「…なんかさぁ」
顎を付けていたテーブルにこてんと頬を預けながら、悦は瑠璃色の瞳をうっとりと伏せつつ呟く。
「落ちつくよな…」
「はィな…」
悦の右隣りに膝を抱えて座る幽利の声も、どこかまどろんでいるようにふわふわしている。
悦は世界唯一の犯罪斡旋機関“ILL”の登録者にして、壱級指定の賞金を掛けられた犯罪者。幽利にしても、その犯罪者がひしめく“ILL”で雑務をこなし、時に登録者を毒殺しているような危険人物、なのだが。
「「はぁ…」」
揃って幸せそうな溜息を吐く2人は、陽だまりの猫もかくやと言う程に完璧に気を抜いて和みまくっていた。
「……」
そんな2人の様子を、悦の対面に座る鬼利は手元の本から視線を上げてちらりと一瞥し、
「…行儀が悪い」
ぱらりと頁を捲りながら冷たく言い捨てられた言葉に、猫達(2つの意味で)は揃ってぴくりと肩を揺らす。幽利は素直に丸まっていた背筋を伸ばしたが、悦はテーブルに頭を乗せたまま、幽利の対面、自分の左隣に顔を向けた。
天板と足との間に挟まれた、正方形の布団。悦と幽利が肩まで被ってぬくぬくし、鬼利が行儀よく正座した膝の上に掛けて暖まっているその布団の、悦の左隣の辺からは、腰でも肩でも無く背中が伸びている。
「んぁ、俺?」
うつ伏せで肘を付いて上体を起こしている為に僅かに反り、黒い生地の下から惜しげもなくしなやかな背筋の陰影を晒している傑が、頬杖をついたまま鬼利を振り返った。
伸びた毛先をおざなりに紐で括っている為、露わになった傑のうなじを見た悦が少し頬を紅潮させつつ目を反らし、同じく目隠し越しにそれを見てしまった幽利もそっと顔を反らすが、指先で鼻梁の眼鏡を押し上げた鬼利は、悩殺物の色香をあっさりと黙殺して眉を顰める。
「お前以外に居るとでも?」
「いーじゃん、楽なんだよ。お前も足崩せば?」
「狭いんだよ」
「あー…幽利、ちょっと俺の足膝枕してー」
「足を膝枕ッて…よく解ンねェが、狭いッてェんならこっちに伸ばしちまえよ。俺ァまだ余裕が…」
「いいよ、幽利。…我が儘抜かしてんじゃねぇ傑、起きろ」
「へーい」
横にずれようとする幽利を制しながら少し低めた声で叱る悦に、傑はやる気の無い声で返事をしつつごろりと寝がえりを打った。床に広げていた雑誌を脇に退かしつつ起き上り、くしゃりと前髪をかき上げる。
「いやー、これは…」
後ろ手に手を付きながら、虚空を見上げて呟いた傑に、3人は揃って傑を振り返り、
「…落ちつくな」
ぼそりと呟かれた言葉に、各々の仕草で、揃って無言の同意を示した。
天板とそれを支える脚部が分かれ、その間に専用の布団を挟むこの特殊な“テーブル”は悦が通販で買った一品で、「こたつ」という名前らしい。
『異国より輸入した禁断の一品!』
『一度入ってしまったら最後、これであなたも駄目人間に!?』
…という、奇妙な煽り文句が気に入って面白半分に購入したものだが、昨夜届いて早速使って見たところ、その余りのぬくぬくほっこり具合にすっかり虜になり、ついでに同じブランドが出している着物(4人分)まで買ってしまった。
素晴らしいものは人に自慢したくなるのが世の習いというものである。年の瀬を迎え、珍しく暇の出来た鬼利共々幽利を引っ張って来て、そこに今年最後の仕事を済ませてきた傑も加わり、着物を着た4人が揃って仲よくこたつに当たる今の状況となっている。
「仁王から話には聞いていたけど、いいものだね」
「アイツ東方の出だよな?じゃあ広告の“異国”ってアッチ方面のことか」
「柳一君も確かソッチでしたよねェ」
「らしいね。カルヴァも愛用してるそうだよ、足の浮腫みを取るのに良いって」
「あぁ、足どころかあらゆる浮腫みが取れるだろーよ」
「…仁王サンも、やッぱこれに入るとのんびりするンですかねェ」
「するんじゃねーの?いくら鬼の仁王でも、このぬくぬく具合には勝てねーだろ」
「まぁなぁ…俺が勝ててねぇし」
「お前は入って5分で寛いでたもんな」
「フルパワーで寛いでましたねェ」
「勝ち負けっつーか争う気すら起きねぇよ。っつーか寝そう…」
