その背中で九本の尾が愉快そうにゆらゆらと揺れた。睨むように見据える悦の視線など何とも思っていないのか、九尾は少しの間そうして尾を揺らし、機嫌の良さそうな声音で答える。

「お前の言う事も解らなくは無いが、俺がお前を気に入ったのは本当だ。序に吐いちまうと、何やかんやと気を回して見せたのは、本当は行かせたくないからだよ」
「っ…それじゃあ、縛りつけるなり足を折るなりすりゃあ良いだろうが」

 恥じる様子も無くあっさりと告げられた言葉に驚きながら、その動揺を悟られまいと低い声を出すと、九尾は藍色の瞳を少し困ったように細めた。

「狐ってのは狡くて残酷なもんだってのが相場だがな。惚れた相手にまでそんな真似をするほど、性根が腐ってるわけじゃぁねぇんだよ」
「ほ、惚れ…っ!?」
「そうじゃなけりゃぁ犯すかよ。雌ならともかく、縄張り荒らしの雄猫なんぞを」


 平然とした顔で言い放つ九尾狐の美貌を見つめたまま、悦は何も言えずに目を丸くした。
 まさかそんな。否、是までの九尾の物言いの中では一番納得が行く言葉だが、しかし、其れにしたって。

「如何、して…俺なんか…?」

 化ける程度しか能の無い、大して力も無い猫なんかを。
 思わずそう問えば、九尾はけらけらと笑って布団の上に胡坐をかいた。帯を巻いていない所為で着物は乱れ放題だったが、そんな姿ですら絵になる。

「生娘じゃあるまいし。惚れた腫れたに訳を問うのは野暮だぜ?」
「…っ…」

 そう言われてはもう何も言えない。言える筈が無かった。
 様々な想いが胸中で渦を巻き、そこに混じり合うのが何であるのかさえ判別出来ぬ悦の瑠璃の瞳が揺れる様を、九尾は暫く楽しげに眺めていたが、ふと気付いたように笑うとくしゃりと己の髪をかき上げた。

「…なに、今直ぐに俺の想いに答えてくれと言ってるわけじゃない」
「でも、…そんな」
「お前を犬みてぇに飼えるとは思っちゃ居ないさ。猫は家に懐くもんだろう?」

 薄い笑みを湛えながら首を傾げて見せる狐の背後で、九本の尾がたし、と畳を叩く。

「此処は俺が居るから、他の妖も獣も寄り付かない。腹ァ出して寝てたって俺に撫でられる程度の静かな処だ。其れに、この辺りはそろそろ寒くなる」


 腹を撫でられる、というのは物のたとえかとも思ったが、この狐なら本当にやりそうだ。

「冬の間、雪と寒気凌ぎにでもお前が此処を寝床に使ってくれるンなら嬉しいことだ。お前が何処に行ったって、俺が逢いに行くのに不都合はねぇが…是は目立つだろう?」

 最後の方は苦笑混じりに言って、九尾は己のふさふさとした尾を撫でる。
 確かに其れを見れば、彼の正体が九尾狐であると童でも解る。真実九尾が何処ぞの地に流れ着いた悦を追って来たならば、途端に悦は彼と共に居たという事でそこの妖共に畏れられ疎まれ、何をした訳でも無いのにとても厄介な事になるだろう。

 九尾はそれを案じてくれているのだ。しかし、そこまで解って居ながら尚も悦に逢いに来ると言う。

「…なんで、其処まで」
「お前に惚れちまったからだよ。…何度も言わせるな、流石に照れる」

 少しも照れた風も無くそう言って、九尾の狐―――傑は、呑まれそうに深い藍色の双眸で真っ直ぐに悦を見つめた。その瞳が余りにも優しく柔らかく、心底愛おしい物を見る時のようなそれであるように見えて、悦はきゅっと唇を引き結んだ。

 嗚呼、絆されている。

「……」
「……」

 無言のままに悦が畳の上を後ずさり、音も無く勝手に開いた戸口にその足を向けても、傑は何も言わず何もしなかった。
 ただ、悦が邪魔物の居ない静かな家の敷居を跨いだ時、