「こたつで寝ると死ぬらしいよ」
「「えッ!」」
「なんでー?」
「脱水症状。設定温度次第では低音火傷もするだろうね」
「あー、そういう…」
「へェー…」
「ふーん……まぁ俺はイケるけど」
「…純血種って」
「狡ィ…」
「なー」
「ねェ」
「狡いってなんだよ…くたばる前に出りゃ無事なんだから、寝てーなら寝ろ。後でお姫様だっこでベッドまで輸送してやっから」
「おー、さすが純血種ー」
「…あ…あの、傑…」
「ん?…あぁ、お前も連れてってやるよ、大した距離じゃねぇし。鬼利は?」
「……」
目隠しの下で目を輝かせる幽利とは対照的に、鬼利は頁をめくる手を止めて傑を睨みつけるが、こたつですっかりまったりモードの傑は「ん?」という顔で首を傾げる。
「……」
…どうやら嫌味では無かったらしい。
寛ぎまくっている3人とは対照的に、鬼利は未だにぴしりと背筋を伸ばして正座をしたままだが、今度取り寄せようかと考えるくらいにはこたつを気に入っていた。
何しろ鬼利はこの4人の中で最も寒さに弱く、更に冷え症なのだ。そういう意味では最もこたつの有り難みを実感していると言えるだろう。
そんな、ある意味こたつに適合した体質の鬼利にとって、この暖かな布団の中でそのまま眠ってしまうというのは確かに魅力的だった。ベッドへの輸送システムも含めて。
…しかし、高い教養を持つ鬼利にはそんなだらしの無い真似は勿論出来ないし、常人でも脱水症状を起こしかねない状況で、この虚弱な体がどんな不具合を出すかも解らない。
それに傑にお姫様抱っこをされるのは、その、なんというか、考えただけで気持ち悪い。
「…僕は遠慮するよ」
「そう?…っつーかさぁ、お前」
「なに」
改まった傑の声にふと顔を上げた鬼利は、予想外に真剣な表情をしていた傑に、表情には出さずに少し驚いた。
一体何の話かと、頁を繰ろうとしていた手を思わず止めた鬼利に、傑は稀に見る神妙な顔で、
「…足、痺れねぇの?」
「……」
真面目に聞こうとした自分が馬鹿だった。
珍しく神妙な顔で何を言うかと思えば…、と呆れながら視線を本に戻そうとした鬼利は、そこでふと傑とは別方向からの視線に気付く。
再び顔を上げると、目の前の悦と左隣の幽利が、傑と同じような神妙な顔をして鬼利の返答を待っていた。
「…痺れないよ」
「少しも?」
「このくらいの時間ならね」
「このくらい、って…」
「…もう1時間は経ってますねェ」
「普通痺れるよな」
「…お前も痺れるの?」
「痛いとかはねーけど、違和感がハンパねぇから30分でギブ」
「あァ、俺もそンくらいだなァ」
「すげぇな、俺5分持たねぇよ」
「慣れだよ。こうして座る機会が多ければ自然と平気に―――」
「いや無理だって」
「そォいうプレイなら、俺ァなんとか…気が紛れりゃァ」
「血管が圧迫されて、って話だろ?そもそも。慣れっつーか神経死んでンじゃねぇのか、それ」
「後は…その圧迫がこォ、緩まれば」
「体重かけなけりゃいいのか。空気椅子…はしんどいから、痩せるとか…」
「あぁ、それでか」
ぽんと手を打ちそうな調子で言った傑の手が、何の前触れも無く鬼利の襟元を掴んでガバリと広げた。
「この体ならそりゃ軽ィだろ。…うーわ、肋骨見えて―――」
「……」
苦笑混じりに言う傑を、鬼利は無言で閉じた本の角でこめかみをぶん殴って黙らせた。相手が人間なら死んでもおかしく無い程容赦の無い一撃に、残りの2人が小さく悲鳴を上げていたが、鬼利はそれを自然に黙殺して、傑の手を引き剥がした片襟をテキパキと整える。
「ってー…」
「……」
「「……」」
こめかみを強かに殴られた傑が“純血種”の頑丈さで小さく呻きながら、特に鬼利に対する不満も言うこと無く復活し、凶行に及んだ鬼利が平然と凶器となった本の頁を捲り始めるのを見て、健全に仲良しの2人は揃って「何だかんだ仲イイよな、こいつ等」という目で頷きあった。
悦と幽利もイケナイ意味での遊びはするが、傑と鬼利の関係こそが世に言う正しい“悪友”というものなのだろう。
「…そーいや腹減ったな」
「あ…そォですねェ」
鬼利が読む本の残り頁数が半分ほどになった頃。頬をつけていた天板からむくりと起き上って呟いた悦に、傑から借りた雑誌を眺めていた幽利が、振り返ること無く背後の時計を“視”て頷いた。
集まった当初は夕日の差し込んでいた部屋も随分薄暗くなり、そろそろ夕食時という時間帯になっている。
「飯食ってけよ、幽利」
「イイんですかィ?」
「いーよいーよ、出たくねぇだろ?みんなで食べた方が美味いし」
「あ…」
こうして部屋に呼んでもらうことさえ、未だに幽利の中では海外旅行並みの大イベントなのだ。“友達”の悦と鬼利、ついでに傑まで揃ったこの面子での夕食は、忘れることのない幽利の膨大な記憶の中でもトップ5にランクインする楽しいものになるだろう。
凄く参加したい。
…が、残念ながらその決定権を幽利は持っていなかった。
「みんなで…」
言葉を噛み締めるように呟きながら、幽利はちらりと双子の兄を覗う。ふたりの中での決定権は常に鬼利にあり、鬼利が帰ると言えば幽利はそれに従うしかないのだ。
懇願するような幽利の表情からそのことに気付いた悦が傑と顔を見合わせ、事情を察した傑と悦、そして幽利の都合3対の瞳にじぃーっと見つめられた鬼利が、ぱたんと本を閉じる。
「…御迷惑で無いのなら、お呼ばれしようかな」
「うん」
困ったように笑いながら答えた鬼利に、傑が何かを察した顔で小さく笑い、悦と幽利が満面の笑みで「よかったー」と頷きあった。本を閉じるものだから、てっきりこのまま帰るつもりかと思ったのだ。全く思わせぶりなブラコンである。
「カルヴァから餅貰ったんだけど、食える?」
「もち?」
「あー…米あるだろ、あれをこう、すり潰して叩きのめしたやつ」
「…米の断末魔が聞こえそうな説明だね」
「それに黄粉とか砂糖醤油とか餡子つけて食うんだよ」
「へェ…!」
「俺は黄粉が好きなんだけど…」
そこでふと言葉を区切り、悦はこたつ布団を肩まで被った体勢のまま、少し物憂げな表情でキッチンを見た。
「出たくねぇ…」
「あぁ…」
「…確かに」
「寒ィってワケじゃねェんですけどねぇ…」
「なんか離れたくねーよな…」
再びこてんと頭を天板に預けながら、悦はこたつの暖かさを名残惜しむように目を伏せ、不意にぱちりと開く。
「傑、よろしく。俺黄粉で」
「あ…じゃァ、俺も同じので」
「磯辺焼き」
「…今出たくねぇって話してただろーが、何だよその団結力」
「いーじゃん、お前は別に40℃でもマイナス60℃でも平気だろ?」
「人間はそォはいきませんからねェ」
「磯辺焼き」
「あー…はいはい、黄粉な」
「磯辺焼き」
「何回言うんだよ。その上一番面倒くせぇの注文しやがって…海苔は炙るか?」
「勿論」
「はいよ」
澱みない注文に苦笑しながら傑は1人こたつから立ち上がった。粋に崩した黒い着流しの襟を少し直しながら、ぺたぺたと素足でフローリングを踏んでキッチンへと向かう。
「あ、傑。ついでに鍋の甘酒も暖めて持って来て。お汁粉も」
「泪サンに貰った蜜柑、冷蔵庫に入れてあッからそれも…」
「酒はそのままでいいよ」
「お母さんか俺は!」
正方形の天板の中央には、籠に盛られた蜜柑。
大皿に山積みになった黄粉餅、炙った海苔が香ばしい磯辺餅、湯気を立てる2つの小鍋にはお汁粉と甘酒。窓辺で冷やされていた清酒の瓶、熱燗の徳利。小皿にはあての漬物と、山葵で和えた生蛸が並んでいた。
俗に言う、寛ぎフルコースである。
「これ、ッて…お酒ですか?」
「や、酒粕入ってるってだけで…ノンアルコールカクテルみたいなもん」
「つき立てなのかな?凄く、伸びるね」
「喉詰まらせて死ぬなよ、虚弱体質」
「あ…美味しい…」
「酒がダメならこっち飲んどけよ。お汁粉いる?」
「熱燗の適温って何度なんだろうな」
「好みだよ。温燗、なんて言葉もあるくらいだからね」
「粒あんって、皮が残ってる程度だと鬱陶しいけど粒丸ごとだと美味いよな」
「ドロドロになっちまってるよりは、こォ、ちょっともったりしてる方が嬉しいですねェ」