「気をつけろよ」


 振り返らぬ悦の背中に、傑は甘い声でそう言った。










「…少し早まったか」


 悦の気配が遠のくのを感じながら、傑は座り込んだ布団の上で苦笑混じりに呟くと、手櫛で己の髪をくしゃりと掻いた。
 こんなに真摯に愛を囁いたのも、そして振られたのも初めてだ。是まで其処等の妖よりも遥かに永くを生きて来たというのに、肝心の時に是では何とも情けない。

 悦は無事に山を下りられただろうか。森に巣食う雑魚のどれかに絡まれて居ないと良いのだが。

 千年を見つめた藍色の瞳の奥でそう思案しながら、傑は今朝早くに北に向けて文を持たせた天狗を呼び戻す為に、ちらりと天井を一瞥し、


「……?」

 その頭上の耳が、不可解な動きを察知してぴくりと揺れる。
 視線をやって閉じていた戸口を半分開かせると、其処にはつい先程この戸をくぐって出て行った筈の黒い尾を持つ猫又が、どこか所在なさげに視線を反らして立っていた。

「…如何かしたか?」

 出て行ったのでは無かったのか。まさか忘れ物という訳でもあるまいに。
 思わず布団から立ち上がり、目線で半分開いていた戸口を全て開きながら問うと、悦は視線を合わせぬままに敷居を跨いで畳に上がり、背中にしていた腕をぐいっと前に突き出した。
 その手の中には、

「…鰹?」

 立派な鰹が有った。半身だったが。

「詫びの代わりだ。…昨日、縄張りを荒らした」

 その食べかけだろう鰹の半身から視線を上げると、悦はやけに早口にそう言い、猫又の好物に違いないそれを傑の手に押し付けるようにして、傑の傍らをすり抜け座敷を奥へと進む。
 そして其処に敷かれていた夜具の上にころりと横たわると、まだ温かいそれを顔の半ばまで被って、布団の中でくるりと丸まった。

 その様を傑は半身の鰹を手にしたまま怪訝そうに見つめていたが、此方に背を向けて居る悦の尾が、布団からはみ出てゆらゆらと大きく揺れているのを認めてくすりと笑う。


「…一人寝じゃあ寒いだろ」
「…、…」

 鰹を文机に放って布団の傍らに跪いた傑に、悦は何も答えずぴくりと黒い耳を揺らし、声を出す代わりにもぞもぞと布団の中を少し動いて傑が這入れる程度の隙間を空けた。
 齢千年の九尾狐を湯たんぽ代わりとはいい度胸だが、傑は其れに怒るでも呆れるでもなく、柔らかく目を細めて促されるままに布団に這入る。

「…風が、」
「うん?」
「……風が強くて冷たい」
「…だろうな。此処はいつも、桜の頃まではこの調子だ」
「…寒いのは嫌いだ」

 ぽつり、ぽつりと呟くような悦の言葉にそうかと頷きながら、傑は柔らかい布団の中で悦の体をぎゅうと抱き締めた。
 回された腕に僅かに身を硬くした体は今まで外に居たとは思えない程熱く、また気配を辿っていた限りでは、全速力で走ったとしても体が火照る程の距離では無かったが、其の事を今気にするのは余りに野暮だ。



「じゃあ、暖かくなるまでは此処に居てくれるか?」
「……」
「……」
「…冬の間だけ、借りる」

 どこか拗ねたような声音で答える間も、傑の足元にある悦の二股に分かれた尾はぱたぱたと忙しなく動いていて、それが肌を掠めるのが少しくすぐったかったが、傑はしたいようにさせたまま抱いた悦の首筋に顔を埋めて囁く。


 …伊達に千年も生きちゃ居ない。山に雪が降るまでには、猛暑の最中でも出たく無いと思わせてやるさ。
 苦しく無い程度に確りと悦を抱いたまま、傑はそう思い、


「…ああ。それで充分だ」


 狡賢い狐らしく、その思いを声には出さずに呑み込んだ。



 終。



謹賀新年企画第一弾、『艶声』。
九尾狐な傑と、猫又悦の異種恋愛譚。

妖で獣化で時代物で着物で筆責めという、どう控え目に見ても重たい(萌え要素的な意味で)内容になりました。
しかし其れ程活用しきれていない。
如何やら私は、時代物になるとどうも長ったらしくだらだらと書かなければ気が済まない性質であるようです…

新年早々色々な意味で重たいですが、少しでも愉しんで頂ければ幸い。
本年もどうぞ拙宅を宜しくお願い致します。

Anniversary