「温燗って言葉は正直どうかと思うけどな」
「確かにパラドックスが発生してるけど、言い出したらキリが無いよ」
「なンか…イイですねェ、体ン中からぽかぽかして」
「和むよなー…あ、俺にも熱燗ちょうだい」
「ん、…例えば?」
「“カッコカワイイ”とか。Fから聞いた時は記号の“括弧”かと思ったよ」
「なぁ、ゆーり。ちょっと……」
「なンですか?……」
「ジェネレーションギャップってヤツか。…うわ、自分で言ってて凄ぇ虚しくなった」
「虚無感がね…そういうのは直視しないに限るよ」
「っふ、ふふ…っくすぐったいですよ、旦那ァ」
「ちょっと我慢しろって、………」
「……」
「…放っといていいよ」
「…で………らしくて、…………」
「え……えェ……っ………ちょ、それは…」
「蛸わさってちょっとグロいよな」
「脳漿に似てるね」
「山葵の緑が引き立てるよな、よくない方向に」
「美味しいけどね」
「なー」
こたつに着物にフルコースという、至れり尽くせりの状況で各々がフルパワーで寛ぎながら、夜は更けて行く。
…そして、大皿の料理が粗方無くなり、酒瓶が5本、甘酒の鍋が1つ空いた頃。
「ふーん…新解釈ねぇ…」
「ロイアス定理からのルーマン仮説への繋げ方には少し無理があるけど、それを除けばいい線だと思うよ」
「五次元仮説はまだ無理だろ、今の状況じゃ」
「まぁね。革新を、とは言っているけど未だ机上を出る物では無い」
「あ…ゆーりぃ、ほっぺた」
「へ?」
「きなこついてる」
「あ…すンません、ちょっとお手拭きを…」
「ん、いーよ、ちょっとじっとして…」
北方の言葉で書かれた難しい学術書を前に、冷酒片手に小難しい話をしている傑と鬼利を後目に、悦はほんのりと頬が染まった顔を幽利に近づけた。
酔いの所為で熱くなった指先を幽利の顎に添えてこちらを向かせ、何気ない仕草で幽利の頬、についた黄粉をぺろりと舐める。
「だ、旦那…!」
「動くなって、ほら…」
「……」
「…傑、ティッシュある?」
「あー…こっちにはねぇわ。お前さっき使ってたろ、そっちは?」
猫が毛づくろいをするように黄粉を舐め取る悦と、戸惑いながらもされるがままになっている幽利に揃ってやれやれという表情をしながら、傑と鬼利はこたつ布団に半ば隠れていた箱からティッシュを数枚を抜き取る。
ほらこれで拭きなさいと、完全に保護者の心境でティッシュを差し出そうとした傑と、それを目で追った鬼利の動きは、だが互いの恋人を見てぴたりと止まった。
「ん、ん…ふ…っ」
「はっ…ぁむ…ん…ッ」
2人が目を離した数秒の間に、ちょっとエッチな戯れ、程度だった悦と幽利の行為は、厭らしい水音をたてるキスへと発展していたのだ。しかも傍目に見て解るほどガッツリ舌を絡めている。
静かにティッシュを持った手を下ろした傑と、箱を床に戻した鬼利の内心は、その時完全に同調していた。
曰く―――何故そうなる。
「…アレか」
「あと、コレだな」
それぞれ空になった甘酒の鍋と、熱した所為で酒の匂いが強くなった熱燗の徳利を見ながら呟き、傑と鬼利はちらりと互いを一瞥する。
「……さて、そろそろ僕達はお暇するよ」
「だってよ」
一度のアイコンタクトで全てを理解しあった2人は、未だ続くキスシーンには全く気付いていないような素振りでそう言うと、鬼利は裾を払ってその場に立ち上がり、傑は空の徳利を持ってキッチンへと向かった。
「ん、……えー…泊ってけばいーのに」
「流石にそこまでお世話になるわけにはいかないよ」
「そっかー…だって、ゆーり」
「ですねェ…旦那も、おいそがしいでしょォし」
「おやすみー」
「おやすみなさァい」
「…幽利」
呂律の怪しい声で互いに挨拶しつつ、放っておけばそのまま“おやすみのキス”をしそうな2人を、背を向けたままの鬼利の声が遮った。
「…はァい」
「御馳走さま。来年もよろしく」
「おー」
「よろしくぅー…」
ごろりと寝転がった悦の気の抜けた挨拶に律儀に軽く頭を下げ、鬼利は足元の覚束ない幽利を伴って部屋を出て行った。
Next.
